4月に入り、73年前の1942年(昭和17)4月18日に起きた、ドリーリットル隊による東京初空襲の記事Click!をアップしたところ、蒼空社の志村裕子様よりご連絡をいただいた。学習院大学の学習院生涯学習センターClick!で講師をしておられる猪狩章氏Click!が、母校である早稲田中学校の被害の様子を随筆に書かれ、2014年(平成26)9月に刊行された同センター講座の文集『蒼空』第10号に掲載されていることをお教えいただいた。
 さっそく、志村様より『蒼空』10号(テーマ特集「私の昭和史」)をお送りいただき、また同講師の猪狩章氏からも引用許可の快諾をいただけたので、きょうは被爆した早稲田中学校側の当時の状況について書いてみたい。まずは、東京に初空襲があった翌日、1942年(昭和17)4月19日の東京朝日新聞から引用してみよう。
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 帝都をはじめ京浜地方上空へ侵入を企図した敵機が午後零時半ごろ、数方面からその姿を現したと見るや、手ぐすね引いた対空射撃部隊は一斉に火を吐き、一発必墜の弾幕を張る。これに呼応して帝都防衛の哨戒機は壮烈な空中戦の火ぶたを切る――われらが上空に敵機が現れたのだ……すでに戦闘配備についた官防空陣から各地警防団、特設警防団、隣組防空群にいたるまで、……「空を護れ」と鉄火の火柱となり、本土は防空必勝を期する一塊の闘魂と化した。かくて空、地両航空部隊の猛反撃を受けた敵機群はあるいは燃え、あるいは墜ちて撃退され、まもなく空襲警報は解除された。午後2時の東部軍司令部発表によれば、墜された敵機は9機に上り、国土防衛に凱歌をあげた。
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 まるで、講談師が記事を書いているような調子のよい表現なのだが、この東京上空における「9機撃墜」は同空襲が話題になるたびに、うちの親父も「クウキ(空気)撃墜」といっていたように、東部軍管区によるまったくのデマ(虚偽)発表だったことは、以前の記事でも触れたとおりだ。
 さて、ドーリットル中佐が乗った1番機(2344機)は、フーバー中尉の2番機(2292機)とともに、隅田川沿いの尾久や荒川地域に展開する工業地帯を爆撃したあと、ドーリットル中佐の1番機は水道橋の神田川沿いにあった東京第一陸軍造兵廠を爆撃する予定だったが、まったくそのようなコースを飛んでいない。1番機は、尾久を爆撃するはずだった2番機とも、おそらく上空で合流できておらず、当初の爆撃計画とはまったくちがうコースを飛行している。
 そして、神田川(当時は旧・神田上水)らしい市街地を流れる河川を発見したときには、1番機(2344機)の飛行コースは予定よりも大きく西へとズレていたと思われる。そして、眼下には神田川の南側に密集して展開するビル群、早稲田大学のキャンパスが見えていただろう。なぜ、ドーリットル中佐が乗る1番機(2292機)が、当初の計画に含まれていなかった早稲田中学校などを爆撃しているのかは、先年米国の公文書館から公開された、きわめて不正確な爆撃地図に原因があるように思える。


 では、『蒼空』第10号の巻頭に掲載された、猪狩章氏の「ドゥリトル東京初空襲の日、先輩は校庭で直撃弾を受けた」から、引用してみよう。
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 二か月前の二月十八日、「大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会」が開かれ、酒・菓子・あずきなどの「特配」を受けていた人々は、白昼、突然低空で現れたB25を、まさか空襲の米軍機とは思わなかった。/東京周辺に向かった十四機中、十三番機が横須賀軍港を攻撃し、残り十三機が東京上空に侵入した。それらは荒川、王子、小石川、牛込、品川、葛飾と分れた。牛込方面に飛んだ一機は、爆撃しやすい目立つ建物を探していた。そして、「それ」が視野に入った。早稲田大学の大隈講堂である。/機は大隈講堂に接近すると焼夷弾を投下した。しかし、乗員の練度が低かったのだろう、弾は南へ二百メートルほどずれ、隣接する早稲田中学校の校庭に落下、炸裂した。たまたま校庭に出てきた四年生(旧制)の小島茂さんが即死した。東京初空襲、その初の死者であった。
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 このとき投下された焼夷弾は、のちに日本空襲に投入されるM69集束焼夷弾とは異なり、ヨーロッパの空襲で多用されていたエレクトロン焼夷弾と呼ばれるものだ。炸裂して飛び散った六角筒のひとつが、校庭にいた中学生を直撃したと思われる。
 前回の記事でも書いたが、公文書館で公開されたドーリットル隊の爆撃コースと、実際の爆撃場所、そしてB25が地上から目撃された位置とがまったく合致していない。ベースとなる東京の地図を確認すると、鉄道の駅名や地名が実際の位置よりも西へ大きくズレているのがわかる。これがそもそも、目標を大きく勘ちがいしてドーリットル隊が軍事目標を見誤り、“誤爆”を繰り返した大きな要因のように思える。



 また、同時に公開されたドーリットル隊撮影の空中写真には、前回ご紹介した横須賀を爆撃する13番機(2247機)が撮影した2枚の空中写真のほかに、田園地帯を爆撃する不可解な3枚の写真が含まれている。写真には、遠くに蛇行する大きめな川が流れ、眼下には森と田畑しか存在しない場所で、どこかの都市の郊外だと思われるのだが、ドーリットル隊のいずれかの機は、田畑の真ん中にあった役場または分教場(?)と思われる施設を爆撃している。この一連の写真は従来からあまり公表されておらず、およそ軍事施設などありそうもない場所へ500ポンドと思われる爆弾を投下しているのだが、ここにもなにか大きな錯誤がひそんでいそうだ。
 1942年(昭和17)4月の当時、日米開戦直後の米軍は偵察機による詳細な空中写真など持ち合わせていなかったため、既存の地図から慌ただしく作戦計画を立てざるをえなかった。しかし、そのベースとなった地図自体がきわめて不正確だったため、軍事目標の位置を大きく取りちがえていた可能性が高い。その結果、軍事施設への「精密爆撃」Click!を行なうはずが目視誤認による錯誤が次々と生じ、多くの民間人をまきぞえにして殺傷する誤爆を繰り返したのではないか。
 以下、『蒼空』10号掲載の猪狩氏作品から引きつづき引用してみよう。
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 去る【2014年】五月二十二日、私たち早稲田中学校五十八回卒業生の喜寿記念同期会が開かれ、ひさしぶりに母校を訪れた。そして、構内の芝生の上に「いのり」と題された碑を見つけた。天に向かって身もだえするような、小島さんの旧友工芸作家【洋画家・佐竹伊助】による造形である。/説明文を読むと、碑は小島さんの同期四十六回生たちの努力でつくられ、小島さんの死からちょうど四十一年後の昭和五十八年(一九八三年)四月十八日、同じような青空の下、除幕式と記念の会が行われた。私たちの恩師で、式当時教頭をされていた橋本喜典先生は<「いのり」の碑によせて>として、
 青空を裂きて降りし焼夷弾に少年殺されぬ
 この校庭に
 生きて居らば五十七歳
 校庭の隊伍の中に居らずや君は
 と詠み、悼んだ。それからすでに三十一年。戦争を知らず、また、学ぶ気もなさそうな首相が、戦争をたやすいことのように見る政治を展開している。(【 】内引用者註)
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 ドーリットル隊による空爆で、実際にどれほどの被害が出たのかは現在も不確定のままだ。これは空襲当日から、軍による徹底した緘口令が敷かれ、空襲の被害を口外する人間は容赦なく検束されたことによる。また、証言者がその後の徴兵や空襲で、死亡しているせいもあるだろう。戦後の聞きとり調査では、死者約90人、重軽傷者約460人(うち重傷者153人)、家屋全半焼289戸と記録されたが、この数字さえいまだに流動的だ。当時は各家庭に防空壕の備えさえなく、爆弾や焼夷弾が至近で爆発すればひとたまりもなかった。

◆写真上:早稲田中学校の芝庭に建立された、洋画家・佐竹伊助による「いのり」の碑。
◆写真中上:上は、1942年(昭和17)4月19日の読売新聞朝刊。下は、空母「ホーネット」艦上で撮影されたドーリットル隊の1番機(2344機)。B25は機体を格納庫に収容できないため、飛行甲板から海へ滑り落ちないようロープで固定していた様子がわかる。
◆写真中下:米公文書館が公開した、ドーリットル隊撮影による3枚連続の爆撃写真。場所は不明だが、田園地帯の役場か分教場のような施設を爆撃しているように見える。
◆写真下:上左は、1942年(昭和17)に内閣情報局発行の『写真週報』218号に掲載された爆撃直後の早稲田における消火活動。上右は、学習院生涯学習センター猪狩講座の『蒼空』第10号。中は、早稲田中学校の爆撃で即死した小林茂(享年16歳/左)と、追悼碑「いのり」が表紙になった1983年(昭和58)7月発行の早稲田中学校「校友会会報」72号の表紙(右)。いずれも、『蒼空』第10号の猪狩章氏による「ドゥリトル東京初空襲の日、先輩は校庭で直撃弾を受けた」より。下は、爆撃から73年が経過した早稲田中学校の現状。