濱田煕Click!が、戸塚町上戸塚(現・高田馬場)や戸山ヶ原Click!の周辺を描いたのは、おもに早稲田中学へ通っていたころのようだ。スケッチブックを片手に、自宅近くに拡がる風景を描いていたのは、東京美術学校Click!への進学をめざしていたからだろう。同中学を終えると、濱田は希望どおり東京美術学校へと入学している。
 以下、1988年(昭和63)に出版された濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)の「まえがき」から、近所の記録画を残す経緯について引用してみよう。
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 故郷がどんどん破壊されつつある今日此の頃である。東京で生まれ東京で育った私には“兎追いし彼の川”(ママ)で表現されるような故郷はない。しかし幼児期から少年期を過した所を故郷とするならば、まさしく戸山ヶ原が故郷の風物ということになるだろう。イナゴ追いし彼の原なのだ。/新宿区高田馬場、当時の淀橋区戸塚町に住んでいたのは、大正11年(1922)豊多摩郡上戸塚町で生まれてから昭和43年(1968)まで約48年間である。昭和5年秋から7年夏までの2年間、現在の銀座二丁目で育った以外は戸山ヶ原の傍を離れることなく過して来た。昭和7年再び戸塚町に戻って来た時、父は当時の戸塚町四-791に仮寓した。戸山ヶ原の目の前である。その後戦争をはさんで何度か住いは変ったが、200mと原から離れることは無かった。/これら一連の水彩は、主に中学時代にスケッチして記憶に残っている戸山ヶ原を、思い出しながら再現したものである。原画は昭和20年5月25日の空襲で焼失してしまったので15年位前から思い出す毎に描いてみたものである。
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 濱田煕は、美校を卒業すると大手の自動車メーカーやデザイン会社へ勤め、その後フリーの工業デザイナーかイラストレーター、あるいは油彩・水彩画家となっている。
 濱田の『記録画・戸山ヶ原』には、ところどころに昭和初期を回想した気になる記述がみられる。上戸塚の「バッケが原」も、そんな気になるテーマのひとつだ。これまで、目白崖線沿いの下落合4丁目(現・中井2丁目)の前に拡がる大正期のバッケが原Click!、妙正寺川に築かれたバッケが原のバッケ堰Click!、上落合地域へ宅地化の波が押し寄せると田畑をつぶして耕地整理が行われた、目白崖線西側の上高田に拡がるバッケが原Click!についてご紹介してきた。また、戸塚町側では下戸塚(字)源兵衛Click!の急斜面下にふられ、昭和初期まで残っていた小字、バッケ下Click!もご紹介している。


 落合地域や戸塚地域(現・高田馬場・早稲田地域)、あるいは高田地域(現・目白地域)の界隈で、川沿いの崖地や急斜面のある地形およびその近くの風情、そして地表近くに水脈があり湧水が噴出するような場所を、「バッケ」Click!と呼称していた昔日の様子がうかがえる。そのような斜面に通う坂道のことを通称バッケ坂Click!と呼び、バッケの意味が通じにくくなった明治以降、バッケ坂は「オバケ坂」や「幽霊坂」に転化し、坂名に見あうもっともらしい逸話が付会されていそうなことにも触れてきた。
 そのバッケの名称が、現在の下落合の南、早稲田通りのさらに南側の上戸塚にも、戦前まで存在していたことが判明した。バッケが原と呼ばれていた原っぱは、戸塚町3丁目892~896番地(現・高田馬場4丁目)あたりの戸山ヶ原にほど近い敷地だ。昭和初期の地番表記でいうと、戸塚町(大字)上戸塚(字)稲荷前892~896番地界隈ということになる。高田馬場駅から南西へ200mほど歩いたところ、現在のコーシャハイム高田馬場の集合住宅が3棟並ぶ、もともとは戸山ヶ原へと抜ける丘の崖地ないしは急斜面だった一帯だ。
 上戸塚に展開していたバッケが原の様子を、同書から引用してみよう。
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 緑色の部分が戸山ヶ原で、軍の用地であったが一般の人が自由に出入りしていた。科学研究所や射撃場は軍の管理下であった。戸塚三丁目内の緑地は当時バッケが原といわれ、樹木の茂った崖下の小さな原ッパであった。
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 著者は「崖下の小さな原ッパ」と書いているが、これは著者がそう呼んでいた少年時代の姿であり、より古い時代にはもっと範囲が拡がっていたかもしれない。
 関東大震災Click!以降、東京市近郊へ宅地化の波が押し寄せてくると、戸塚町に残っていた農地や草原、森林は急速に消滅していった。上落合も宅地化が進んだのは同様だが、大正期の妙正寺川沿いに拡がるバッケが原は範囲を縮小せず、昭和に入り田畑をつぶして耕地整理が進められ、一面に草原が拡がっていた上高田のある西側へと“移動”していったと思われる。だが、上戸塚のバッケが原は周囲を住宅に囲まれつづけ、徐々にその範囲が狭められていったのではないだろうか。


 濱田煕は、残念ながら上戸塚のバッケが原風景を作品に残していないようなのだが、この北側へと下る斜面のはるか下に流れているのは、旧・神田上水(1966年より神田川)だった。上戸塚のバッケが原は、戸山ヶ原へと抜ける南の丘の崖地北側に拡がっていたことになるが、この斜面を北へ下るともう1段、早稲田通りの北側へ急激に落ちこむ険しい崖地Click!がある。つまり、旧・神田上水側から南を眺めると、遠くひな壇状に見えたであろう1段目と2段目の崖地の間に、上戸塚のバッケが原が拡がっていたことになる。この地名(地形)呼称は、ちょっと重要だ。
 従来、「バッケが原」「バッケ下」「バッケ坂」などの名称は、河川によって削られた崖地そのもの、あるいは河川沿いの崖地付近にふられた地名(地形名)として呼称されていた……と解釈してきた。実際にバッケの地名が残る一帯は、そのような地形や風情をしているのだが、戸塚町上戸塚のケースを見ると川からかなり離れた場所、すなわち“内陸部”でもバッケと呼称されたであろう地名があったことがうかがわれる。実際に、上戸塚のバッケが原は旧・神田上水から南へ300m以上も離れており、川沿いの地名として解釈するには明らかに遠すぎて無理があるのだ。
 すなわち、「バッケ〇〇」とはいちがいに川沿いの地名(地形呼称)とは限らず、かなり河川から離れた“内陸部”でも存在する可能性がある地名ということになる。その意味する共通項は、「水脈が地表近くまで迫り湧水源のある崖地または急斜面」ということになるだろうか。いままでは、おもに河川沿いでバッケの地名Click!を探してきたのだが、河川から遠い崖地や急斜面でも上記の条件を満たしている風情であれば、江戸東京地方ではバッケと呼称していた可能性が高いことがわかる。バッケ=河川沿いの地名(地形)……という先入観は、どうやら棄てたほうがよさそうなのだ。

 
 濱田煕が描いた作品の多くは、新宿歴史博物館に収蔵されているようだが、その画面には上戸塚側から下落合を眺めた作品も少なくない。ぜひ現物の画面を見てみたいものだが、また機会があれば、下落合を望んだ何点かの作品をご紹介したいと考えている。

◆写真上:戸塚町3丁目(現・高田馬場4丁目)の、バッケが原と呼ばれた斜面の現状。崖地をひな壇状に整地したようで、集合住宅の高さが3棟とも異なっている。
◆写真中上:上は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)掲載のマップに描かれたバッケが原。下は、1936年(昭和11)の空中写真に見る同原。このとき、バッケが原は住宅に囲まれて縮小し、大正期とは比べものにならないほど狭くなっていただろう。
◆写真中下:上は、早稲田通りへの急坂が通う崖地だったあたり。下は、1944年(昭和19)の空襲直前に撮影された空中写真にみるバッケが原。
◆写真下:上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる住宅街が押し寄せる以前のバッケが原界隈。下は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』の表紙(左)と扉(右)。