近衛町に住む藤田孝様Click!は、物心がつくころから自邸のある閑静な周辺エリアを遊び場にしていた。その中には、隣家だった安井曾太郎邸(アトリエ)Click!の敷地へ遊びに行ったエピソードなど、忘れられない想い出がたくさんあるそうで、戦前・戦後の近衛町の風情をうかがいがてら、お話しいただいた。
 下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町に建っている藤田邸Click!(近衛町7号Click!)は、ちょうど安井曾太郎アトリエClick!の東隣りにあたる。1934年(昭和9)に安井邸が建設される以前は、1920年(大正9)ごろから岡田虎二郎(礼子)邸Click!が建てられていた。岡田虎二郎Click!が死去したあとも、藤田邸に保存された1932~34年(昭和7~9)ごろに作成されたとみられる「下落合壱丁目四壱七番地拾弐号測量図」には、いまだ岡田礼子邸の記載が残っている。おそらく同図が作成された直後に、安井曾太郎が敷地を購入してアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 安井曾太郎邸の正門は、東西の袋小路が通う南側にあったのだが、藤田邸とは細い路地と裏門(裏木戸)を通じて繋がっていた。現在、この細い路地は存在していないが、少なくとも安井邸があった当時までは、藤田邸側から安井邸敷地へと入ることができた。その様子は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」でも確認することができる。藤田孝様は、この裏木戸を通り抜けては安井邸へ遊びに行き、はま夫人や子どもたちと焚き火を楽しんでいた。もちろん、焚き火では焼イモが作られ、童謡の「たきび」や「里の秋」を唄っては焼きあがりを待っていた。下落合の西隣り、上高田の竹垣のある“ケヤキ屋敷”の風情を歌詞にした「たきび」が、いまだ下落合でもリアルに感じられる時代だっただろう。
 山手線が近いのに、ホタルが飛びかいキジやタヌキが路上を横切るような時代だった。ホタルは、いまでも御留山(おとめ山公園)で育てられており観賞会が毎夏開かれているし、タヌキたちも下落合の全域(中落合・中井含む)で健在だけれど、さすがにキジは飼われているもの以外は見たことがない。また、夏になるとヘビが寝室の蚊帳の中へよく入ってきたそうで、そのたびに大騒ぎになったらしい。場所にもよるけれど、下落合ではいまでもヘビが家の中へ侵入してくる。うちでは、ヤモリを追いかけていたアオダイショウClick!が風呂場へ落ちてきて、女性陣を除き愉快で楽しい1日となった。
 藤田様によれば、こちらでもご紹介している帆足邸Click!では、馬糞や牛糞から発生するメタンガスを台所のエネルギー源にしていたようで、帆足理一郎教授Click!が近衛町の路上に落ちているそれらを、よく“回収”しているのを目撃している。動物の糞をタンクに貯め、発生するメタンガスをうまくコントロールし、台所のガスレンジへ応用していたものだろうか? なにごとにも合理的で実質主義を重視する、米国帰りのみゆき夫人Click!によるアイデアなのだろうか。メタンガスの制御装置も、わざわざ米国から輸入した最新システムなのかもしれない。昭和期に入ってからも、近衛町には馬車や牛車が頻繁に往来していたのがわかる。また、帆足邸の道をはさんで東隣り、花王石鹸の長瀬邸Click!の開放的な庭へ入りこんで、藤田様はよく遊ばれていたようだ。

 

 このような、のどかな近衛町の光景は戦時中にはすべてが失われた。2006年(平成18)に発行された『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に掲載の、藤田孝「太平洋戦争~戦後の想い出」から引用してみよう。
  ▼
 昭和二十年に入ると、夜になれば空襲(警戒)警報のサイレンが響かない日は一日もないといってよい状態だった。やがてB29の爆音がし、それに続いて爆弾の爆発音が聞こえてくる。焼夷弾の投下が始まると、私たちは防空頭巾や鐡かぶとをかぶり、防空壕に身を隠したり、逃げまわったりしていた。/ある夜は、暗い夜空にB29が火ダルマになり、やがてそれが墜落してくるのが見えた。それはまるで自分の頭の真上に落ちてくるように思われたが、何とかそれは免れて、すぐ二、三軒向こうぐらいのところに落ちたように感じた。だが後で聞いたところでは、その墜落場所は七、八百メートル先の大正製薬の工場(現大正セントラルテニス場?)のところということだった。
  ▲
 この空襲は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!の状況で、下落合の住宅地はB29の絨毯爆撃により最東部の近衛町はもちろん、市街地の大半が焼失する大きな被害を受けている。このとき、まだ国民学校2年生だった藤田様が目撃されたのは、池袋上空で撃墜されたB29の1機で、墜落機体は松尾德三様Click!が勤労動員で飛行機のマグネットを製造していた、高田南町2丁目(学習院下)の国産電機工場Click!を直撃している。また、落合地域の上空で撃墜されたもう1機のB29は、麹町の住宅街へ墜落した。現・藤田邸は幸運にも、同夜の空襲による延焼をまぬがれ、また硫黄島や近海の空母から飛来する戦闘機によるピンポイント的な爆撃も受けず、同年8月15日を迎えている。


 敗戦ののち、早々に米軍機によるドラム缶に詰めた救援物資の投下がはじまっている。しかも、このドラム缶投下は近衛町に建っていた学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)を目標にしたと思われ、この時点で米軍は抑留者収容施設(POW/PW Camp)の位置、すなわち国際聖母病院Click!の所在地をハッキリと把握していなかった様子がわかる。藤田様の「太平洋戦争~戦後の想い出」からつづけて引用してみよう。
  ▼
 そんな或る日、私は何となく旧学習院昭和寮(現日立目白クラブ)の前の道にたたずんでいた。その時、突然飛行機の爆音が近づいたかと思う間もなく、大きな機影が超低空で姿を現し、私の立っている道路の十数米先に筒状の物体を投下した。とっさに何か連絡する為の通信筒だろうと思ったが、それに続いて数機の爆音が轟き、得体の知れない大きな固まりがドスンという音と共に落下するのが見えた。私はその筒状の物を拾いに走ったが、それをどうしていいのか判らず、頭が混乱するばかりで、多分後からかけつけた巡査の手に渡したような気がする。/大きな固まりは近づいてみるとドラム缶で、パラシュートがついていた。それから次々とドラム缶があちこちにドスン、ドスンと地ひびきたてて落下するのを呆然と眺めていた。/そのドラム缶の一つの裂けた口から、カンヅメとか食品らしきもの、マッチ類、その他いろいろなものがこぼれ落ちていた。それからしばらくして、まわりは混乱の極となった。血相を変えた大人達がかけつけ、その品々をドラム缶の中から次々に取り出し、かかえ込んでいた。/省線(山手線)の架線にパラシュートがからまり、電車の警笛音が鳴り響き、急停車するのが見えた。戦災で周辺の家がみな焼失してしまい、遮るものが何もなかったので、丘の上のこのあたりから線路のほうが手に取るように見えたのだ。
  ▲
 先日、米国立公文書館が公開した1945年(昭和20)8月28日(日本時間29日)の、聖母病院に対する救援物資の投下写真(連続写真)を入手した。これは、8月28日(米国時間)から300機以上の救援機(B25とB29が主体)を動員して本格的にスタートした、米軍による正式な「捕虜収容所および抑留者収容所に対する救援作戦」の際に撮影された写真類だ。救援機は、屋上に「PW」と書かれた聖母病院の上空を旋回しながら、パラシュート付きの救援物資を正確に敷地の近くへ投下している。

 
 しかし、野坂昭如の『アメリカひじき』でも記録されているとおり、米軍の救援物資投下は、本格的な救援物資投下作戦が8月28日(日本時間29日)からスタートする以前、各地の米空軍の“現場判断”で早いところでは8月15日の午後からすでに開始されており、山手線や近衛町へ救援物資を落とした米軍機は、いまだ聖母病院の位置さえ知らない段階で、下落合に残る大きめな建物(近衛町では学習院昭和寮)に向けて投下しているように思われる。つまり、ポツダム宣言を受諾して日本が無条件降伏をするのを見こし、POW/PW Campへの救援物資を準備していた前線部隊が存在していることだ。これについては後日、米軍の公開写真や資料とともに詳しくご紹介したい。

◆写真上:雑司ヶ谷道(新井薬師道)から眺めた、近衛町42・43号南面のバッケ。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)に撮影された近衛町を貫通する南北の三間道路。中左は、1923年(大正12)建設の旧・杉卯七邸Click!で先年解体された。中右は、1928年(昭和3)建築の学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の本館。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる藤田邸と安井曾太郎アトリエ。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)5月25日夜半に小石川の住民が撮影した池袋上空で撃墜され高田南町2丁目(学習院南側)へと落下する米空軍第313航空団6爆撃群のB29(機体No.42−63558)の光跡で、墜落機体は国産電機工場を直撃した。下は、同年5月17日に撮影されたB29が墜落する直前の国産電機工場。道をはさんだ東側の大正製薬工場は、すでに4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失しているのが見てとれる。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機によって撮影された近衛町。下は、1945年(昭和20)8月30日に行われた大森捕虜収容所(左)と、同年9月12日行われた仙台捕虜収容所(右)に対する救援物資投下。