昨年の秋に出版された『新宿区の100年』Click!(郷土出版)を含む写真集「目で見る100年」シリーズでは、2003年より順次東京の各区を出版しつづけ、現時点で東京21区までが完成している。残るは江戸東京の中核である、お城の千代田区と中央区の2区(2016年3月刊行予定)のみとなっていたのだが、出版社の都合で新宿区を最後に出版を中止してしまうようだ。このシリーズは赤字ではないようなので、たいへん残念だ。
 わたしは、次の中央区(特に旧・日本橋区)について、家に残ったアルバム写真Click!の提供も済み、その原稿書きを依頼されて楽しみにしていたのだが、ちょっと肩透かしをくらった気分だ。東京23区(旧・35区Click!)を写真集としてシリーズ化し、かんじんカナメの千代田区と中央区だけがないのは、文字どおり画龍点睛を欠くにちがいない。江戸期からつづく神田・日本橋、さらに明治からの銀座・京橋の街並みが目で見る写真集成として欠けているのは、なんとも残念でならない。
 同シリーズは歴史的な記念写真や有名な旧跡、絵ハガキなどになるような名所、どこかで目にしたことのある公式写真や報道写真など、従来の写真集にありがちな視点ではなく、あくまでも市民(庶民)の視線を通じて眺めた街角風景の写真集であることが気に入っていた。したがって、掲載される街並みや人々の写真類は個人のアルバムに保存されたものが中心であり、そういう意味からこの100年間を通じて当時の貴重な街の風情が、妙に飾らずありのままの姿で記録されている。
 もうひとつ、現在の千代田区と中央区の街並み、昔の呼び方をするなら神田区と麹町区、および日本橋区と京橋区は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!および1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!により、ほとんど壊滅的なダメージを受けている。だから、個人宅に保存されていたアルバムの多くは、明治から大正までの写真は関東大震災で、大正から戦前・戦中までの写真は東京大空襲で失われた。そこが乃手Click!の地域とは大きく異なる点であり、だからこそ同写真集シリーズに期待し、楽しみにしていたところなのだ。同シリーズの中央区に掲載される予定だった、家に残る旧・日本橋区の写真類Click!を、このまま埋もれさせてしまうのはもったいないので、全部はとても無理だが、その一部を当サイトの記事としてご紹介したい。


 余談だけれど、出版予定の中央区を意識して親父のアルバムをもう一度ていねいに見ていたら、現在の新宿区北部がずいぶん写っているのに気がついた。親父のアルバムは日本橋の情景が中心という先入観があったため、あまり詳しくは見なおさなかったのだ。親父が下宿していた戸塚界隈(現在の早稲田・高田馬場地域)がメインなのだが、中には解体前の大隈重信邸前の芝庭でくつろぐ学生たちなども写っており、灯台下暗しのたとえ通り『新宿区の100年』へ提供しそこなっている。実家から1冊だけアルバムを持ち出して、そのうしろの余白ページへ学生時代に貼りつけたものだろう。
 さて、冒頭の写真からご紹介しよう。1936年(昭和11)の秋に、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)の5年生が学芸会で上演した、「智恵の実」(『旧約聖書』創世記)の第1幕だ。アダム役は親父だが、イヴ役の女の子がその後どうなったかは聞いていない。ひょっとすると、東京大空襲で命を落としたかもしれない。次はエデンの園を追放された、2幕目「失楽園」の記念写真だと思うのだが、この生徒たちのうち、いったい何人が戦後まで生き残れたのだろう。男子たちは、ちょうど1943年(昭和18)の学徒出陣Click!の時期と重なり、学生生活を送っているはずだ。親父は理系に進んだため、数年の徴兵免除でなんとか生きのびられた。
 乃手の小学校は、男組と女組とに分かれていたようだが、これらの写真でもわかるように下町の小学校は昔から男女混成組で、それは戦前戦後を通じて一貫している特徴だ。また、学芸会は千代田小学校の講堂で行われたとみられるが、舞台は木造なものの、周囲が鉄筋コンクリート造りの耐火建築なのにも注目したい。千代田小学校は関東大震災のあと、先進的な防災・耐火建築として設計・建設された復興小学校のはしりだ。



 同校を嚆矢として、日本橋区や京橋区(現・中央区)には次々と同じ仕様で設計された耐火コンクリートの小学校Click!が建てられていった。現在では、復興小学校Click!の建築は次々と壊され、戦災をくぐり抜け戦後も使われていた千代田小学校の耐火校舎も、日本橋中学校へ移行してから解体されている。
 もうひとつ目を惹くのは、静岡県の興津海岸で行われた1935年(昭和10)=4年生と1936年(昭和11)=5年生、そして1937年(昭和12)=6年生と三度にわたる臨海学校の記念写真だ。男子はみんな褌(ふんどし)だが、女子はおそらく日本橋三越Click!あたりで買ってもらったのだろう、実にさまざまなデザインのカラフルな水着を着ているのがめずらしい。5年生の臨海学校では男子と女子がちょうど21人ずつで半々だが、6年生では男子24人に対して女子26人と、少し女子のほうが増えている。
 人形町の写真館で撮影された、女性たちの髪型の推移も面白い。大正末ごろまでは、いまだ圧倒的に桃割や丸髷が多いのだが、昭和期に入ると様子が一変する。電髪(パーマネント)の普及で、ロール巻きや耳隠しが急増していたのがわかる。わたしの祖母も、おそらく早々に美容院へ出かけて長い髪を切り、洋髪にしてせいせいしたのだろう。昭和に入って撮影された写真には、丸髷姿の女性は見えなくなっている。
 

 街角でとらえられた子どもたちや、中学生・女学生など学生たちの写真も数多く貼られている。でも、彼らの無心な笑顔や彼女たちのオシャレで美しい姿を見ているのは、やはりつらい。乃手に残るアルバム写真とはちがい、下町の写真に残る人々は、死亡率がまったく異なるからだ。アルバムに写る人々の中で、親父を含めていったい何人の方々が東京大空襲から逃れ、かろうじて戦後まで生きながらえることができたのだろうか?

◆写真上:1936年(昭和11)秋に行われた、千代田小学校5年生の学芸会「智恵の実」。
◆写真中上:上は、同年学芸会の記念写真で撮影は小石川区白山下にあった斎藤写真館。下は、耐火建築の復興小学校として絵はがきにもなった同小学校。親父の1年上には三木のり平Click!が、5年下には小林信彦Click!がいた。右側のウィングは「天覧台」と呼ばれ、明治期から代々の天皇が参観する公立の尋常小学校ということで、その住まいの「千代田城」からとって千代田小学校に呼称されるようになったと聞いている。
◆写真中下:千代田小学校の臨海学校記念写真で、静岡県の興津海岸で撮影されたもの。親父が4~6年生にあたり、1935年(昭和10/上)・1936年(昭和11/中)・1937年(昭和12/下)の写真だが、女子の水着のデザインが個性的で面白い。
◆写真下:上は、親戚の女性たちの写真で大正期の丸髷(左)と昭和期の電髪=パーマネント(右)。下は、昭和初期の子どもたちで学童自転車がめずらしい。