謹賀新年。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。さて、お正月の第1弾は佐伯祐三Click!の作品で、描画ポイントが不明だった『戸山ヶ原風景』から……。
  ★
 佐伯祐三が1920年(大正9)に描いた、『戸山ヶ原風景』Click!の描画ポイントがほぼ判明した。10年前の記事では、あまりに漠然とした風景画に感じられていたので「どこだかわからない」と書いたが、戸山ヶ原の様子が各年代にわたり具体的につかめてきた現在、佐伯は特徴的な風景を画面に描いていたことがわかる。
 佐伯祐三は、他の画家たちのように戸山ヶ原の風景を、「郊外風景」や「武蔵野風景」といった一般的かつ単純なテーマをベースに、画面を構成しているのではない。そこには、人工的な手が大きく加えられ、他の戸山ヶ原エリアや近くの野原などには見られない、まるで工事現場か発掘現場のような殺伐とした風情を、意図的に画因に選んで描いている。このモチーフ選択は大正末から昭和初期にかけ、当時あちこちで道路工事が行なわれ建設現場が点在していた落合地域を散策し、あえてそのような殺風景な情景を好んで描きつづけた『下落合風景』シリーズClick!に通底する制作コンセプトだ。
 まず、以前にものたがひさんClick!が「『高田馬場』の佐伯祐三」記事Click!で分析されているように、佐伯が高田馬場時代に下宿していたのは、高田馬場駅から西へ歩いてすぐの界隈、すなわち戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)にあったとわたしも思う。それは、佐伯米子Click!をはじめ山田新一Click!など佐伯周辺の人々の証言を総合すると、佐伯の下宿は山手線の東側に拡がる、より陸軍施設Click!が多かった戸山ヶ原のエリアではなく、当時は陸軍科学研究所Click!の建物がほとんど存在せず、陸軍技術本部も移転してきていない、いまだ線路際が「着弾地」あるいは「避弾地」などと呼ばれていた山手線西側に拡がる戸山ヶ原エリアに近い位置だ。
 佐伯の画面を見ると、山手線の西側に拡がっていた戸山ヶ原(現・西戸山)の、非常に特徴的な風景をとらえているのがわかる。すなわち、戦後に北側へ80mほど遷座する以前の天祖社Click!の、南西約100mほどのところにポツンと立っていた、周辺に住む地元の人たちからは「一本松」と呼ばれていた、クロマツの大木が画面に取り入れられている。この一本松のほか、天祖社の境内にあった大木で、神木とされ注連縄が張られていた大ケヤキの樹木2本が、山手線西側の戸山ヶ原では特に目立つ樹木だった。佐伯は、天祖社の神木である大ケヤキではなく、原っぱの真ん中にポツンと立っていた一本松を、左端に入れて画面を構成しているのがわかる。
 そして、前面の随所で掘り返され、赤土がむき出しの戸山ヶ原の拡がりが、佐伯の制作意欲を強く刺激したのだ。実は、この西に拡がる戸山ヶ原独特の風情は、以前に陸軍士官学校Click!の「演習地図」Click!として、すでにご紹介していた。陸士の測量演習によって作成された「演習地図」は、1917年(大正6)の戸山ヶ原をとらえたものだが、佐伯が『戸山ヶ原風景』を制作する3年ほど前の姿だ。同地図には、戸山ヶ原を縦横に走る土塁の表現が描かれている。ヨーロッパでは第一次世界大戦が真っ最中だった時期、おそらく同戦争の最前線で重要な戦術のひとつとして注目された、「塹壕戦」に備えた演習が行なわれていたのだろうと想定したが、濱田煕Click!の『記憶画・戸山ヶ原』Click!にも塹壕戦演習が行なわれていた事実がとらえられており、濱田の作品によって裏づけがとれたかたちだ。
 


 ただし、濱田がとらえた塹壕は1938年(昭和13)のものであり、戦略的にも戦術的にも歩兵や騎兵を中心とする「塹壕戦」というような戦闘概念が時代遅れで、あまり重要視されなくなった時期のものであり(機甲部隊による歩兵も加えた機甲戦が最優先で想定されていただろう)、塹壕の側面をレンガで固めるなど、大正期の演習より塹壕の形態も仕様も進化し、強化されているのがわかる。濱田が思いだして描いた1938年(昭和13)現在、大正期に塹壕が縦横に掘られていた広い原っぱは、近衛騎兵連隊の演習が行なえるよう馬場として整備されており、馬術用の障害などが点在するような光景に変わっていた。
 さて、佐伯の『戸山ヶ原風景』には、3年前に陸軍士官学校による測量演習でとらえられた地表が、具体的な様子として描写されている。原の一面に見える茶色の土手のような“段差”は、小崖線が戸山ヶ原の丘を縦横に走っているのではなく、塹壕戦演習であちこちの地面が掘り返された跡だ。本来なら、平坦な草原が斜面一面に拡がっていたはずなのだが、陸軍の塹壕戦演習が毎年、戸山ヶ原のあちこちで繰り返されるうちに、このような姿になってしまったのだろう。塹壕戦演習は当初、市谷にあった陸軍士官学校の校庭を使って行なわれていたようだが、やはりスペースが狭隘で大規模な塹壕戦演習には適さず、戸山ヶ原や代々木練兵場まで出かけなければならなかった。
 佐伯の画面を見ると、光は正面の右手から射しているように見え、ほぼ南側を向いて描いていると考えられる。地面の盛り上がり、すなわち緩やかな丘のピークは正面やや右寄りにあるとみられ、地面は左にも右にも、また手前にも少し傾斜して下っているように見える。一本松が左端にとらえられているので、佐伯がイーゼルを据えているのはやや西側の位置であり、佐伯はキャンバスを南南東に向けて描いていると思われる。つまり、佐伯は戸塚町上戸塚795番地あたりの道路から戸山ヶ原へ入り、一本松を視界の支点にしながら南西に向かって歩いていった。換言すると、その地番の近辺に佐伯の下宿があった公算が高いことになる。高田馬場駅から、西へ歩いておよそ7~8分のエリアだ。




 戸山ヶ原を歩きはじめた佐伯は、一本松がちょうど左端に位置し、前面には掘り返された塹壕戦演習の土手や“段差”が、まるで波のように幾重にも重なるように見えるポイントで足を止めると、「おもろいがな」と画道具を下ろしてイーゼルをセッティングしはじめた。ただし、そのとき丘の遠景に頭をのぞかせている、山手線の東側に建っていた東京菓子工場の煙突の先端が気になっただろうか? 佐伯は、煙突を描かずに画面からあえて消してしまうか、あるいは一本松の陰に隠してしまうかで、ほんの少し逡巡したかもしれない。佐伯は、イーゼルと画道具をもったまま、少し北側へ後もどりすると斜面を少し下るかたちになり、うまく手前の一本松の陰に煙突が隠れた。
 佐伯が『戸山ヶ原風景』を描くのに、どれぐらいの時間をかけているかは不明だが、第1次渡仏前の作品なので、その筆致から比較的ゆっくりとしたスピードだったのかもしれない。絵具の黒は使われていないようで、茶と緑、青、白の濃淡で構成された画面だ。戸山ヶ原を覆う草がすっかり枯れているので、季節は冬と思われるが木々の緑には微妙に茶が混じっており、これらの樹木が常緑樹(遠景に見える百人町側の緑も針葉樹?)であることがわかる。ちなみに戸山ヶ原の地図では、山手線の線路際には広葉樹(多くは落葉樹)が多く、南側の百人町へ下る斜面には針葉樹が生えていたことが記録されている。
 『戸山ヶ原風景』は、佐伯が東京美術学校2年生のとき、1920年(大正9)の新春ないしは早春ごろの制作で、戸塚町に下宿してから半年ほどがすぎたころの制作だ。風が吹くと、赤土の土埃が舞って目を開いていられないほど散歩者を苦しめた戸山ヶ原だが、佐伯の画面には風が吹いているように見えない。冬のどこか春めいた陽射しを感じさせる暖かな昼、下宿を抜け出した佐伯は画道具を肩に、以前から気になっていた戸山ヶ原の写生にやってきた……そんな雰囲気を感じる画面だ。ちなみに、佐伯の描画ポイントには現在、「都営百人町四丁目アパート」群の高層建築が建っていて現場に立つことができないのはもちろん、『戸山ヶ原風景』のような眺望もまったくきかなくなっている。
 関東大震災Click!ののち、戸山ヶ原には陸軍の大規模な施設が続々と建てられはじめ、佐伯が描いた山手線西側の風景も大きく変貌しつづけることになる。その変化は、昭和期に入るとより顕著となり、1931年(昭和6)に日中戦争がはじまるころから、戸山ヶ原の穏やかな風景は一変する。そして、1941年(昭和16)を境に、さまざまな地図から戸山ヶ原は白く抹消され、陸軍の機密エリアとして秘匿されることになる。
 


 
 佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』は、陸軍士官学校や戸山学校、近衛連隊などによる塹壕戦演習の痕跡も生々しい、どこか将来の戦争を予感させるキナ臭い情景の画面とはいえ、いまだ大正期のどこかノンビリとした平和な1日の昼下がりを切りとった、二度と見ることができない戸山ヶ原の穏やかな表情といえるかもしれない。

◆写真上:1920年(大正9)の初頭に描かれたとみられる佐伯祐三『戸山ヶ原風景』。
◆写真中上:上は、『戸山ヶ原風景』に描かれた一本松(左)と塹壕部分(右)の拡大。中は、1909年(明治42)に作成された1/10,000地形図にみる山手線西側の戸山ヶ原。下は、1917年(大正6)に陸軍士官学校の測量演習で作成された「演習地図」の同所。あちこちに土塁と思われる長い線が描かれ、塹壕戦演習が行われていた様子がうかがえる。
◆写真中下:上は、いずれも塹壕戦の演習を昭和初期に撮影したもので、市谷の陸軍士官学校で行われた演習(上)と、戸山ヶ原で行われた演習(下)の様子。陸士の演習では、兵士たちが防毒マスクを着用しており、明らかに第1次世界大戦の塹壕戦を想定している。中は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。下は、1936年(昭和11)に撮影された同所。陸軍科学研究所の敷地が北側へ大きく拡張されているが、天祖社の南西にある一本松はそのままで、いまだ伐採されていない。
◆写真下:上は、一本松跡の現状(左)と天祖社があったあたりの現状(右)。中は、1938年(昭和13)ごろを描いた濱田煕『天祖社の境内から一本松を望む』(上)と同『戸塚三丁目の家並み』(下)。後者は一本松あたりから天祖社を見ており、大ケヤキの神木がとらえられている。下は、現在の天祖社(左)と遷座とともに移植された神木の大ケヤキ(右)。