先に相馬俊子が女子聖学院卒業とともに進学した、新宿駅西口の淀橋町角筈101~109番地にあった女子学院高等科Click!(現・東京女子大学)を調べていて、その南に接した大型の前方後円墳・新宿角筈古墳(仮)Click!について書いた。前半が中村彝Click!をテーマにした文章で、後半が大正初期まで通称「津ノ守山」と呼ばれた規模の大きな古墳についての記述がつづく、統一感のない妙な拙記事だ。
 それ以来、中野と新宿(柏木地域)の境界を流れる、神田川(旧・平川/ピラ川=崖川Click!)の東側斜面および段丘上が、気になってしかたがなかった。なぜなら、柏木地域には成子天神社とともに、富士講Click!の講中が築造した成子富士があるからだ。古墳の上に溶岩を盛り上げて、富士塚Click!が築かれる例は都内で枚挙Click!にいとまがない。新宿区内では、早稲田の高田富士Click!や上落合の落合富士Click!、西向天神社に接した東大久保富士も、前方後円墳の後円墳頂や円墳上に築かれている。
 そのような周囲の経緯や事績、状況を意識しつつ、下落合の「丸山」Click!や「摺鉢山」Click!といった古墳由来の字(あざな)が残っていないかどうか、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所)を調べていくと、はたして江戸期には柏木村成子町(柏木成子丁)と呼ばれたころから大正期ごろまで伝わったとみられる、「天神山」という字のあったことが判明した。古代史に興味がおありの方なら、すぐにピンときて気づかれると思うが「天神山」や「稲荷山」、「八幡山」など社(やしろ)名+「山」を合成した名称もまた、典型的な古墳地名だ。
 それは、おもに平野部において、社の境内にできるほどの大きな古墳へ、のちの時代に墳丘を加工Click!することで社殿や参道が設置され「聖域」化されて、後世にそう呼ばれるようになったという経緯だ。新宿角筈古墳(仮)が、松平摂津守の下屋敷にちなんで「津ノ守山」と呼ばれたのに対し、成子町の場合は1100年以上も前から天神社が設置されていたため、「天神山」とよばれたのだろう。境内に残る明治辛丑年(明治34)に建立された、菅公会長の石碑にも登場している。以下、『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
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 (前略) 不勝思慕 遂建祠祀之 日夕盡如在之礼 降迨戦国 数罹兵焚祠宇蕩然
 独天神山存旧称耳 元禄中里民胥謀 再造社殿 歳時奉祭以為守土之神 (後略)
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 ただし、菅公を主柱にしたのは後世ではないかと思われ、それ以前には第六天神Click!、すなわちカシコネとオモダル以前の古い神々が奉られていた可能性が残るのだが……。
 石碑に登場する天神山の事績については、現在の成子富士の前に建てられた解説プレートにも見えている。だが、成子富士のベースになったと思われる古墳は、せいぜい直径が20~30mほどの「塚」レベルで、「山」と呼ぶにはあまりに小さすぎるのだ。この規模は、落合富士に改造されていた浅間塚古墳とほぼ同じ規模で、上落合に残る「大塚」という小字を勘案すると、あまりにも小さすぎることはこれまでにも何度か記事Click!に書いてきた。ましてや「山」とつくからには、それなりの規模と高度がある地表からの盛り上がりがなければ不自然なのだ。
 おそらく、柏木成子地域に「山」があったとすれば、江戸期か明治の早い時期には崩されて開墾されたとみられ、1909年(明治42)の1/10,000地形図と翌1910年(明治43)の修正図、また1922年(大正11)の1/3,000地形図にも、成子富士の突起のみで地面の盛り上がりは採取されていない。

 
 「天神山古墳」は、全国各地で数多く展開する古墳名称だが、たとえば群馬県の太田天神山古墳Click!は墳丘長が220mをゆうに超える巨大な前方後円墳だし、同県の前橋天神山古墳や千葉県の姉崎天神山古墳も130m前後の大型前方後円墳だ。また、奈良県の大和天神山古墳は115mで岡山県の牛窓天神山古墳は90m弱と、いずれも中規模以上の前方後円墳のサイズとして知られている。これらの天神山という名称は、もちろん後世に天神社が墳丘ないしは丘麓へ奉られたことに起因しているのだが、これら全国のケーススタディに比べ、柏木成子町の天神山はあまりに規模が小さすぎると感じるのだ。天神山ではなく、「天神塚」と称されてしかるべきサイズにしか見えない。
 大型の前方後円墳とみられる新宿角筈古墳(仮)を、地形図で見つけていたわたしは、その800mほど北西にある成子天神社の富士塚に、ひとつの仮説を立ててみた。それは、ちょうど新宿角筈古墳(仮)の北側に隣接していた女子学院高等科のキャンパス内に、戦後まで庭園の景観としてたったひとつだけ保存されていた陪墳とみられる、成子富士と同規模の円墳(小型の前方後円墳ないし帆立貝式古墳の可能性もある)と同じように、陪墳のひとつが成子天満宮(江戸期の呼称)の境内、あるいは岡田将藍抱屋敷の庭園築山として保存され、後世に富士塚へと改造されているのではないかという想定だ。
 換言すれば、成子天神社に成子富士として残る円墳とみられる直径20~30mほどの塚は、天神山と呼ばれた本来の主墳の後円部外周に寄り添う陪墳のひとつではないか?……という想定だ。この仮説を前提に、関東大震災Click!の直後から東京各地の焼け跡を探索し、寺社の境内にされている数多くの古墳を発見した鳥居龍蔵Click!にならい、敗戦後の焦土を撮影した米軍の空中写真から、なにか探れるのではないかと考えた。新宿駅周辺は繁華な街だったせいか、米軍は1947年から1948年にかけ、爆撃効果測定用に繰り返し空中撮影を試みている。
 その画像を観察していると、敗戦直後に撮影された1947年(昭和22)の米軍写真に、青梅街道に接するような位置から成子富士の手前までのびる、明らかに土面の色が異なるかなり大きなかたちを見つけた。青梅街道側に前方部が接し、後円部の西側に成子天神社の拝殿・本殿が含まれるほどのサイズで、南北に長く連なる巨大なフォルムだ。新宿角筈古墳(仮)と同様に“鍵穴”型をしており、後円部の外周域に陪墳とみられる、成子富士を含む塚やサークル痕が連なっているのがわかる。この配置デザインは、新宿角筈古墳(仮)や芝丸山古墳Click!とまったく同様だ。サイズからして、墳長が160~170mほどはありそうで、新宿駅西口にある新宿角筈古墳(仮)のサイズを大きく凌駕している。
 
 

 もうひとつ、この古墳とみられる痕跡には大きな特徴がある。それは、前方部が細長くタテにのび、まるで三味線のバチのような形状をしていることだ。このフォルムは前方後円墳の出現期、すなわち3世紀までさかのぼるもっとも古い同古墳の形態だ。従来は、奈良県桜井市の箸墓古墳がこのかたちをしており、3世紀のもっとも古い前方後円墳だと規定されてきた。換言すれば、前方後円墳の出現・発祥はナラが最初であり、それが全国へ展開した……と説明されてきた。ところが、20世紀末から今世紀にかけ、各地で同様の三味線のバチ型デザインをした最古の前方後円墳が発見され、この畿内中心の「定説」がひっくり返っている。
 3世紀にまでさかのぼるとみられる、最古のフォルムを備えた前方後円墳は新たに2基が規定されており、そのうちの1基はすでに記事でご紹介している多摩川沿いの大田区にある宝莱山古墳Click!だ。後円部が崩されているので推定墳長100m超(現存97m)ほど、3世紀とすると箸墓古墳とバッティングして問題が大きくなるせいか、発掘の当初以来あたり障りのない4世紀初頭とされ、いまだ修正されていない古墳だ。そして、2011年(平成23)には、同じく関東の茨城県常陸太田市にある梵天山古墳(墳長151m)が、やはり最新の調査で最古の三味線のバチ型前方部をしていることが判明し、3世紀の築造だと想定されている。ナラの箸墓古墳のほか、すでに2基の築造ケースが関東地方にある以上、前方後円墳の最初期型はナラが発祥地とはいえないだろう。
 以上のような最新の研究成果を踏まえた上で、成子天神社(天神山)のフォルムをとらえると、非常に興味深いことがわかる。旧・柏木村成子に見える、三味線のバチ型デザインの前方部を備えた前方後円墳の痕跡は、茨城県の梵天山古墳よりもひとまわり大きいサイズなのだ。同古墳の痕跡は、1947年(昭和22)に撮影されたやや西寄りな別角度の空中写真にも、クッキリととらえられている。しかし、1948年(昭和23)になると焦土の地表面の整地化が進んだものか、“鍵穴”型のフォルムはかなり薄れているが、陪墳群と思われるサークル痕は相変わらず確認できる。
 現在の新宿駅から神田川へと西に向かう丘陵、あるいは段丘斜面に見える痕跡は非常に面白い。今後も、同じテーマでこの地域の記事を書くことがあるかもしれないので、新宿角筈古墳(仮)と同様に成子天神社近くのフォルムにも仮称をつけておきたい。とりあえず成子天神山古墳(仮)というのではいかがだろうか?

  

 淀橋浄水場が建設される際、造成中に発見された古墳ないしは崩された塚の記録、あるいは造成前の詳細な工事用地形図などが残っているかどうか調べてみたが、残念ながらいまだに発見できないでいる。新宿角筈古墳(仮)は例外として、おそらくこの地域が開墾されたのは江戸期からではないかとみられるが、それまではどのような景観をしていたものか興味が尽きない。その興味とは、弥生期から古墳期にかけての南武蔵勢力の中心地は、現在、比較的大型の墳丘がよく残されている多摩川沿岸領域へ(結果論的に)比定されることが多いが、「百八塚」Click!の伝承や痕跡を含め、実は都心部の主な河川沿いには、さらに稠密で大規模な大王クラスの古墳群が連なっていたのではないか?……という、大胆だが最新の考古学的な成果をベースに、もはや高いリアリティを備えていそうな仮説だ。

◆写真上:陪墳が疑われる、成子天神社の境内北西にある成子富士の現状。
◆写真中上:上は、1910年(明治43)に作成された参謀本部の1/10,000地形図にみる淀橋から柏木地域。下左は、1862年(文久2)に刷られた尾張屋清七版「内藤新宿千駄ヶ谷辺絵図」の同所。江戸期には、成子天満宮と呼ばれていたのがわかる。下右は、1922年(大正11)に作成された1/3,000地形図(修正版)。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)に撮影された成子天神社とその周辺。中は、おそらく同時に撮影されたやや西へズレた別角度の空中写真。ともに、地表には三味線のバチ型デザインをもつ“鍵穴”型の痕跡が見てとれる。下は、成子富士の溶岩を積んだ山頂部。
◆写真下:上は、1948年(昭和23)撮影の成子天神社と周辺域。復興が進み新たに整地された上に家々が建ちはじめており、地面の痕跡が薄れつつある。また、陪墳とみられるサークル痕が、主墳を取り巻くように多数存在しているのが見える。中は、三味線のバチ型デザインの前方部を備えた出現期(最初期)の前方後円墳で、それぞれ茨城県の梵天山古墳(左)と大田区の宝莱山古墳(中)、奈良県の箸墓古墳(右)。下は、成子天神社の現状。