下戸塚にある高田八幡が、江戸時代の1641年(寛永18)秋に発見された洞窟によって、通称「穴八幡」とよばれるようになったことは、以前にこちらでもご紹介Click!している。しかし、その穴の形状がどのようになっていたのかは、詳細にはご紹介していなかった。改めて江戸期の資料を参照すると、穴八幡が実は“穴だらけ”だったことがわかる。
 当時は神仏習合が進み、八幡神と八幡大菩薩(本地は阿弥陀如来)を信仰する高田八幡の社僧・良昌という人物が、社の境内に草庵を建設しようと整地作業をしたところ、にわかに横穴が出現した。この横穴のサイズはそれほど大きくなかったが、奥へ進むと約3m四方の広さの空間が出現し、そこには2体分の骸骨(遺体)と金銅製の小さな阿弥陀仏が奉られていた。この洞窟の形状から、良昌は古墳の羨門あるいは羨道部を掘りあててしまったのであり、奥にある広い空間は玄門から玄室にかけての遺構ではないかと推定することができる。
 また、2体の骸骨は、古墳本来の被葬者のものであり、奉られていた金銅の阿弥陀仏は、室町期以前にもこの洞窟が一度発見され、その際に遺体を確認した発見者(高田八幡社あるいは周辺に展開する寺社の関係者かもしれない)が、墓域だと認識して安置した可能性がある。さらに、被葬者とみられる2体の人骨には、貴金属や宝玉など副葬品と思われる記録が存在しないので、早くから盗掘にあっていた古墳を連想させる。
 江戸の寛政年間に金子直德が記録した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代向け口語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
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 この年の秋に草庵を結ぼうとして、山の腰をならしていたところ、掘り崩した山の底の方に小さな穴が現れた。その口は狭いが、奥は深くて広く、九尺四方に余る程もあった。その中に御丈三寸ばかりの金銅仏があって、石の上に安座していた。その像の前に小さな瓶一つあり左右に人間の骸骨が多くあった。それを取りのけ、かの仏像は世の常のものと異なっていたから、良昌僧都はこの仏像を守り尊んで、お厨子にうつし本社に納めた。この時から誰いうとなく、このお宮を穴八幡宮というようになった。
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 この記述から、穴八幡のすぐ南側、戸山ヶ原(当時は和田戸山と呼ばれていた)にあった尾張徳川家の下屋敷からも、横穴に阿弥陀如来像を奉った「洞阿弥陀」Click!が出現していることが想起される。このあたり一帯に展開した古墳群の、羨道あるいは玄室が室町期以前にいくつか発見され、そこに阿弥陀仏を奉るという事蹟があったのではないだろうか。下戸塚(早稲田)の宝泉寺にゆかりのある室町期の僧、昌蓮による「百八塚」Click!の伝承を連想させる。
 また、穴八幡の楼門下にも横穴があり、おそらく穴が深くて内部の気温が低かったのだろう、「氷室大明神」の祠が奉られている。実際に氷室として使われたかどうかは不明だが、氷室大明神として奉られていたのは出雲神のオオナムチ(=オオクニヌシ)だった。さらに、氷室大明神の南東側(当時)にあった、放生池のある小丘の麓にも、小さな横穴が出現している。氷室大明神の横穴について、同書から引用してみよう。
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 氷室大明神祠 本社に相対し、盛徳の二字を彫った額を揚ぐ。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、疱瘡を治する霊神である。出現堂 これは穴八幡の出現地に建てたお堂で、楼門の下にある。ここには寛永十八年に穴から出現した阿弥陀如来像を安置してあった。(中略) 弁財天堂(海老澤了之介註) 弁財天を祀る社殿は退転して、放生池の傍らの洞穴中に祀ってあった。名所図会の第二図に見える光松の下の洞がそれである。
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 だが、これらの羨道とみられる横穴や玄室とみられる奥部の空間は、かなり規模が小さいものだ。約3m四方の玄室だとすると、想定できる古墳レベルからいえば、せいぜい直径が20~30mほどの、たとえば上落合にあった浅間塚古墳Click!のような小塚クラスのものだろう。以前にもご紹介しているが、穴八幡社の境内全体を前方後円墳だと想定している、地元・早稲田の郷土史家Click!の方々には恐縮なのだが、とても大型古墳の羨道や玄室とは思えなかった。
 たとえば、穴八幡社の北側に隣接して築造されていた、地元の富士講Click!の信者たちから高田富士Click!に改造され、本来は水稲荷が奉られていた100m前後の前方後円墳・富塚古墳Click!(現在は早大のキャンパス下になっている)を見れば、その規模のちがいが明らかだ。富塚古墳の玄室に用いられていた房州石Click!の一部が、甘泉園公園に隣接する現在の水稲荷社本殿の裏に保存されているが、そのスケールからすると玄室の大きさはかなりの広さをもっていたであろうことが推定できる。部屋の広さにたとえると、少なくとも6畳間ほどはあったのではないだろうか。したがって、穴八幡社の由来となった羨道とみられる横穴や、玄室と思われる空間の規模の小ささを知ってガッカリしかけた。
 ところが、当時の穴八幡の様子や地形をスケッチした、長谷川雪旦の挿図による『江戸名所図会』を参照すると、非常に興味深いことがわかる。穴八幡から出現した横穴のうち、少なくとも2箇所はいずれも穴八幡社の参道や拝殿、本殿が建立されている境内の南側に展開していた、小丘の斜面から出現しているのだ。つまり、これらの小丘は穴八幡社の境内を主墳(全長150mほどの前方後円墳を想定できる)とみなせば、その後円部の外側を取り巻くようにデザインされた、陪墳なのではないか?……という仮説が成立する。『江戸名所図会』には、穴八幡社が描かれた境内の手前に、少なくとも3つの小塚が描かれている。そして、そのうちの左端の小丘には穴八幡の由来となった「出現地」の横穴が描かれ、中央の麓に放生池がある小丘にもまた横穴(洞弁天)が描かれている。



 そして、穴八幡の楼門へと上る階段の左手にも、氷室大明神(オオナムチ)を奉った横穴が描かれている。しかし、氷室大明神の洞窟は、穴八幡の境内を主墳とみなすのならば、妙な位置に掘られた横穴であり、下落合の横穴古墳群Click!と同様に古墳時代末期あるいは奈良初期の、他の古墳群とは別に少し後代になってから造営された墓域なのかもしれない。
 穴八幡社の境内南側に展開する小丘群を陪墳とみなせば、境内へ登る階段や楼門、参道の大半が後円部、拝殿や本殿、神輿蔵などが連なる位置が古墳の正面となる前方部ということになる。だが、高田八幡社(穴八幡社)の造営は早い時期に行なわれているため、土木工事の途中でどのようなものが出土したかは、もはや詳らかでない。
 穴八幡社境内の南側に並んだ、陪墳群と想定することができる小丘は、戸山ヶ原へと抜ける道路の拡幅造成のため、明治期以降に大半が崩され本来の放生池も埋め立てられている。現在の風景でいうと、穴八幡社や放生寺と早稲田大学の文学部キャンパスとの間にある道路上には、直径が20~30mほどの陪墳群とみられる小塚が連なっていた。
 余談だけれど、幕府の練兵場だった高田馬場Click!の東側には、和田戸山(尾張徳川家下屋敷方面=戸山ヶ原のこと)へと抜ける古い鎌倉街道が通っていた。ちなみに、この地名からも哲学堂Click!の和田山Click!および周辺に拡がる「和田」地名と並び、このあたり一帯が鎌倉期前後から和田氏と深いかかわりがあったことがうかがわれる。江戸期になり高田馬場ができると、この鎌倉街道沿いには山吹の里やホタル狩りへと向かう遊山客めあてに、茶屋が8軒ほど並ぶことになる。その茶屋に設置された囲炉裏には、盛んに房州石Click!が用いられていたことが『若葉の梢』の「馬場の茶屋町」座談会で、子孫が語る証言として記録されている。
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 茶屋当時を偲ぶ記念品としては、ただ一つあります。それは房州石で造った、田楽や団子を焼く爐であります。戦時中までは藁家根造りの六畳二間続き、四尺廊下の凝った茶屋の離れがありましたが、強制疎開で取毀されました。今思えばおしいことをしました。
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 わざわざ茶屋の囲炉裏のために、房総半島の先端から石を切りだしてきたとは思えないので、近くに“余っていた”房州石を活用したのだろう。その房州石とは、南関東では多くの古墳で使用されている、羨道や玄室を形成するための“結構”としての房州石ではなかったか? 「百八塚」の伝承が色濃く残り、戸塚という地名が別名「富塚」あるいは「十塚」と表現される理由が、自然にストンと腑に落ちる事蹟だ。

◆写真上:後円部を均して設置されたとみられる、楼門上から陪墳群が連なっていたとみられる東側を見下ろした風景。高田八幡はほとんど発掘調査がなされていないので、境内下には房州石で築造された羨道や玄室が残っている可能性がある。
◆写真中上:上は、陪墳群があったとみられるあたりの現状。下は、南側に接した陪墳のひとつ(現・放生寺境内)が出現した阿弥陀洞。3m四方の玄室へ通じる羨道とみられ、手前に転がっている石は結構に用いられた房州石の可能性が高い。
◆写真中下:上は、天保年間に描かれた長谷川雪旦による高田八幡(穴八幡)。中は、1947年(昭和22)に撮影された穴八幡社と富塚古墳。下は、1955年(昭和30)ごろ撮影された水稲荷社と高田富士(富塚古墳)。後円部の墳丘上を均してその中心に水稲荷社を建立し、本殿裏の西寄りの位置に溶岩を積み上げて高田富士を築造した様子がわかる。
◆写真下:上は、早稲田大学に所蔵されている金子直德の『和佳場の小図絵(若葉の梢)』。下は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲で全焼したが1998年(平成10)に50年ぶりに復活した穴八幡社の楼門。