濱田煕Click!の『記憶画 戸山ヶ原』Click!を眺めていると、戸塚町の側からチラリと下落合風景の垣間見られるのが気になる。それは、山手線の線路際から見える下落合の丘だったり、戸塚第三小学校の正門前から見える下落合の森だったりするのだが、当時の緑ゆたかな目白崖線の姿が記録されている。わたしの学生時代も、目白崖線は緑がふんだんに生い茂る丘だったが、濱田も書いているように、その風景が大きく変りはじめたのは1980年代末ごろからのことだ。
 いつだったか、陸軍士官学校Click!の学生たちが測量演習で描いた、落合地域から戸山ヶ原にかけての1/5,000地形図をご紹介したことがあった。この演習地図Click!の着弾地(避弾地とも=山手線西側の戸山ヶ原)に描かれた一帯に、土塁のような細い筋が縦横に描きこまれ、わたしは塹壕を掘ったあとの痕跡ではないかと推定していた。演習地図が作られたのは、第1次世界大戦の真っ最中だった1917年(大正6)6月であり(発行は8月)、ヨーロッパの前線で重要な戦術となった塹壕戦の情報が日本にも伝わり、陸軍でも塹壕造りや塹壕戦の演習を行ったのではないかと推測していた。
 だが、昭和に入ると時代遅れの塹壕戦はあまり重要視されなくなり、濱田煕がよく入りこんで遊んだ山手線の西側に拡がる戸山ヶ原には、近衛騎兵連隊が演習する馬場が新たに設けられていたらしい。濱田煕は、1937年(昭和12)の記憶として馬場を描くと同時に、大正期に造られたとみられる、山手線の線路際にポツンと残った塹壕も画面に記録している。この時期の戸山ヶ原に造られた塹壕は、地面を掘ったあと穴の壁面が崩れないよう、レンガで固めるという本格的なものだった。上を戦車が通過しても、崩れないように補強した機甲戦が前提の塹壕演習だったかもしれない。
 以下、冒頭の作品に添えられたキャプションを、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原-今はむかし…-』から引用してみよう。
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 新大久保寄りの台地から目白の方向を見る(昭和12年)
 芝生のように低い草の原。煉瓦で築いた塹壕がくの字型に2ツばかり連っていた。左手に(陸軍)科学研究所、右手は山手線、遠く目白の高台に白い学習院のモダンな宿舎が林越しに望めた。現在は此の地の上に超高層の西戸山タワーズホーム群と、シェークスピアの時代を模した東京グローブ座が建っている。(カッコ内引用者註)
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 中央の正面に描かれているのは、下落合1丁目406番地の学習院昭和寮Click!の寮棟なのだが、濱田が立っている位置(現・百人町4丁目界隈)から、同寮がこれほど大きく見えたはずはないので、画家の眼による「望遠レンズ」の画面だろう。手前の草原に掘られているのが、レンガ積みで壁面を補強されている塹壕の残滓だ。右手の線路は山手線だが、走っているのは機関車が牽引する山手貨物線で、線路の向こうには射撃場の防弾土塁(三角山)Click!が、線路際と少し離れた位置にふたつ見えている。
 さて、もうひとつの作品は戸塚第三小学校を描いたものだ。西門前と校庭の2作品があるが、下落合の丘が見えているのは西門前の情景だ。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、濱田煕の描画ポイントとほぼ同位置から撮影された、同小学校の写真が掲載されているが、やはり遠景には下落合の丘がとらえられている。同作品のキャプションを、前掲書から引用してみよう。
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 戸塚第三小学校/校舎前道路の南方面から、下落合方面を見る。
 昭和元年開校だから、丁度新築4年目から6年間通った校舎である。関東大震災後の建築だが、震災後の急な人口増に間に合わせるためか、或は郡部であったせいか木造校舎である。ただ防火壁とシャッターは4箇所あった。この校舎も昭和20年5月の東京空襲でキレイに焼失してしまった。/冬になると、各教室からニョキニョキと煙突が立ち、登校時学校に近づくにつれ濃くなるダルマストーブの吐き出す乳白色の煙と、石炭特有の匂を今も思い出す。
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 画面には、パースペクティブのきいた西門つづきの校舎の向こうに、目白変電所Click!へと向かう東京電燈谷村線Click!の高圧鉄塔のひとつがとらえられ、さらに、鉄塔の向こう側には下落合の緑の丘が描かれている。当時の高圧線鉄塔は、1960年代まであちこちに建てられていた“Π”型をしていたことがわかる。おそらく、戦前の最新型ではなかっただろうか。谷村線は、目白変電所の終端が目前なので、高圧線の分岐が柔軟にできる同型の鉄塔を建てているのかもしれない。
 この位置から見える下落合の丘は、急な久七坂の通うあたりの丘で、佐伯祐三Click!が丘上にイーゼルを据えて『下落合風景』Click!の1作、「見下シ」Click!の池田邸Click!を描いたと思われる散歩コースClick!の一角だ。目白崖線に多い文字どおりバッケClick!(崖地)状をした急斜面で、段差の大きなひな壇状に土地を造成しなければ、住宅が建てられなかったエリアだ。
 濱田は、戸塚第三小学校を卒業すると早稲田中学校Click!へと入学し、そのあと東京美術学校へと進むことになる。戦前から、おもにインダストリアル・デザインの分野でデザイナーとして活躍したようだが、仕事の合い間を見つけては自宅の近所の風景を、こまめにスケッチしてまわっていた。それらのスケッチ類は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲ですべて焼けてしまうのだが、抜群の記憶力から戦後に思い出して描いたのが、これらの精細な「記憶画」作品群ということになる。
 濱田煕が描く風景画は、昭和初期の情景がわかって貴重なのはもちろん、当時の「色」がハッキリとわかることだ。たとえば、昭和初期のダット乗合自動車Click!や関東バスClick!がどのようなカラーで車体を塗られていたのか、あるいは西武電鉄Click!や山手線はどのような色をしていたのかがよくわかる。また、市街地化が進むにつれ、崩されてしまった丘や崖、勾配が修正されて坂がなくなってしまった早稲田通り、高圧線鉄塔の形状や煙突の位置、暗渠化され埋め立てられた小流れや池などがそのまま描きこまれている。


 
 たとえば、山手線のガード側から諏訪通り(諏訪社方面)を描いた作品と、その逆に明治通り側から諏訪通りを描いた作品が残されている。地下鉄「西武線」Click!が通る予定だったルートだが、空中写真や地図からは具体的な情景がうかがい知れなかった。だが、濱田の画面を見ると、昭和初期の諏訪通りの風情がそれこそ手に取るようにわかる。現代の諏訪通り沿いに拡がる光景とは、とても同一場所の風景とは思えないほどだ。このほかにも、濱田煕『記憶画 戸山ヶ原』には興味深い画面が掲載されているので、機会があればまたご紹介したいと思っている。

◆写真上:1937年(昭和12)当時を描いた「新大久保寄りの台地から目白の方向を見る」。
◆写真中上:上は、「新大久保寄りの台地から目白の方向を見る」描画ポイントあたりの現状。中上は、昭和初期の「戸塚第三小学校/校舎前道路の南方面から、下落合方面を見る」。中下は、1931年(昭和6)に撮影された描画ポイントとほぼ同位置からの戸塚三小。下は、1960年代末に東海道線の車窓からよく見られた多摩川近くの“Π”型高圧線鉄塔。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚三小から下落合にかけての眺め。中は、1936年(昭和11)当時の高田馬場駅を描いた「西部電車の終点」。下は、同作の描画ポイントあたりから見た山手線と西武新宿線の高田馬場駅。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)当時の「山手線の側から、諏訪神社の方角を見る」。中は、同年の「明治通りの方から諏訪神社の方角を望む」。下は、諏訪通りの「山手線の側から……」の現状(左)と、「明治通りの方から……」の現状(右)。