小島善太郎Click!が描いた初期作品のひとつに、1915年(大正4)制作の『晩秋』がある。戸塚町(現・高田馬場)をはさみ下落合の南東側に拡がる、冬が近い戸山ヶ原Click!の風景を描いたものだが、画家自身がそのときの制作状況を著作へ記録しているのがめずらしい作品だ。しかも、制作されたのが大正の初期であり、のちに続々と建設される陸軍の膨大な施設や建物があまり見られない、明治期の姿をとどめた当時の貴重な記録画ともいえるだろう。(冒頭写真)
 さて、『晩秋』の制作状況を1968年(昭和43)に雪華社から出版された、小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。文中に登場する、戸山ヶ原で落ち合った「彼」とは、太平洋画研究所で知り合った「武藤」という友人のことだ。ふたりはよく連れだって、研究所からの帰りに付近の風景を写生してまわった。
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 研究所の帰途、彼と風景写生の約束をして戸山ヶ原に落ち合った。彼は学資の関係だと云って、水彩画の道具を携げて来ていたが、やがて丘を降りて行った。僕は射的場を東にした高所から、戸塚の森と丘とを背景にして描き出した。/時は晩秋にかかり、曇天に朦靄(もや)が立ち籠め、一望を紫色に包んでいた。丘から見下ろした原の道を画面半分に近景として斜めに入れ、中景に楢の木が二本、道の終りに立って、遠景に戸塚の高台の丘が檜の大きい森で山形に入り、その彼方に目白の丘が煙って空と接している。
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 この文章を読み、わたしは当初、小島善太郎は山手線のすぐ東側にある大久保射撃場Click!に築かれていた、3本のいずれかの防弾土塁(三角山)Click!の上にイーゼルを据え、東を向いて描いてるのだと想定していた。だが、明治期から大正期の地図を順次確認しているうちに、すぐにそうではないことに気づいた。大久保射撃場Click!の東側前方を、画面のように斜めに横切る道など存在しないからだ。では、この射撃場(小島は「射的場」と表記)とはどこのことなのだろうか?
 大久保射撃場のすぐ東隣りに、明治期から陸軍戸山学校の練兵場が設置されていた。その敷地の南側一帯に、戸山学校の射撃場が建設されている。この射撃場は、昭和初期にはすでに廃止されているので、おそらく関東大震災Click!の直後より、戸山学校の周辺へ市街地から押し寄せてきた家屋が急増するにつれ、住宅地に隣接して危険なので廃止されたとみられる。以降、戸山学校では大久保射撃場で訓練を行っていたのだろう。
 この戸山学校射撃場の東側には、確かに風景を斜めに横切る道が存在している。小島善太郎は、研究所の帰り道に早稲田通りの穴八幡Click!あたりから戸山ヶ原へ入り、のちに近衛騎兵連隊の兵舎(現・学習院女子大学Click!)が建てられるあたりから南に折れ、大久保射撃場と戸山学校の間を通る道路を南に歩いて、道の左手(東側)に築かれていた2本の防弾土塁(三角山)のうち、北側の土塁に上りイーゼルを据えていると思われる。この散策コースは、まさに夏目漱石Click!が西大久保へと抜ける、戸山ヶ原の散歩Click!の道筋のひとつと重なっている。
 

 その土塁上の位置から、画家の望遠気味の眼差しで風景を切りとると、手前を斜めに道路が横切り正面には戸塚の森、すなわちのちに軍医学校Click!や早稲田高等学院Click!(現・早大文学部)などが建てられる丘が北へ大きく張り出し、丘の斜面から向こうには、はるか遠くに目白崖線が望めるという構図を得ることができる。画角は、それほど広くはない。
 ちなみに、小島が「目白の丘」と呼んでいるのは、「目白駅がある丘」という意味ではなく、本来の地名位置であり画面の遠景として描かれた丘陵、すなわち目白坂の途中にいまだ新長谷寺(目白不動堂Click!)が存在していたため、そう呼称している可能性が高いだろう。すなわち、遠景に描かれている目白崖線は、胸突坂(胸衝坂)Click!から山形有朋別荘(現・椿山荘Click!)あたりの丘であり、「目白の丘」は当時の小石川区関口台町、現在の住所でいうと文京区目白台1~2丁目のあたりの崖線のことを指している。目白不動が1,000mほど西へ、すなわち現在の金乗院の位置へ移動したのは戦後のことだ。
 少し余談になるけれど、先日、知人より関口台町(現・目白台)の北西側にある「神田久保」(もともとはカンナクホClick!と呼ばれていた“たなら相通”Click!地名だと思われる)界隈から、金糞(金液)が出土するタタラ遺跡Click!が見つかっているという情報をご教示いただいた。つまり、旧・平川(ピラ川=崖川)Click!の斜面では、段々畑のようなカンナ流し(神奈流/神田流)とともに行われていたのだろう、タタラの遺跡のある場所に建立されていたのが目白(=鋼の古語)Click!の不動堂であるというのは、おそらく偶然ではありえない。


 さて、小島善太郎の『若き日の自画像』からつづけて引用してみよう。
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 射的場の射つ弾丸の音がドォン、ヒュッと断続して聞こえて来る。丘の彼方の檪株(ママ:林)の中で教練をしている兵隊の声が怒鳴る。女学生らしい女の声も交って空に反響(こだま)する。/何時か背後には描写を見んと人がたかってきた。一人になったと思うと四、五人になる。粗末な服の兵隊もいる。/「オイ、行こう――」/そうした声もする。僕は夢中で描き続けていった。枯葉を載せた二本の楢の木が絨毯の様な赤や黄、緑を交えた色を湛えて、その上に高台の畠が覗き、畠には漬け菜が黄色に見え、丘が山高に右から左に下りて来る。丘の頂に檜の森が藍色の屏風のように立っている。目白の丘が遙かに水色に煙って、薄曇りの晩秋の空に明暗を与える。(中略)/此の日も武藤が描き終えたと見え、画の中の一本道のうねった坂下から、画と携帯箱を持って登って来た。やがて僕の傍に来ると、道具を草原に置き、枯草の上に腰を下ろすと膝を立て、腕を組んで僕の描写を見ていた。
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 画家の仕事を、通りがかりの人たちが背後から見物するのは、下落合でも戸山ヶ原でも変わらないようだ。射撃場の土塁の上だから危険だと思うのだが、近くの道路を通行する散歩人や女学生、兵隊たちがわざわざ丘を上ってきて、うしろから画面をのぞきこんでいったらしい。
 それにしても、銃声がして弾丸が空をきってかすめる音がしているにもかかわらず、小島善太郎は気にせずに描きつづけている。兵隊たちも、背後からキャンバスをしばらくのぞきこんでゆくなど、明治が終わったころはいまだにおおらかな時代だった。文章から、友人の武藤は小島が描く道路の坂下、つまり画面の左枠外(北側)のどこかで写生していたものと思われる


 現在、この風景を眺めようとしても不可能だ。戸山学校の土塁は、現在の明治通り沿いにあったのだけれど、とうに崩され整地されて通り沿いのマンション群となっており、描画ポイントには立てない。眺望もなかなかきかなくなっているのだが、わずかに大正初期の面影を残しているのは、戸山公園内に残る箱根山Click!とその周辺の風情だろうか。

◆写真上:1915年(大正4)に、戸山ヶ原で制作された小島善太郎『晩秋』。
◆写真中上:上左は、柏木の蜀江山にあった中村覚邸で書生をしていたころの小島善太郎。上右は、絶版になった雪華社Click!に代わって武蔵野書房より再出版された小島善太郎『若き日の自画像』。下は、『若き日の自画像』の創作ノートだが書籍の出版時のボリュームは3分の1まで圧縮されている。
◆写真中下:上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる2本の土塁が築かれた戸山学校練兵場。下は、『晩秋』の描画ポイントと画角の想定。
◆写真下:上は、1981年(昭和56)に撮影された戸山ヶ原跡。手前のビルは国立国際医療センター病院で、点線は『晩秋』の描画方向。下は、もともとは尾張徳川家下屋敷Click!の庭園の一部だった戸山公園内に残る箱根山の現状。