四世・鶴屋南北Click!(大南北)が、71歳のときに書き下ろした芝居『東海道四谷怪談Click!(あずまかいどう・よつやかいだん)』のヒロイン、お岩さんは目白のどこに住んでいたのかがきょうのテーマだ。江戸時代の目白のエリア概念Click!はもっと東側、現在の目白坂や椿山Click!のある一帯だから、厳密にいえばお岩さんは目白に住んでいたのではない。
 芝居に登場する民谷伊右衛門が提灯貼りの内職をしている長屋は雑司ヶ谷村であり、芝居の場面も「雑司ヶ谷四谷町之場」ということになっている。でも、舞台となっている「四ッ家(谷)」は、雑司ヶ谷村と下高田村、そして小石川村の境界に位置する微妙な街並みだ。特に、江戸期の『御府内場末往還其外沿革図書』では「高田四家町」と採取されているので、もともとは下高田村側から拡がっていった街道沿いの街だったのかもしれない。また、江戸期の崇敬を集めた鬼子母神がある関係で、北側から参道沿いに伸びてきた雑司ヶ谷町と交わるかたちで、雑司ヶ谷村側にも「四家町」と名づけられた街並みが形成されていると思われる。
 ここでややこしいのが、「村」の中に「町」があることだ。高田村の四ッ家町とか、雑司ヶ谷村の四ッ家町とかの表記は記述のミスではない。江戸期には、村落の中の繁華街にも町名(丁名)がついているので、現在の自治体概念からすると町村が“逆転”している。落合地域でいえば、長崎村側の椎名町あるいは下落合村側の椎名町という具合に、主要街道だった清戸道(現・目白通り)沿いでは、しばしば“逆転”現象が見られる。
 町名の由来となった「四ッ家」は、下高田村の四つ辻にあった4軒の大きな造り酒屋だと思われるので、厳密にいえば幕府が採取した『御府内場末往還其外沿革図書』にあるとおり、下高田村の“高田四ッ家町”というのが本来の表現なのだろう。大南北と同時代を生きた金子直德による、寛政年間に記録された『和佳場の小図絵』の現代語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会/1958年)から、「四ッ家町」について引用してみよう。
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 尾州公御門の所より北へ道があって四辻のあった所である。今の辻より東北の角が大澤三右衛門屋敷といい、草分け四軒の内の一軒である。いま一軒は東にあって蓮華寺領の地に住んでいた。それは大平七五郎、すなわち今は中町に住む豊島屋源右衛門跡の七五郎である。三軒目は新倉四郎右衛門であって川越道新倉から出ている。これは上町四郎右衛門の先祖であろう。四軒目は大たんご権兵衛といった者で、皆酒をつくり、或は売ったりしている。此処の字名を酒林と水張を載せているのはこのためである。/この四軒をのぞいた以外は皆とびとびの村家のみである。
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 幕末から明治期にかけて、「四ッ家」由来の4軒の家がクルクル入れ替わったようだ。ときに、名主中心の4軒になったり、そのときの有力者がメインの4軒になったりと、さまざまな付会や尾ひれが語られていたらしく、四ッ家創成期に在住していた肝心の造り酒屋4軒、すなわち四つ辻の北角にあった大澤三右衛門(下高田村)、その東側の大平七五郎、川越の新倉村出身の新倉四郎衛門Click!(雑司ヶ谷村)、そして大たんご権兵衛の4人は、一時期どこかへ追いやられていた。


 ここに書きとめられたのは寛政年間の街並みであり、『四谷怪談』が書かれた数十年後に比べると、いまだ付近は寂しい村落の風情のままだ。化政年間から幕末にかけ、このあたりは鬼子母神への参詣客や大江戸郊外の大名・旗本寮(別荘)の形成、富士見や蛍狩り、月見などの観光客で賑わい、街道沿いには茶屋や料理屋、土産物屋などを表店(おもてだな)とする街並みが徐々に形成されていく。
 さて、『四谷怪談』に登場する仕官をめざして貧乏な暮らしをつづける民谷家は、どのあたりを想定していたのだろうか? 1977年(昭和52)に世界文化社から出版された『日本の古典』第18巻所収の、四世・鶴屋南北『東海道四谷怪談』二幕目からお岩さんの住まいの様子を引用してみよう。なお、同芝居の台本は山本二郎の現代語訳による。
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 雑司ヶ谷四谷町の民谷伊右衛門の侘住居(わびずまい)では、女房のお岩が産後の肥立ちが悪く、床についていた。臨時に雇った下男の小仏小平が、民谷家家伝の薬を盗んで逃げたため、小平を世話した按摩宅悦が介抱にあたり、今も七輪で薬を煎じていた。/伊右衛門は賃仕事の傘を張っていた。眉の濃いきりりとした男前の顔にも、どこか暮しの疲れがにじんで見えた。蚊帳の中から赤児のしきりに泣く声が聞こえてくる。「エゝ、よく泣く餓鬼だ。このなけなしのそのなかで、餓鬼まで生むとは気が利かねえ。これだから素人を女房に持つと亭主の難儀だ」/と小言を言いながら仕事を続けるのだった。
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 情景は、明らかに裏店(うらだな)の長屋の風情だが、この家で小平殺しやお岩さんの最期の修羅場があるので、長屋であれば近所じゅうに筒抜けになって、伊右衛門や宅悦の悪だくみはすぐに露見しただろう。だから、ここは街道筋から少し離れた、周囲には草原の多いあばら家ながらも、四ッ家町の1軒家でなければならない。ましてや、お岩さんと小平の死骸を戸板の裏表に釘で打ちつけ、それをエッチラオッチラと神田上水まで運ばなければならないので、なおさら長屋では都合が悪いのだ。

 
 もうひとつ、民谷家の隣家が伊藤喜兵衛宅、つまり喜兵衛の孫娘・お梅の婿に民谷伊右衛門を迎えて家督の安泰を謀ろうと、お岩さんへ「血の道」の妙薬と称して毒薬をとどけさせた謀略じじいの屋敷の課題もある。この謀略じじいの喜兵衛は、なにを血迷ったのか薬の礼をいいにきた伊右衛門に、その場で家族ともどもわざとらしい愁嘆場を演じて、妻帯の伊右衛門と孫娘・お梅との祝言を「コレ、女房じゃぞ」と決めてしまう。
 ここで重要なのは、謀略じじいの伊藤喜兵衛ではなく、あばら家と思われる民谷家の隣家が武家屋敷であるという事実だ。先の『御府内場末往還其外沿革図書』や、尾張屋清七版の江戸切絵図『雑司ヶ谷音羽絵図』を参照すると、街道の清戸道(現・目白通り)をはさんで南側の下高田村四ッ家町は、松平佐兵衛や阿部伊勢守、松平大炊守、大岡主膳正Click!とほぼ周囲を大旗本や大名の大きな下屋敷で囲まれている。ところが、街道の北側に位置する雑司ヶ谷村の四ッ家町は、周囲を畑地や鬼子母神の参道沿いに伸びる雑司ヶ谷町に接していて、武家屋敷がほとんど存在しない。
 唯一、雑司ヶ谷村(下雑司ヶ谷村とも)四ッ家町で例外的に武家屋敷に接しているのは、鬼子母神Click!の参道右手(東側)にある一画だけなのだ。武家屋敷は旗本の家だろうか、切絵図には「清水市三郎」の名前が収録されている。それほど大きくはないこの屋敷をはさみ、東西に雑司ヶ谷村の四ッ家町と思しき宅地があるのだが、四世・鶴屋南北はこのあたりを民谷家のある『四谷怪談』のモデルに選ばなかっただろうか。ただし、武家屋敷の東側の四ッ家町は、すぐに広めの道路に面していて賑やかそうなので、お岩さんが「恨めしいは伊右衛門殿、伊藤親子の者どもも、なに安穏におくべきか~!」などと叫べば、隣り近所が「なんでぇ、どうした?」と集まってきそうなので、ここは北側に畑地を背負った武家屋敷西側の、やや寂しげな四ッ家町でなければ具合が悪い。
 すなわち、民谷伊右衛門とお岩さんが暮らしていた家は、清水市三郎屋敷がある西側の雑司ヶ谷四ッ家町であり、鬼子母神の参道からかなり外側(東側)へ外れた、畑地に接する家もまばらなエリア、そして隣接する清水屋敷(芝居では伊藤喜兵衛屋敷)の練塀が庭先から見えるような位置に想定されていたと思われるのだ。現在の住所でいうと、豊島区雑司が谷2丁目15番地の北寄りに、鶴屋南北ないしはその若い弟子たちがロケハンをした家が建っていたのかもしれない。


 『東海道四谷怪談』の中で、四幕目の「深川三角屋敷之場」のみが四世・鶴屋南北の自筆で書かれているという。つまり、他の場面は立作者(台本部長)としての鶴屋南北が、弟子たちにプロットを説明して書かせた可能性が高い。だから同作の原本を読むと、各幕によって民谷伊右衛門のキャラクターが冷酷無比な大悪党になったり、小心でややユーモラスな小悪党になったりと、刻々と変化する性格がおかしい。芝居の舞台ではなく台本そのものを読む楽しみは、このあたりにあるのかもしれない。

◆写真上:蚊帳を質草にしようと奪う伊右衛門、豊国「元伊右衛門浪宅之場」。
◆写真中上:上は、雑司ヶ谷鬼子母神の参道。雑司ヶ谷四ッ家町の民谷宅は写真の背後、清戸道(現・目白通り)から参道へ向かう道の1本を少し入った東側に想定されていると思われる。下は、昭和初期に上演された『東海道四谷怪談』の舞台。伊右衛門は十五代目・市村羽左衛門、宅悦は四代目・片岡市蔵、小佛小平は六代目・尾上梅幸。
◆写真中下:上は、『東駅四谷怪談』の挿画に描かれたお岩。下は、国周が描く「砂村隠亡堀之場」の戸板返しに描かれたお岩と小平。
◆写真下:上は、1857年(安政4)の尾張屋清七版『雑司ヶ谷音羽絵図』にみる雑司ヶ谷四ッ家町界隈。下は、民谷宅が設定されたあたりの現状。