鈴木金平Click!が、初めて中村彝Click!と出会ったのは、1915年(大正4)に岡田虎二郎Click!が本行寺Click!で主催した「静坐会」でのことだった。その後、鈴木金平は本行寺のすぐ近く、下谷区谷中初音町3丁目12番地の桜井方に下宿していた中村彝を訪ねている。だが、当時の彝は作品を手に訪ねてきた若い画学生に、かまっている精神的な余裕などなかっただろう。
 福島県白河に住むパトロンのひとり、伊藤隆三郎あてに出した手紙では「被害者」意識を丸出しにして、「パン屋」(新宿中村屋)のことを悪しざまにいっている。9月になると、相馬俊子Click!への諦めが少し入りこんだものか、「悲惨なもの」として状況をわずかながら客観視できる程度までは落ち着いたようだ。1915年(大正4)9月6日に、彝が伊藤あてに出した手紙の一部を、1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
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 吾々のラブは到底報告するに堪へない程悲惨なものとなつて終ひました。私は狂人視され、〇ちやんの人格は蔑視されて、二人は無法なる法律と親権によつて絶対に隔離されて終ひました。〇ちやんは監禁されて了ひました。吾々は只心の中に吾々の愛を信じその力に希望を抱きつゝ、無惨なる物力の屈辱に堪へて時を待たなくてはならなくなりました。
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 「〇ちやん」とは、もちろん「俊ちゃん」のことであり、彼女が「監禁」されたのは新宿停車場の西口にある女子学院高等科Click!(現・東京女子大学)へ入学し、キャンパス内での寮生活がはじまっていたことを指している。中村屋にいては危険だからと、両親が品川の知り合いの家へ俊子を預ければ、彝はその人物を尾行して夜中になると住宅へ石を投げつけたり、日本刀を片手に中村屋の相馬夫妻のもとへ押し入るなど、「狂人視」されないほうがむしろ不思議な行状を繰り返していた。
 1916年(大正5)8月20日に、中村彝のアトリエClick!が下落合464番地へ竣工すると、鈴木金平はさっそく彝を訪問して中原悌二郎Click!と知り合った。貧乏な鈴木と中原は、ともにペンキ画描きのアルバイトをして糊口をしのぐことになる。1918年(大正7)には、彝を通じて今村繁三Click!からの支援を受けられるようになった。翌1919年(大正8)の夏、日光へ写生旅行に出かけ、そのあと新潟県柏崎に住む彝のパトロンのひとり洲崎義郎Click!のもとへ滞在し、『レンガの焼きガマのある風景』(25号)を制作している。このように、鈴木金平は中村彝と親しくなり、常にその周囲へ身を置いていたことがわかる。
 

 そのせいだろうか、鈴木金平は自由に出歩けないほど病状が進行した彝から、いろいろと頼まれごとを引き受けるようになる。まず、1920年(大正9)1月10日ごろ、面倒をみてもらっていた岡崎キイClick!が持病の腎臓病で倒れた。困った中村彝は、鈴木金平に岡崎キイを入院させるよう頼んでいる。同書より、同年1月21日付けの兵庫県に住む伊原彌生あての手紙から引用してみよう。
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 去年いらした時に居た婆やは、持病の腎臓病がひどくなつて、十日許り前に倒れたので、知人に頼んで一昨日東京の施療病院へ入院させました。年を取つて頼る辺もなく、病身で、正直でほんとに気の毒な婆やでした。僕の事については近所に居る画かき夫婦が朝夕来て親切に世話してくれるので、少しも困りません。
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 同年1月19日に、鈴木金平は岡崎キイに付き添って病院へ入院させているようだ。下町育ちの金平だから、「婆さん、早く支度していくよ」と気短かにいうと、勝ち気で気位の高い岡崎キイが「あたくし婆さんなんて、あんたに呼ばれる筋合いはありません」、「ほら、じれってえな、早くいくよ!」、「婆さんじゃありません!」、「金平君、オバサンと呼んだげて」……といった3者の会話を想像してしまうのだがw、そんな会話を聞きながら彝は少しホッとしていたのかもしれない。
 近々、新潟県柏崎から新しい婆やが、のちに洲崎義郎あての手紙で「あゝほんとに親切な婆やです」と書き送る女性がやってくることになっていた。裏返せば、ときおり彝と岡崎キイは激しく衝突し、彝にしてみれば“ぞんざいな扱い”を受けていると感じていた気持ちの裏返しなのだろう。また、岡崎キイは胃痙攣の持病もあり、夜中に発作が起きると、彝が江戸からつづく民間療法の「梅生番茶(うめしょうばんちゃ)」(ただし彝はなぜか醤油の代わりに白砂糖を加えている)をつくって飲ませたり、温めたコンニャクを手ぬぐいにくるんでお腹に当てる「蒟蒻湿布」をしたりと、どちらが病人の介護をしているのかわからない状況になったからだ。
 1923年(大正12)7月、鈴木金平は彝から今村繁三のところへ出かけ、所蔵しているピエール・ラプラードの作品を借りてくるよう頼まれている。これは、鈴木金平にあてた彝のハガキが現存しており、7月4日に依頼したことがわかる。同書より引用してみよう。


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 こちらはもう二三日前からさきがけの蝉がおづおづとなき始めた。僕は相変らず思はしくないが、モデルが済み、頭をクリクリ坊主にしたので何んとなくサツパリした。君は何か制作してゐますか。澄ぼうや、ママ達は元気ですか。目白派の連中は皆な元気で制作してゐます。河野、長谷部の両君はモデル、一念は友人の肖像、良三氏の風景……。若し暇があつたら例の画を(誰れのでもいゝ)今村さんから借りて来て呉れまいか、(ラプラード?のでもいゝ)。この間はロダンの素敵な奴を遠山君に見せて貰つた。
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 「河野」は酒井億尋Click!が佐渡から連れてきた画家志望の河野輝彦Click!、「長谷部」は長谷部英一Click!、「一念」はもちろん曾宮一念Click!、「良三氏」は鈴木良三Click!のことだ。鈴木金平は、彝の「ラプラード?」の記述で同作をアトリエへとどけていると思われる。「澄ぼう」は、彝が名づけ親になった鈴木金平の娘・澄子のことで、「ママ」はよね夫人のことだ。
 このハガキのひとつ前、同年5月26日付けの鈴木金平あてのハガキで、彝は薬の礼をいっている。その文面から、おそらく今村繁三がどこかで手に入れた結核によく効く特効薬のようなものを、鈴木金平が彝から頼まれて今村邸へ取りにいき、下落合のアトリエへとどけているのだろう。彝は、なにかと鈴木金平を身辺の用事で頼りにしている様子がうかがえるが、鈴木自身も頼まれたらイヤとはいえない下町育ちの性格からか、こまめに彝の用事をこなしていたらしい。
 関東大震災Click!のあった1923年(大正12)の暮れ、鈴木金平は中村彝から名刺をつくってくれるよう頼まれている。この年の秋、彝は久しぶりに体力が回復して意欲が湧き、再びアトリエで制作ができるようになった。また、今村繁三が1918年(大正7)に取得した国分寺の恋ヶ窪Click!の土地へ、大きな別荘Click!を建てているのを知っており、彝は落成間近な別荘の壁面を自分の作品で埋めたいと思っていたようだ。『芸術の無限感』より、同年12月31日付けで出された今村繁三あての手紙から引用してみよう。
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 震災以来の御繁忙にも拘らず益、御清健の由、曾宮君達から承つてかげながらおよろこび申上げてゐました。国分寺の方の御普請も定めし御進捗の事と存じます。御落成は何時頃になりますか。早くよくなつてそれ等の壁面を自分の絵で埋めることが出来たらどんなに愉快でせう。
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 秋の仕事がたたり、彝はこのとき再び病臥していたのだが、完成した作品が5枚あり、また春になったら大きな画面を2~3点まとめたいとも書いている。おそらく、今村繁三が援助している画家たちの作品が、壁面に多く架けられた国分寺別荘の落成祝賀会に、中村彝も招かれていたのではないか。だから、そのパーティで出会う初対面の人々に渡せるよう、鈴木金平に名刺の作成を依頼した。でも、俥(じんりき)や汽車を乗り継いでいく国分寺の恋ヶ窪は、彝に残された体力を考えればあまりにも遠すぎたのだ。

◆写真上:大雪の日の中村彝アトリエ。
◆写真中上:左上は、鈴木金平にあてた中村彝のハガキ。上右は、1924年(昭和13)12月27日に撮影された中村彝の葬儀における鈴木金平で、手前は1920年(大正9)1月に入院で付き添っていた岡崎キイ。下は、中村彝アトリエの居間から眺めた雪の庭。
◆写真中下:上は、ちょうど彝から岡崎キイの入院の面倒を頼まれたころに制作された鈴木金平『香水屋の二階より』(1920年)。おそらく京橋区竹川町11番地(現・銀座7丁目)にあった、開店して間もない資生堂化粧品店2階からの眺めで、日本初の日本人女性向けの香水「花椿」が発売され人気をさらっていたころだ。下は、彝アトリエ庭の雪景で右手の樹木はツバキ。
◆写真下:上は、同じく1920年(大正9)ごろ描かれたとみられる鈴木金平『ざくろの静物』。下は、彝アトリエ裏の一吉元結工場Click!干場跡に降る雪。目白福音教会のメーヤー館Click!(宣教師館)は、2軒の西洋館にはさまれた路地の突き当たり正面に見えた。