大正の末から昭和初期にかけて、鉄道省は鉄道免許の濫発を行なっている。東京を中心に首都圏はもちろん、地方のあちこちで鉄道敷設の話が持ちあがり、そのたびに地元の建設業者や土木会社、その他の企業などへ工事免許を下ろしていた。
 だが、免許を出したのにもかかわらず、現地では一向に起工しないケースも多く、鉄道省では認可業務とその管理に忙殺されるだけで、業務の負荷が高まるばかりだった。これには、地方の不動産業者が「工事会社」と結託し、鉄道敷設の計画があり免許も下りているので、いま土地を購入しておけば駅ができてから地価が上昇するというような、架空の鉄道プロジェクトをチラつかせた、詐欺まがいの商売が横行していた疑いが強い。
 また、今日の商標登録ビジネスと同様に、先に免許だけ取得しておいて必要になった事業体に高く売りつけるというような、鉄道免許を先物取引の商売道具化するような「利福屋」が登場してたのだろう。業を煮やした鉄道省では、1927年(昭和2)6月に鉄道免許の有料化と審査の厳密化を発表している。また、免許を取得したままにしている事業体には、「免許保護料」の名目で新たに課金する制度も発表した。1927年(昭和2)6月29日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 不公正なる出願防止に地方鉄道の出願料をとる
 免許保護料制も設けて利福屋を徹底的に一掃
 最近地方鉄道の出願はほとんど濫願に陥りその結果は免許を受けても工事着手の意志なく施工期を過ぎて空しく権利をはく奪さるゝもの相当数に上つてゐるがこれ等は単に権利を得たいといふ不公正な動機から工務所等と結託して出願する有様なので鉄道省では来期議会に地方鉄道法改正案を提出するに当り濫願の弊を防止する手段として出願料並びに免許保護料を負担せしめんとの意向である(。)又既設の地方鉄道助長方策として新線建設資金に充当するため普通株に劣る劣後株の発行に対しては殊に電気鉄道会社の熱望するところなのでこれが改正案も再び提案する方針であると(。)(カッコ内引用者註)
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 これは、首都圏でも同じような事情で、およそすぐには着工されそうもない鉄道線があちこちで申請され、鉄道省ではつど免許を下ろしている。落合地域だけを見ても、省線の高田馬場駅を起点とし、小田原まで急行が通う小田原急行小田原線Click!の敷設計画をはじめ、同じく高田馬場駅を経由して戸山ヶ原Click!を通過し早稲田、さらには東京市街地へ地下鉄路線の敷設・展開をねらう西武鉄道Click!の計画などが見られる。



 西武線の地下鉄化には、戸山ヶ原の陸軍からさまざまな注文が寄せられているが、高田馬場駅をターミナルとする小田原線に関しては、陸海軍ともに比較的スムーズに「異存ナシ」の認可が下りた。しかし、両路線ともなかなか着工までにはいたらなかった。特に、小田急電鉄の場合は、新宿発の路線が1927年(昭和2)に全線開通しており、半ばマーケティング的な実証実験のように客足の様子を観察していたのだろう。もし需要が多ければ、高田馬場駅を起点にして狛江で新宿駅からの路線と合流させる計画だった。
 また、落合地域ではのちの改正道路(現・山手通り)のルート上に、城西電鉄の敷設計画がかなり具体化していた。これは、板橋から武蔵野鉄道の椎名町駅の東側を通過し淀橋町柏木、さらに渋谷駅まで電車を通す計画だった。さらに、板橋方面から武蔵野鉄道の東長崎駅を経由し、西落合を縦断して南へ下る計画線も想定されている。だが、先の小田急小田原線も含めて、この直後に起きた金融恐慌や大恐慌により、すべての計画案が見直しまたは消滅してしまったと思われる。
 これら、東京郊外において鉄道敷設計画が続々登場した背景には、関東大震災Click!を契機に東京西部への人口流入が加速したのと、東京郊外の郡部を市街地に編入し東京市エリアの拡大をともなう東京「都」構想の実現を検討する「都制実行委員会理事会」の活動が活発化していた事情が挙げられる。東京「都」構想は、東京府はもちろん東京市議会でも賛否両論があり、なかなか本格的な実施計画がまとまらなかった。実際に「東京都」が実現するのは、戦時中の1943年(昭和18)になってからのことだ。昭和初期の「都」構想について、1927年(昭和2)6月4日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。



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 現在の市だけを東京都区域に
 隣接町村併合は都制実施後/都制理事会の意見
 東京市会の都制に関する実行委員会理事会は三日午後二時から市会事務局に開会(。)東京市が郊外の町村を編入し単一行政主体を樹立せねばならぬといふ意見は一致したが内務省案たる都制案には左の如き反対意見が多かつた(。)/一、群長の官選は自治体の逆転であるから反対である/二、東京都の区域に三多摩を容れる事は反対である/三、東京都区域はまづ(ママ)現在の東京市の区域をそのまゝとし、隣接三十四ヶ町村の併合はこれを都制施行区域と切離して考へたい/といふ意見に一致し、列席の西久保市長も三多摩の包含や群長を官選とする事に反対し、更に/今日では都制施行区域を現在のまゝの区域とし かつ隣接町村の併合問題も都制実施後がよい、殊に隣接町村中には併合される事を見込んで各種の事業を起しその町村債は少からぬ額で、これをそのまゝ併合する時は東京市は現在よりも更に大なる負担とならねばならぬ/といふ意見を述べ、各理事も西久保市長と同様意見が多かつた(。)(カッコ内引用者註)
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 東京都への編入を見こんで、隣接する34の町村ではこのときとばかり公債を発行し、さまざまな事業が進められようとしていた様子がうかがえる。明らかに東京市街地への編入を前提に、「補助金」めあての町村の財政バランスシートを無視した乱脈な「公共事業」が、あちこちで進められようとしていた。隣接34ヶ町村の中には、もちろん落合町も入っており、その中には自治体を巻きこんだ「鉄道事業」も含まれていたかもしれない。
 東京市の区域が拡大すれば、それだけ社会インフラとしての交通網の整備が急務となるため、さまざまな思惑をはらみながら鉄道免許の取得をめざす各地の事業体が激増したものと思われる。だが、実際には同年に起きた金融恐慌を端緒とし、経済状況が世界大恐慌へと突き進む中で、この時点で構想された鉄道計画の多くは画餅と化している。
 また、地下鉄・西武線の構想は、高田馬場駅で止まったまま頓挫したが、東京地下鉄道(株)や東京高速鉄道(株)の地下鉄企業のみならず、おそらく私営による地下鉄の構想はほかにもあまた存在していただろう。
 政府による地下鉄事業への参入はだいぶ遅れて、1941年(昭和16)に「営団」形式で本格化している。「営団」事業は、近衛文麿Click!による国家総動員体制のもとで官民一体の国策会社として誕生した、戦時体制を前提とする特殊法人だ。地下鉄関連の事業体は、「帝都高速度交通営団」と名づけられ1941年(昭和16)4月に発足した。初代総裁には原邦造が就任しているが、当初は「地下鉄新宿線(第4号線)」(現・丸ノ内線)が構想されている。
 だが、「帝都高速度交通営団」が設立されてからすぐに日米戦争がはじまり、敗戦を迎えるまでの5年間、1本の営業線も開通することができなかった。「地下鉄新宿線(第4号線)」すなわち丸ノ内線の一部が開業するのは、敗戦から9年後、1954年(昭和29)になってからのことだ。



 余談だが、下落合の大きな谷戸のひとつである、林泉園の谷間が埋め立てられたのは、この丸ノ内線工事で出た大量の土砂による。もし、埋め立てられずにいまも深い谷間がそのまま残っていれば、等々力渓谷のような風情が中村彝アトリエClick!の近くまで連続していたと思われるので、ちょっと残念な気がしている。

◆写真上:馴染みの鉄道駅いろいろで、まずは鎌倉駅に停車する横須賀線。
◆写真中上:上は、鶯谷駅を通過する湘南ライナー。中は、大磯駅を通過する特急「踊り子」。下は、1927年(昭和2)6月29日発行の東京朝日新聞より。
◆写真中下:上は、新田端橋から眺めた田端操車場。中は、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の椎名町駅。下は、1927年(昭和2)6月4日発行の東京朝日新聞より。
◆写真下:上は、山手線と西武新宿線。中は、地下鉄・丸ノ内線の工事で埋め立てられた林泉園からつづく谷間。写真は、おとめ山公園拡張工事中のときのもの。下は、1941年(昭和16)3月4日の「帝都高速度交通営団」の発足を伝える東京朝日新聞。