江戸期までつづいた「神田久保」Click!の谷名は、東は現在の護国寺に出る手前、清土鬼子母神の境内あたりから、西は日本女子大学の学生寮Click!あたりにかけての名称だった。谷底には、金川(弦巻川)が流れていたのだが、1932年(昭和7)以来すでに暗渠化され、現在はその上に道路が造成されていて存在しない。
 さて、神田久保について海老澤了之介の『新編若葉の梢』から引用しよう。
  ▼
 金山稲荷の東に道がある。この道の低い所を神田久保という。久保とは窪を意味をする。(ママ) むかしこの辺に僧都の主堂があった。これから蔵主ヶ谷ともいう。この地一帯は川あり、岡あり、森ありて幽邃(ゆうすい)の地であったから、真に蔵主の谷という感じであったであろう。(カッコ内引用者註)
  ▲
 もとの著作である『和佳場の小図絵』(寛政年間)の金子直德は、「雑司ヶ谷」の地名の由来に惹かれ、神田久保の由来についてはなんら言及していない。でも、「川あり、岡あり、森あり」と、大鍛冶(タタラ)の仕事にピッタリな場所であることを、江戸期とはいえ期せずして書きとめている。「久保」または「窪」地名Click!については、過去に大久保の金川とともに記事にしている。
 神田久保(かんたくぼ)とは、日本語の地名で時代を問わず頻繁に起きている、言語学の「たなら相通」の転訛法則にならえば、まちがいなく「神奈久保(かんなくぼ)」だったろう。カンナ流し(神奈流し/神流)が行われていた、久保・窪(湧水源)の地だから神田久保という小字が江戸期まで残っていたと思われる。
 ちなみに、神田山があり旧・平川の下流域(現・日本橋川)に拡がる土地を「神田」と呼ぶが、たなら相通を地名考察のベースとすれば、江戸幕府が崩して土砂を海浜の埋め立てに使用した神田山(現・駿河台にあった山)もまた神奈山(金山)であり、土地の名称も神奈(神流/かんな)なら、さらに大小さまざまな谷間を流れる川筋も、神奈川(金川)と呼ばれていたかもしれない。神田山の北山麓Click!を深く掘削して、徳川幕府は人工的に旧・平川の流れを東へ向けて外濠とし、柳橋から大川(隅田川)へと注がせる大工事を行っているが、1966年(昭和41)に井の頭池から大川まで流れる河川名を神田川で統一したのが、わたしにはとても面白い。転訛する以前の川名に直せば、神奈川(金川)そのものになるからだ。
 神田久保が、なぜ「谷」=ヤツ・ヤトではなく「久保」または「窪」=クホ・クポと呼ばれたかは、豊富な湧水源の有無によって左右されたのだろう。原日本語で解釈すれば、クホ(kut-ho)はそのまま湧水源の意味であり、川や渓流が流れる谷=ヤツ・ヤトとは異なる地名概念だ。しかも、その湧水は特に豊富かつ清廉で優れた水質であり、人々の生活には欠かせないものでなければ、「久保」または「窪」とは呼ばれなかった傾向が顕著だ。そのような視点で神田久保を眺めると、その中心には「星跡の清水」の伝承があり、鬼子母神出現地である「清土」Click!の伝説がある。これらの伝説を、寛政年間の同書から引用してみよう。
  ▼
 護国寺の西の谷間(神田久保のこと)、本浄寺の南、この地を清土(せいと)と呼んでいる。昔は一面の深田であったが、今は蒼林の中に小社あり、松杉が繁茂している。それに七本杉という霊木があり、一本の樹根から七本の幹が出ていたが、うち三本が残っている。/昔この地は山本喜左衛門及び田口新左衛門などの持地であったが、夜な夜な光りものが見える、或夜二人して見定めたところ、池水に星がその影を宿どして光っていたのであった。不思議に思い、その池の辺を掘ってみたところ、仏像に似たものを掘り出した。永禄四年(一五六一)五月十六日のことである。今は此処、一反六畝を除地として免許それている。さてその像を檀那寺の東陽坊大行院に持ってゆき、見てもらった所鬼子母尊神の像である事が判かり、本尊の脇にしばし納めて置いた。(カッコ内引用者註)
  ▲



 また、護国寺の南側にも「星谷(ほしやと)の井」と呼ばれた、干ばつでも枯れない清廉で豊かな井戸のあったことが伝えられている。文中に出てくる、豊富な水量だったと思われる「星跡の清水」の清廉さといい、明らかに水質の優れた湧水源にふられた名称が神田久保だったことがわかる。両側を急な斜面にはさまれた、このような窪地はカンナ流し(神奈流し/神流)を行うにはピッタリの地形であり、神田久保(神奈久保)と呼ばれるのにふさわしい土地がらだったのだろう。
 前回の記事で、川を汚し森林を根こそぎ伐採する環境破壊者としての大鍛冶(タタラ集団)と、周辺で暮らす農民との対立の図式を書いたけれど(また、実際にはそのようなケースが多いと思われるのだが)、場所によっては両者の利害関係が一致し、進んで大鍛冶(タタラ)の仕事に農民たちが協力した地域もある。なぜなら、周囲の森林はかなり伐採されてしまうが、山の斜面は開拓してカンナ流し用のひな壇状の地形を造成するため、大鍛冶たちがさらに上流域など別の場所へ移動していったあと、カンナ流しの跡地に手を入れて整備すれば、棚田あるいは段々畑として活用ができたからだ。
 つまり、大鍛冶(タタラ)と農民とが相互に依存しあう地域も見られた。上記の文章に、「昔は一面の深田であった」という記述が見えるが、ひょっとすると古墳期かナラ期かは不明だが、神田久保に住みついた大鍛冶(タタラ)と農民との間には、そのような相互依存の関係があったのかもしれない。大鍛冶たちが去ったあと、神田久保の両側、すなわち金川(弦巻川)両岸の斜面に造成されたカンナ流し用のひな壇を、さっそく手を入れて開墾し、棚田ないしは段々畑にした可能性も否定できないだろう。だからこそ、「神奈」が「神田」へ転訛したと想定することもできる。
 さて、目白坂の目白不動や幸神社(荒神社)へと話をもどそう。これらの伽藍(がらん)や社(やしろ)は、明らかに旧・平川(現・神田川)の谷間に向けて建立されている。そして、池袋村の丸池に端を発した金川(弦巻川)は、江戸川橋のあたりで北側から旧・平川(神田川)へと流れこんでいた。もっとも、この流れ筋は江戸期のもので、より古い時代の金川(弦巻川)は、異なる位置から旧・平川あるいは白鳥池へと流れこんでいたのかもしれない。この北側から流入する金川(弦巻川)に対し、南側から旧・平川(現・神田川)へと流入する同じ名称の「金川」が存在していた。同書から、再び引用してみよう。

 
  ▼
 八幡宮の門前を流れる金川の源は、戸山の尾州屋敷から出ている。昔は広い流れであった。門前に石橋が掛っている。これが駒留橋で。神事流鏑馬の時、この橋の所に馬を揃えたので、この名がある。/金川はかの川・かな川等いわれたが、今ではかに川という。文明年間(一四九六~八六)太田道灌が遊猟して、鷹を放った所である。このことは山吹の里の項にも詳しく書いて置いた。
  ▲
 八幡宮とは、穴八幡Click!(高田八幡)のことだ。文中に、「戸山の尾州屋敷から出ている」と書かれているが誤りで、源流はもっと南にあった。下戸塚側(早稲田側)の金川は、東大久保(ここも「久保」地名であることに留意されたい)の西向天神のさらに南、番衆町にあった大きな湧水源(「大久保」そのものの意味地名だ)、あるいは新宿停車場が建設される以前の角筈Click!に端を発し、尾張徳川家の下屋敷内(戸山ヶ原Click!)に造園されていた大池(東海道五十三次の琵琶湖想定)をへて、現在の早稲田大学文学部キャンパスの南を貫通し、支流は大隈庭園あたりから旧・平川(現・神田川)へ合流するか、あるいはもう1本の支流が目白不動の南側あたりで同河川に合流している。これも、江戸期に整備された川筋の可能性があり古代の流れとは異なるのだろうが、いにしえより戸塚側の金川が、旧・平川または白鳥池に注いでいたのはまちがいないだろう。
 すなわち、旧・平川(現・神田川)の流れをはさみ、南北に金川の名を残した川筋が古くから存在し、その中心地とみられる“目白の丘”(江戸期より関口)には、創立が不明なほど古い幸神社(荒神社)と、刀鍛冶や金工師から崇敬を集めたと思われる、目白=鋼の名を関した目白不動、そして「金(かね)の馬」埋設の伝承が残り、そのすぐ北側には金川(弦巻川)の流れとともに、金山(神奈山)や神田久保(神奈久保)の地名が展開している。さらに“目白の丘”の西、現在の目白駅がある谷間は、江戸期には金久保沢Click!と呼ばれており、金=鉄と久保の地名、そして流れ出る沢とがセットになった、大鍛冶(タタラ)のカンナ流し(神奈流し/神流)の仕事にはもってこいの地形を意味する字名までが残っている。
 ちょっと余談だが、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)に掲載されている徳川義親Click!の証言によれば、1885年(明治18)に日本鉄道(私営)の目白停車場Click!が設置されてからしばらくの間、駅周辺の地元ではあえて「高田停車場」と呼ばれていたらしい伝承が紹介されている。目白不動のある“目白の丘”(現・文京区)から、はるか西へ2kmも離れた高田町金久保沢(現・豊島区)に設置された目白駅は、江戸期の記憶が鮮明で生々しい明治初期の地付きの人々にとってみれば、「高田駅」ではあっても小石川エリアの地名を冠した「目白駅」とは呼べない、高田住民としての沽券や意地が存在していたのだろう。
 目白不動堂があった新長谷寺は空襲で炎上し、戦後もしばらくの間は廃墟のような状態がつづいていたが、いまだ信仰がつづいていた目白不動堂のみ、目白坂から目白崖線沿いの西1kmほどのところにある金乗院へと遷座している。目白駅へ少し近づいたわけで、あと1kmともうちょっとの距離だ。w 


 最後に、もうひとつ気になることを書きとめておきたい。高田や雑司ヶ谷あるいはその周辺域に、火男(ひおとこ=ひょっとこ)の伝承ないしは伝統芸能は残っていないだろうか? タタラ製鉄の火おこしの火を吹くため口がとがり、目白=鋼の製錬の様子を窯に開けた小さな穴から覗きつづけるため、大鍛冶職人は40代で利き目を失明したといわれ、足踏みの鞴(ふいご)を踏みつづけるために、年を取ってから片足が萎えて文字どおり“タタラ”を踏んだ歩き方をする、ことさら滑稽さが強調されたあの「ひょっとこ」だ。当時の定住者である農民たちが、非定住者である大鍛冶たちをどのような目で眺めていたかが透けて見える象徴的な史的キャラクターといえるだろう。「ひょっとこ」の伝統芸能あるいは伝承・伝説が残る地域は、かなり後世まで(といっても江戸期以前だが)タタラ製鉄が行われていた地域として全国的に見られる傾向だ。ご存じの方は、ご教示いただきたい。

◆写真上:金川(弦巻川)が暗渠化され、川筋上に敷設された細い路地。
◆写真中上:上は、『江戸名所図会』にみる神田久保に建立された清土鬼子母神堂と星跡の三角井戸(中央手前)。左手に金川(弦巻川)が流れているので、西側から東を向いて写生をしたのがわかる。中は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる神田久保。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同地域。
◆写真中下:上は、清土鬼子母神堂の本堂。下は、1956年(昭和31)に撮影された星跡の三角井戸(左)と現在の同井戸(右)。質のよい湧水が噴出したため名井戸となったものだが、1956年(昭和31)には江戸期と同様に木製だったのがわかる。
◆写真下:上は、目白台側の斜面中腹から眺めた神田久保を貫通する不忍通り。下は、1956年(昭和31)に撮影された金乗院へ遷座後の目白不動。