1938年(昭和13)に撮影された、1枚の水害写真がある。(冒頭写真) いまの場所でいうと中井駅の南側、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!と橋の北側に建っている喫茶店「コロラド」のあたりを、対岸(南側)から撮影したものだ。大雨による妙正寺川の洪水で、寺斉橋と同橋の北詰めに建っていた下落合3丁目1924番地(現・中落合1丁目)の家屋が押し流され、跡形もなくなっている。寺斉橋は石造りのはずだったが、周辺の積み石の護岸とともに丸ごと流出し、強大な洪水の水圧を物語っている。
 手前に建っていた川端の家屋を流され、いまにも崩れそうな岸辺の上にかろうじて建っているのは、1938年(昭和13)の当時は「田中写真館」の中井駅前出店(支店)だが、ほんの数年前までは萩原朔太郎の元・萩原稲子夫人が経営していた喫茶店「ワゴン」Click!だった。その様子は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の巻頭グラビア(次写真)に、偶然とらえられている。同店の南側には、商店家屋が近接して建てられていたため、店舗の規模や側面の様子がよくわからなかったが、この水害写真でハッキリと観察することができる。
 下駄・履物屋の物置きを、1931年(昭和6)春に小さな喫茶店の店舗へと改造したのは、上落合に住んでいた詩人の逸見猶吉だった。同年、萩原稲子と恋人の学生が喫茶店「ワゴン」を開くのだが、おそらく1935年(昭和10)前後には閉店している。冒頭の写真は、「ワゴン」閉店後に入った田中写真館の出店が偶然とらえられたものだ。喫茶店「ワゴン」の開店中は、改築を引き受けた逸見猶吉をはじめ、近くに住む宍戸儀一や石川善助、草野心平、檀一雄Click!、古谷綱武Click!、百田宗治、伊藤整Click!、太宰治Click!、尾崎一雄Click!、林芙美子Click!らが通ってきており、ちょっとした「文学サロン」のような趣きの情報交換の場所だった。
 1938年(昭和13)の洪水の模様を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会から出版された『昔ばなし』から引用してみよう。
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 昭和十三年六月の大雨のとき、今の落五小の上のあたりから大正橋あたりが大水で大変な被害を出しました。特に寺斉橋(中井駅のソバの橋)から上落合側の方は、大水で土台をえぐられ、次々と民家が川の中に倒れ、見ているうちに流されてしまいました。当時は「川」が曲りくねっていたためでした。それから現在のように改修されたのです。
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 妙正寺川は、寺斉橋と隣接家屋を押し流した大洪水の前年、1937年(昭和12)にも周辺の商店街や住宅街が床上浸水する深刻な洪水被害をもたらしている。同様に、妙正寺川が流れこむ旧・神田上水(現・神田川)も、台風などによる大雨が降ると頻繁に氾濫を繰り返し、その流域へ毎年のように大きな被害をおよぼしていた。妙正寺川や旧・神田上水は、流域の田畑へ豊かで清廉な灌漑用水をもたらす反面、一度氾濫すると手がつけられない暴れ川と化した。その繰り返しは、つい最近までつづいていた。



 1980~1990年代にかけ、少し多めの雨が降ると神田川はすぐに危険水位を超え、わたしの家からも夜中に鳴り響く洪水警報のサイレンがかすかに聞こえていた。洪水は神田川流域のどこかで、ほとんど毎年のように繰り返し発生していたが、下落合の下流域、おもに高田馬場駅から東側で洪水が発生するようになったのは1958年(昭和33)からだ。上流の中野区や杉並区の住宅地化や道路舗装が急速に進み、妙正寺川や神田川へ雨水の流出率Click!が急激に高まったからだろう。
 わたしが下落合へ初めて足を踏み入れて以降、印象深い洪水は1974年(昭和49)、1978年(昭和53)、1981年(昭和56)、1989年(昭和64)、そして1993年(平成5)と頻繁に起きている。2011年(平成23)にも、大雨つづきで水位が護岸のギリギリにまで達し、沿岸にお住まいの方々は不安な夜をすごしている。
 特に、1993年(平成5)は台風11号の大雨により、神田川水系の上流域と下流域で洪水被害が相次ぎ、沿岸の住宅地に甚大な被害をもたらした。飯田橋の舩河原橋周辺(文京区後楽)から、白鳥橋の南側(新宿区新小川町)の住宅街が冠水しているが、これは典型的な「内水氾濫」によるものだった。内水氾濫とは、神田川の水が直接あふれなくても、住宅街に降った雨水を川へ流す下水道が機能しなくなり、神田川を流れる水の圧力で逆流し下水道のマンホールから水が噴き出して起きる洪水のことだ。
 また、善福寺川と神田川の合流域では、中野区弥生町の和田見橋から新宿区西新宿の相生橋にかけて神田川があふれ、周辺の住宅街を水浸しにしている。このところ、地下貯水池や地下分水流の設置で、神田川の洪水はなんとか食い止められているように見えるが、妙正寺川では川筋が急激にカーブする箇所で、増水による水圧から護岸が崩落する被害が出たのは記憶に新しい。


 さて、神田川や妙正寺川の水害ばかり書いてきたが、この両河川による水利は明治期にいたるまではかり知れないほど大きかった。水害とは裏腹に、江戸期の千代田城Click!や城下町Click!へ配水する上水道基盤Click!を、小石川上水時代を加えれば310年以上にわたって支えつづけ、また流域のかけがえのない灌漑用水として田畑を潤しつづけてきた。1901年(明治34年)まで東京市の上水道インフラとして使用され、その後も流域の農業用水として活用されつづけたが、重要な水資源であるがゆえに近隣の村々では激しい水争いの原因ともなった。
 1908年(明治41)ごろ、田島橋Click!の上流にあった下落合の水車小屋Click!の水利をめぐり、旧・神田上水(現・神田川)の南側で田畑を耕す戸塚村上戸塚(現・高田馬場3丁目)の農民たちと、北側の落合村にある水車小屋を運営する経営側との間で深刻な水争いが起きている。対立は「武装」した両者の大喧嘩にまで発展し、双方に重軽傷者が数多く出たらしい。このときの重傷者は、下流の御茶ノ水にあった順天堂病院まで戸板に乗せられ搬送されている。以下、1983年(昭和58)出版の前掲書から引用してみよう。
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 下落合の「田島橋」のソバに上落合の水車より大きい水車がありました。今から七十五・六年前、戸塚側のお百姓さんと、水車側が水利のことで大喧嘩となり、鳶口で叩かれ、重傷者を出し、戸板でお茶の水の順天堂病院までかつぎ込んだそうです。/これらの水車は次第に穀物をつかなくなり、鉛筆の芯の黒鉛をついていましたが、何れも大正の中頃には姿を消してしまいました。
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 人が家を建てて住むようになると、初めて詳細な「洪水被害」が記録されるようになるのだが、それ以前の農地だった時代の水害記録はほとんど残されていない。神田川水系の流域はあらかた耕作地か森林であり、大雨が降っても土の地面への浸透率が高く、それほど大規模な洪水が起こりにくかったせいもあるのだろう。だが、蛇行を繰り返す旧・神田上水や妙正寺川の流れが一度氾濫すると、沿岸に展開する田畑の農作物が全滅しかねない、深刻な被害をもたらしていたにちがいない。



 1880年(明治13)に作成された落合地図Click!を参照すると、河川沿いの集落は川面から少なくとも3m以上の高台に形成されているのがわかる。洪水で田畑を流されても、被害が人家まで及ばないよう、経験にもとづく当時の危機管理の様子が透けて見えるのだ。

◆写真上:1938年(昭和13)の妙正寺川洪水で流された、寺斉橋跡と北詰めの民家跡。岸辺に見えている田中写真館出店は、数年前までは喫茶店「ワゴン」だった。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に撮影された寺斉橋と喫茶店「ワゴン」周辺。冒頭の写真と比較すると、寺斉橋上流の護岸から「ワゴン」隣りの民家まで丸ごと削られ流出しているのがわかる。中は、1937年(昭和7)の妙正寺川洪水で床上浸水した家々や商店。下は、大雨のあとに撮影した落合公園の南側を流れる妙正寺川の急カーブ。
◆写真中下:上は、1974年(昭和49)に起きた神田川洪水時の上落合における増水。下は、1981年(昭和56)に起きた洪水時の下落合に架かる田島橋周辺の増水。
◆写真下:上は、水量が通常時の山手線神田川鉄橋下「高田馬場峡谷」Click!。水量が少ない通常時でも足にかかる水圧はかなり強く、子どもやお年寄りは耐えきれずに流されるだろう。中は、1993年(平成5)の洪水時における「高田馬場峡谷」の奔流。下は、アユが遡上するまで水質が改善Click!し染物の水洗いClick!もできる通常時の穏やかな神田川。