では、創建時期のわからないほど古い「幸神社」Click!について、江戸期に判明している由来を収録した、寛政年間(1789~1801年)に書かれている金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、海老沢了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
 ちなみに、創建期が不明なほど古くから伝わる荒神の社や祠を、後世に「幸」ではなく「古」の字を当てはめて「古神(ふるがみ)」の社=古神社としてしまったケースや、のちに「鴻」「興」「皇」「香」などの字を当てはめたり、さらには「子」の字を当てはめ、参詣すれば子宝にめぐまれる……などと、意味不明でわけのわからない社にされてしまったところもかなり多そうだ。
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 幸神宮は黒田豊前守下屋敷の東にある。むかしはこの所より下に通ずる道があったが、関口となってから道を椿山にひらき替えをした。宮の前には道の方へ聳えた大榎があった。祭神は猿田彦大神である。庚申の日をもって縁日とする。庚申塚ともよんでいる。社司は宮城島氏である。伝説には、昔この所に豪族が住んでいたから、この辺を長者の廓といっていたという。金の駒を塚に築き込め、榎を植えて、幸神を勧請したともいわれる。
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 江戸中期においてさえ、荒神と庚申、そして猿田彦の伝説までが習合している様子が判然としている。特に、神仏混合が進んだ江戸期には、なんら不自然には感じられなかったのだろう。社名は「荒神」とも「庚申」とも書かれず、寛政当時から由緒を整え、社の縁起をよくするためか「幸神」と書かれていたことがわかる。
 「荒神」のまま「あらぶるかみ」では、都合が悪い平和な時代が江戸期には長くつづいていた。この一文を見ても、「幸神宮」の音読みは「こう・じんぐう」などではなく、「こうじんのみや」だったのが自明だろう。幸神社は、水神社とまったく同様に「こうじん・しゃ」と切って読むのが正しい。
 ここで興味深い説話が、江戸期の寛政期まで伝わっていたのがわかる。塚を築造して「金の駒」を埋設し、その上に榎を植えたという伝説だ。この場合の「金」は、黄金(こがね)=ゴールドのことではなく、中世以降ずっと用いられてきた金(かね)=鉄でできた駒、すなわち「鉄の馬」像を埋めたということだ。すでに江戸期に伝説化していた事跡から、荒神を祀ったと思われる「幸神社」に、金(かね)=鉄に深く関連する伝承が存在していたことがわかる。ひょっとすると、室町期のはるか以前からの伝承なのかもしれない。
 幸神社の建立されている場所は、目白不動と同様に南側が急峻な崖地となっており、谷間には旧・平川(現・神田川)が流れている。また、時代がかなりさかのぼれば、南の谷間には奥東京湾の名残りである白鳥池Click!が横たわっていただろう。現代でもそうだが、斜面のあちこちから泉水が湧き出ており、大鍛冶(タタラ製鉄業)がカンナ流し(神奈流/神流)を行うには願ってもない地形をしている。


 タタラ製鉄には、大きく分けて3つの条件が不可欠だ。1つめは、鉄分(砂鉄)を多く含む水量豊富な湧水源、あるいは川筋が近くにあること。2つめは、カンナ流しClick!(神奈流/神流)がスムーズに行えるよう、傾斜が急な斜面あるいは崖地があること。3つめはタタラを行なう際、大量に必要となる炭が焼けるよう豊かな森林が周囲にたくさんあることだ。この条件の1つでも欠ければ、大鍛冶の仕事は成り立たない。
 したがって、付近の砂鉄まじりの土を掘りつくしてしまったり、周囲の森林が大量の炭焼きのために丸はだかになってしまえば、大鍛冶の集団は別の場所へと移動していくことになる。その大鍛冶場の跡には、目白=鋼を製錬するときに出た「金糞(鐡液/かなぐそ)」と呼ばれる、鉄の不純物のかたまりがあちこちに残されることになる。つまり、森が丸ごと裸にされ、川の水はカンナ流しで赤茶色に濁るので、大鍛冶の専門家集団と周辺の農民たちとの対立は、ときに深刻だったろう。
 大鍛冶集団は、おそらく同じ川筋を上流へ上流へとさかのぼっていくため、川沿いの森は荒れ、川は下流域まで濁ることになる。だからこそ、地域の農民たちと対立し嫌われた行きずりの大鍛冶たちの記憶は、きれいサッパリと忘れ去られる運命にあったのだ。また、大鍛冶たちが建立したと思われる荒神社も、後世の地域住民たちにはなじみが薄く、早々に“別の社”へと衣替え、あるいは農業に都合のよい神々へ転化されることになったと思われる。
 下落合では、改正道路(山手通り)の工事中に、中井駅の北側斜面から大量の金糞(鐡液)が発見され、大鍛冶(タタラ)遺跡だろうとされた。しかし、戦時中だったため詳細な調査がなされずに破壊され、戦後はそのまま山手通りの下(上?)になってしまった。同様に、関口台から雑司ヶ谷にかけ、地中から金糞(鐡液)が発見されている事例が多い。おそらく、明治期の早くから拓けた同エリアなので、住宅街の下(特に傾斜地)には金糞(鐡液)が、あちこちに埋まっている可能性がある。
 幸神社からさらに目白坂を上ると、関口台の尾根筋へ出る。目白通り(清戸道Click!)を越えて北へ進むと、やがて急斜面というよりは絶壁と表現したほうが適切な、金山の谷間へと抜ける。この金山に建立されている金山稲荷は、江戸期の呼称でいえばその名もズバリ、鉄液(かなくそ)稲荷大明神だ。『新編若葉の梢』から、再び引用してみよう。
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 鐡液稲荷はまた金山稲荷ともいう。御嶽・中島・金山の鎮守である。別当を石堂孫左衛門という。鍛冶の家で守護神に祭ったのである。この所いまでも鐡液が出る。利益甚だ多い。例年二月初午の日に祭るが、昔は二十二日が祭礼日であった。
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 ここに登場する小鍛冶(刀鍛冶)の石堂一派Click!については、以前にも詳しく記事にしている。おそらく、室町末期ごろ関東へと出てきた石堂派の流れだと思われるが、どのような作刀をしていたかは記録がないのでわからない。ただし、西日本の石堂派は備前伝を得意としていたので、同様の技術を身につけた工房だったのではないかと推定できる。

 
 さて、『新編若葉の梢』では石堂派が奉った社(やしろ)とされている鐡液稲荷社だが、はたしてそうだろうか? 小鍛冶(刀鍛冶)の仕事では、基本的に金糞(鐡液)は出ない。もちろん自分で砂鉄からタタラを行い、目白=鋼を製錬して作刀の材料にしていた、江戸後期の水心子正秀のような例外的な仕事をしていれば別だが、室町末期か江戸初期にやってきた石堂派が、そのようなことをしていたとは到底思えない。
 なぜなら、戦乱がつづいた室町期から、大鍛冶と小鍛冶の仕事は確実に分業化が進み、硬軟さまざまな目白=鋼を生産するタタラのプロたちにより、目白(鋼)生産技術はかなり専門的で高度な手法が確立されていたからだ。刀鍛冶が、それらの専門的で高度な技術を身につけ、コスト的にも膨大な費用がかかるタタラ工程まで手を出すとは、とても考えにくい時代なのだ。
 江戸後期の水心子正秀が、砂鉄をタタラによって目白=鋼の生成から行い、自身の思い通りの硬軟を備えた目白=鋼を次々と製錬できたのは、彼のバックに大名の館林藩秋元家Click!がついていたからであり、水心子は同家の藩工として中屋敷に住み、砂鉄を溶かす高価なタタラ用の炉を購入したり、工房の助手たちを必要なだけ雇える潤沢な資金があったからだ。近江出自の石堂派、しかも関東の武家社会ではマイナーな備前伝を焼いていたと思われる一派に、そのような資金力も高度なタタラ技術もあったとは思えない。
 したがって、金山稲荷の周辺から出土する金糞(鐡液)は、石堂一派が関東へとやってくる以前から出土していたのであり、金山(神奈山)という名称自体も、石堂派が住みつく以前からあったように思われるのだ。すでに金山に存在していた、なんらかのいわれのある祠(ほこら)ないしは社を、改めて奉りなおしたのが石堂派ではなかったか。『若葉の梢』が書かれた寛政年間でさえ、金糞(鐡液)が土中から掘り返されるほどの、膨大な量が埋蔵されていたとすれば、それは決して小鍛冶(刀鍛冶)の仕事によって出たものではない。
 金山にあった祠ないしは社は、「荒神」だったか「鋳成(稲荷)神」だったのかは不明だが、少なくとも小鍛冶(刀鍛冶)である石堂派にはなじみのある神だった可能性がある。「荒神」であれば、刀鍛冶にとっては火床(ほと)の神であり、「鋳成(稲荷)神」であれば、刀鍛冶にとっては鍛錬の神に当たるので、それを氏神とし改めて社を建立したのかもしれない。大鍛冶の金糞(鐡液)が出る土地がらであってみれば、小鍛冶(刀鍛冶)はまちがいなく地味のよい、住みつくには格好な土地だと認識しただろう。

 
 さて、金山稲荷(鐡液稲荷)社のある金山の下を流れるのが、金川(神奈川)と呼ばれる弦巻川だ。この名称も、砂鉄が採れたからズバリ金川なのであり、両岸の斜面ではカンナ流し(神奈流/神流)が行われていたから神奈川と呼ばれたのだろう。金川(弦巻川)の源流は、池袋の丸池までたどることができるが、この流域もまた旧・平川(現・神田川)と同様に、大鍛冶(タタラ集団)が上流へとさかのぼりながら、目白=鋼の製錬をつづけた川筋なのだろう。金川の下流は、江戸川橋で旧・江戸川(現・神田川)へと合流しているが、金山から護国寺へと抜ける谷間のことを(少なくとも江戸期までは小字として残っていたものだろうか)、「神田久保」と呼称されていたことがわかった。
                                   <つづく>

◆写真上:関口台小学校に隣接して目白坂の下り口に鎮座する、江戸期に当て字が「荒」から「幸」へ変えられたとみられる幸神社(荒神社=こうじん・しゃ)。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)に撮影された金山稲荷社(鐡液稲荷社)。下は、宅地造成で斜面が削られる金山(神奈山)の現状で、このような造成工事でも金糞(鐡液)の断片が出土していると思われる。。
◆写真中下:上は、関口台から雑司ヶ谷にかけては稲荷社が多い。下左は、大鍛冶(タタラ)遺跡から出土した金糞(鐡液)。下右は、古墳期には金糞(鐡液)が出土したタタラ遺跡周辺の古墳から鉄剣・鉄刀が発見される例も多い。
◆写真下:上は、中井駅の北側にあった下落合の南斜面跡。改正道路(山手通り)の掘削工事の際に、金糞(鐡液)が多く出土して規模の大きな大鍛冶(タタラ)遺跡が発見されている。下左は、雑司ヶ谷に多くみられる「庚申塚」。下右は、ほとんど絶壁に近い関口台側から神田久保へと下りる階段。