新宿停車場の西口を出ると、少なくとも1910年(明治43)まで淀橋浄水場との間に、東側がまるで丸山ないしは摺鉢山と名づけてもよさそうな、こんもりと繁った小山が目の前にあった。この小山は、当時までクッキリとした“鍵穴”型をしており、後円部の直径は約70~80m、前方部の長さは約50~60mほどで、現在の新宿駅西口バスターミナル前にある明治安田生命新宿ビルの敷地から、新宿郵便局の敷地に丸ごとかぶり、工学院大学のキャンパス南東部あたりまでつづく巨大な墳丘だった。ただし、古墳の上部は平らに削られ、上野摺鉢山古墳Click!と同様に後円部の墳頂が、庭園の見晴台のように整備されていた可能性が高い。それは、松平摂津守下屋敷だった江戸期からか、あるいは明治以降の工作かは不明だ。
 新宿角筈古墳(仮)Click!の突起地形は、1918年(大正7)の1/10,000地形図で確認すると、杉浦重剛が創立した日本中学校の建設予定地として整地化が進み、主墳のかなりの部分が削られ、墳丘の北側にあった陪墳のいくつかと、主墳西側にあたる前方部の一部のみが残されているのがわかる。また、女子学院高等科(1918年当時はすでに東京女子大学)のキャンパス内に残された陪墳と思われる1基が、そのままの状態で保存されていた。
 さらに、1922年(大正11)の同地形図では、主墳の一部で残されていた西側の前方部も完全に崩され、新たに道路が敷かれ建物が建設されている。日本中学校は1916年(大正5)9月に校舎が竣工しており、その北側には陪墳のみがわずか3基ほど残されるだけとなっている。また、1932年(昭和7)の地形図になると、唯一、東京女子大学(旧・女子学院高等科)の敷地内に、やはり陪墳とみられる1基が確認できるだけとなってしまった。そして、前方部があった東側には、工学院(現・工学院大学)が新たに建設されている。
 しかし、その後しばらくすると日本中学校の校舎が移転し、角筈94~100番地の一帯は土がむき出しの更地となってしまう。同中学校は1936年(昭和11)4月に、世田谷区の松原へ校舎ごと移転している。まさにそのタイミングで、1936年(昭和11)に陸軍の航空隊により空中写真が撮影されたのは幸いだった。墳丘が崩され整地されたとはいえ、更地になった中学校跡の地面の突起は痕跡を残しており、写真にはきれいなサークル跡とともに、巨大な前方後円墳の痕跡をハッキリと確認することができる。後円部は現在の西口広場西端あたりから、前方部が工学院の校舎に接する位置まで、東西に長く伸びているのが見てとれる。
 また、防火帯31号線(建物疎開)Click!によるものか、あるいはそれ以前に駅周辺の建物が意図的に解体され広場化されているのかは不明だが、1945年(昭和20)1月に米軍のB29偵察機が撮影した空中写真には、新宿角筈古墳(仮)の巨大な後円部サークルが“復活”しているのが見てとれる。これは、地面から盛り上がった台地状の凸地を避けて、サークルの周囲あるいは土手上に建物が建設されているとみられ、そのかたちが期せずして後円部墳丘の正円形になってしまったものだろう。
 

 
 女子学院高等科が設置される以前、その前身であるサナトリウム「衛生園」や看護婦養成所の校舎が建設される際に、古墳(陪墳)の遺構や副葬品と思われる遺物などが出土したという記録はない。また、巨大な前方後円型の主墳が日本中学校建設のために破壊されたときもまた、行政や教育機関により調査が行われたという記録は見あたらない。衛生園=女子学院のケースは、キリスト教系の施設にとって異教徒の「野蛮」な宗教や習俗などをベースに、1500~1600年ほど前の大昔に築造された古代の墳墓など、破壊・抹殺して当然の感覚だったろう。
 また、後者のケースは、蛮族の「坂東夷」が跋扈していたはずの、江戸東京地方はおろか関東全域に、多数の陪墳をともなう大王クラスの巨大古墳Click!があちこちで確認・発掘されては、ことさら近畿地方以外を「辺境」として「日本史」全体を矮小化し貶める、明治政府の皇国史観Click!上ではあってはならない存在だったからだろう。おそらく、当時の行政や教育関係者に“気づき”はあっても、他の多くのケースと同様に見て見ぬふりをして、積極的な発掘調査にはいたらなかったと思われる。もし、芝丸山古墳を発掘した坪井正五郎Click!の帝大チームが、あるいは大正期の鳥居龍蔵Click!のチームや、「天皇陵」を発掘調査した学習院考古学チームClick!が、新宿停車場の同古墳に気づいて調査を行っていたなら……と思うと、たいへん残念でならない。
 このテーマは角筈94~100番地、すなわち新宿駅西口の真ん前だけにとどまらない。なぜなら、淀橋浄水場の建設工事を記録した明治期の写真を細かく観察すると、あちこちに人工的と思われる大小の塚状の突起がとらえられているからだ。しかも浄水場の北西側、淀橋~柏木(現・西新宿~北新宿)にかけては、神田川(旧・平川Click!)の河岸段丘斜面が広くひらけており、関東における古墳造営の好適地だったことがわかる。早稲田から大久保一帯までつづく、「百八塚」Click!伝承からはやや離れており、新宿角筈古墳(仮)は戸塚(十塚・富塚Click!)に由来する「百八塚」の範疇には入らないかもしれないのだが、神田川の河岸斜面や段丘上に展開した大小さまざまな古墳が、膨大な拡がりを見せていたことを想定できる痕跡だといえるだろう。




 もうひとつ、新宿角筈古墳(仮)の北東部には、女子学院のキャンパスと専売局工場の敷地にかかる、巨大なサークル痕が見てとれる。新宿角筈古墳(仮)とは異なり、地図上では明確な突起はすでに確認できないが、空中写真で観察すると土手状になった多少の凸地でも残っているのか、樹木がきれいな円弧に沿って生えているのが見える。新宿角筈古墳(仮)と比べても、このサークルはケタちがいに大きく、直径はゆうに100mを超えていそうだ。「百八塚」の流れで勘案すれば、このサイズは上落合にみられた巨大なサークル跡Click!や、下落合駅前の下落合摺鉢山古墳(仮)Click!に匹敵するクラスだろう。
 また、同サークルが古墳だったとすれば、新宿角筈古墳(仮)からひとつ離れて築造された、女子学院内の陪墳と思われる塚の存在にも、整合性のとれる説明がつくことになる。すなわち、同学院の陪墳は南側にある新宿角筈古墳(仮)のものではなく、昭和期にはサークルの痕跡を残すのみとなった北東側の、より大きな前方後円墳ないしは円墳に寄り添う陪墳の可能性が高いということになる。残念なことに、この巨大なサークル痕が残る区画は、山手線による新宿停車場の設置や専売局工場の建設とともに、かなり早くから拓けていたようで、古い時代の写真は残されていない。いずれにしても、古墳期の南武蔵勢力Click!を担った大王の墓所のひとつなのだろう。
 さて、現在の新宿角筈古墳(仮)の跡がどのようになっているのか、実際に歩いてみることにした。まさか、古代の巨大古墳の痕跡を求めて、新宿駅西口を散歩することになろうとは、夢にも思っていなかった。そこは、目の前に東京都庁をはじめ超高層ビルが林立する、都心の真っただ中だ。ところが、女子学院の校舎や陪墳と思われる塚状の突起があった敷地、つまり現在のコクーンタワーのある東京モード学園から新宿郵便局へ向けて歩いていくと、いまだに台地状になった坂道になっていることに気づく。ほとんど平地のように地面は均されているが、微妙な地上のふくらみが残っているのだ。
 このふくらみは、ちょうど新宿角筈古墳(仮)の前方部や後円部があった墳丘、つまり新宿駅西口の明治安田生命新宿ビルから新宿郵便局にかけてがピークであり、北側はコクーンタワーへ、東側は西口にかけてやや下り、また西側は工学院大学やエステック情報ビルのほうへ向けて微妙に下っている。おそらく、日本中学校が建設される際、墳丘の土砂を東西南北の四方へ散らす土地造成法を用いているのだろう。ただし、同中学の建設工事が行われた1916年(大正5)現在では、おそらく校舎や校庭はいまだ土手のようになった台地状の上に建設されている。それは、1945年(昭和20)の空中写真に見られるように、この台地状になった中学跡を避けて家屋が建設され、後円部のサークル跡が改めて“復活”していることでも明らかだ。このエリアが、現在のように注意しないとわからないぐらいの、なだらかな坂上の敷地へと造成し直されたのは戦後のことだろう。
 
 

 女子学院の高等科へ通った相馬俊子は、同学院のキャンパス南側に草原つづきでそびえていた「津ノ守山」=新宿角筈古墳(仮)を、おそらく入寮と同時に認識していただろう。講義のない休日には、クラスメートといっしょに丘上まで散歩に出かけたかもしれない。ときに、娘の顔を見に訪れた相馬愛蔵・良(黒光)や妹の千香とも、中村屋のパンで作ったサンドイッチの入るランチバスケットを手に、ハイキング気分で見晴らしのいい後円部の丘に登っているのかもしれない。だが、彼らが受けた明治政府の皇国史観教育では、自分たちの足もとに眠っているのが江戸東京地方に残る大王クラスの巨大古墳であるとは、ゆめゆめ気づかなかったのではないだろうか。

◆写真上:新宿角筈古墳(仮)後円部の、いまでも残る墳丘の痕跡と思われるふくらみ。右手は、北側の東京モード学園(コクーンタワー)へと下るなだらかな坂道。
◆写真中上:上は、陸地測量部1/10,000地形図にみる1918年(大正7/左)と1922年(大正11/右)の同古墳。中は、1936年(昭和11)の日本中学校が世田谷へ移転直後に撮影された敷地がむき出しの空中写真。下は、1945年(昭和20)撮影の同古墳跡(左)と、1947年(昭和22)撮影の東京女子大学跡に残る陪墳跡(右)。
◆写真中下:上は淀橋浄水場の建設前に撮影された明治中期の風景で、中上は建設直前に撮られた測量の様子。いずれの写真にも、人工的と思われる大小の塚状突起があちこちに見える。中下は、1916年(大正5)ごろの淀橋浄水場で右手に巨大な新宿角筈古墳(仮)がとらえられている。なお、この写真は同年発行の『東京ガイド』(写真通信会)には左右が逆の裏焼きで掲載されている。下は、大正期に撮影された同所だが、すでに墳丘上部が造成で削られているのか古墳の規模からすると後円部の高さがかなり足りない。
◆写真下:上左は、北側の通りから墳丘跡へとつづく上り坂。上右は、墳頂あたりから東側の新宿駅西口へとやや下る様子。中左は、墳丘が連続していた後円部あたりから淀橋浄水場跡(現・高層ビル群)を眺めたところ。中右は、陪墳群が連なっていた新宿駅西口広場から北側の通り。下は、新宿角筈古墳(仮)を現在の空中写真で比定したイメージ。