先年の暮れ、戸山ヶ原(現・百人町)にあった陸軍科学研究所Click!/陸軍技術本部、正確には1941年(昭和16)6月10日から「技術本部改正令」(第4088号)の公布で、陸軍技術本部付属の科学研究所となった施設の跡地をゆっくり散歩してきた。
 戦後の大規模な宅地開発や、東京都や国の施設が林立することになったので、科学研究所の痕跡はほぼなくなっているだろうと想定していたのだが、予想に反してあちこちに当時の痕跡がいまだに残っていた。これは、戸山ヶ原が全的にアパートや戸建て住宅を建てるような宅地開発が行なわれず、都や国の所有地のまま研究所や庁舎、博物館分館、病院、消防署、学校、郵便局など比較的大きめな敷地を必要とする建物が数多く建設されたからだろう。それらの敷地内の庭や空き地には、いまでも科学研究所のさまざまな残滓が残されている。
 早稲田通りを南に折れ、バッケが原Click!と呼ばれたコーシャハイムの崖地を抜けて、旧・天祖社や神木の大ケヤキがあった境内跡から歩きはじめた。ちなみに、旧・天祖社があった敷地は、いまでは高層化された都営百人町四丁目アパートの前庭になっている。一本松Click!があったあたりに開店している蕎麦屋の横から、住宅の間を抜けて陸軍科学研究所の跡地へと入った。陸軍科学研究所跡に敷設された道路は、研究所内にあった通路の道筋をそのまま踏襲して造られたものだ。
 同研究所の様子を、北側から眺めた濱田煕Click!の記憶画Click!が残っているが、1938年(昭和13)現在、戸山ヶ原に面した研究所の北面は背の低いフェンスで仕切られ、その奥は高さが3~4mはありそうな金網のフェンスで、二重に遮断されていた様子が描かれている。奥の金網フェンスには、ひょっとすると電流が流されていたのかもしれない。その様子を、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原』所収の、「現在の西戸山公園のあたり」に付随するキャプションから引用してみよう。
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 この辺は南北両方から低地となっている。陸軍科学研究所から溝がうねりながら流れ出ている。幅約1.5m深さ約1m。ところどころの橋以外に、約2mおき位に幅20cm程度のコンクリ―の桁が渡されてあり、恰好の遊び場となっていた。溝は山手線の土手に沿って、やがて神田川にそそぐ。研究所の変った形の煙突や、疳高い独特の音のサイレンが印象的であった。栗や椎・楢の木の林の傾斜地である。
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 まず、歩きだしてすぐに気づいたのが、すでに使われなくなった建物が多いということだ。戦後間もなく建てられた、いわゆる団地仕様の4階建てアパートがいまでも残っていたが、ちょうど住民がいなくなり解体されている最中だった。ほどなく、新たな集合住宅の建設がはじまるのだろう。戸山ヶ原のゆるやかな南斜面を、南へゆっくりと下りはじめると、左右に大きな建物がつづく。都や国の公共施設が多く、ほどなく左手に実物大のフタバスズキリュウ(首長竜)が彫りこまれた門のある、東京国立科学博物館の分館が姿を現すが、この建物も窓が真っ暗ですでに使用されていない。
 出かけたのが日曜のせいか、公共施設はひっそりとしているが、住宅街がごく近くにあるにもかかわらず、人の姿や気配が建物の数に比べて非常に少ない。また、廃墟とまではいかないまでも、使われなくなって門前に養生が張られた、立入禁止になっている建物が目につくのだ。ちょうどいまの時期が、施設の建て替えサイクルのタイミングに当たっているのだろうか。使用を終えた建築群とともに、別に陸軍科学研究所の跡地だということを意識しなくても、一帯には通常の街角とはちがう異質な雰囲気が漂っている。
 首長竜のいる東京国立科学博物館Click!の分館には、いったいなにが展示されていたのだろう? 今後も同様に、科学博物館の施設に利用されるのであれば、ここは陸軍科学研究所の本拠地なので、せっかくの「科学博物館」なのだから一隅にそれを記憶する展示や資料室を設置してはいかがだろう? 現在は明治大学生田校舎となっている、第9研究所(登戸出張所=通称・登戸研究所)でも、旧・研究所の建物の保存とともに戦争のツメ跡を記念した資料館が設置されている。また、慶應義塾大学の日吉校舎に残る連合艦隊司令部や、艦政本部など地下壕の保存や資料展示も同様だが、民間が積極的に戦争記憶の保存や資料展示を行なっているのに、かんじんの国や都が戸山ヶ原の本部・本拠地でなにもしないというのは、いかがなものだろうか?
 

 
 さて、東京国立科学博物館分館からそのまま南へダラダラと下ると、すぐに百人町通りへ出てしまうので、西に折れて旧・陸軍技術本部の跡地へとまわってみる。ここには、人工的な小川が流れる西戸山ふれあい公園があるのだが、ここでようやく10人前後の大人や子どもたちに出会えた。公園内には大小さまざまな石や、大きな玉砂利の混じるコンクリートブロックClick!などが散在しているが、おそらく中には戦前から残っていた建物や施設の資材や部品が、そのまま流用されているものもあるのだろう。園内の木々には、大きなクスやケヤキもあるので造園時に植えられた樹木だけでなく、戦前からそのまま生えている木も混じっているのかもしれない。
 公園から坂を下り、百人町通りへと出て東に向かい、俳人協会・俳句文学館をすぎてしばらく歩くと、陸軍科学研究所の正門があった位置へとたどり着く。現在は、ホテルやマンションになっている一画だが、この斜向かいにはその昔、作家の岡本綺堂邸Click!が建っていた。正門跡をすぎると、左手には看護学校や東京山手メディカルセンター(旧・大久保病院)などの医療施設がつづいている。これらの施設は立入禁止ではなく、広い病院の庭にはあちこちにベンチが設けられているのでじっくり散策してみる。
 すると、すぐに科学研究所の重要施設の周囲に築かれた土塁の痕跡を発見した。この土塁は、大正末の早い時期から築造されていたもので、なんらかの研究・実験施設を四方から取り囲むように築かれていたものだ。土塁の目的は、火薬ないしは発火や爆発の怖れがある薬物の取り扱いをしていたか、小型兵器の試射が行なわれていたか、あるいは建物内の様子を周囲の目から遮断するためのものだったのだろう。1925年(大正14)8月の「陸軍科学研究所完成後配置図」(青焼き)では、「〇〇〇実験室」とあるが読みとれない。戦後に崩されているとはいえ、北西側の一画が“「”型にふくらんだまま、当時の様子をそのまま伝える遺物だ。
 また面白いことに、新たに建てられた建物も、この四角い土塁跡にスッポリと収まるように設計されている。科学研究所時代に造られた、コンクリートの建物基礎をそのまま活用した可能性が高そうだ。土塁の東と南側は建物のエントランスや駐車場となっているので、盛り土はすっかり取り除かれてはいるが、北西側はほぼ当時のままの地面で、低くなったとはいえ土塁の痕跡はそのままだ。また、建物の東側にまわって驚いた。山手線東側の戸山ヶ原でもよく見かける、戦前の古い石組みの石材を再利用したと思われる歩道の脇に、地下室へと下りる階段が設置されていたのだ。この地下室は、戦後新たに建てられたビルの基礎とともに、科学技術研究所の時代から設置されていたものではないか。
 


 
 山手線の百人町ガードへと抜ける通りを歩くと、旧・陸軍科学研究所の敷地内にはレンガ塀の破片や、大きな玉砂利が混じるコンクリート塊など、同研究所の建物や施設の残滓と思われる遺物をあちこちで発見できる。立入禁止の公共施設も多いので、それらの敷地内をすべて仔細に観察すれば、当時の痕跡をさらに多く発見できるかもしれない。特に土塁を築いた跡の地面の盛り上がりや、強固に造られたコンクリート建築の基礎などは早々に掘り返して取り除くことができず、そのまま放置されるか、埋めもどされているか、なんらかの別用途の施設として再利用されている可能性が高い。

◆写真上:「〇〇〇実験室」の土塁跡のふくらみを、南西側から眺めたところ。
◆写真中上:上は、濱田煕による1938年(昭和13)の記憶画「現在の西戸山公園あたり」で正面に見えているのが陸軍科学研究所の東側。中は、1944年(昭和19)に撮影された同研究所の空中写真に散歩コースを重ねてみる。下は、解体が進む旧タイプのアパート。
◆写真中下:上左は、人が住まなくなった昔の低層アパート。上右は、同研究所内の通路がそのまま拡幅されて道路になっている。中は、フタバスズキリュウが迎える東京国立科学博物館の分館だが現在は閉鎖され使われていない。下左は、百人町ふれあい公園の様子。大きな樹木もあるため、陸軍科学研究所時代のものも混じっているかもしれない。下右は、随所で見かけるレンガ塀の破片やコンクリートの破砕塊。
◆写真下:上は、同様に同研究所で使われていたとみられるコンクリートやレンガの破砕塊。中は、土塁跡のふくらみを北西側から見たところ(上)と、古い石積みの下に設置されている地下室(下)。下左は、戦前に多くみられる古い石材が活用された歩行者通路。下右は、いまでも戸山ヶ原を彷彿とさせる風景が残されている。