江戸期の寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!は、落合や戸塚、高田、西巣鴨、小石川などの地域、現代のエリアでいうと新宿区の北部や豊島区の西南部、文京区の西部一帯の伝承や風物を記録した貴重なレポートだが、ときどきひっかかる記述に出会う。雑司ヶ谷(現・西池袋~目白)と西巣鴨(現・池袋)の境界あたりに展開していた、多彩な名称で呼称されている「塚」の存在だ。
 これらの塚は、地名として大正期まで残った「狐塚」Click!がもっとも有名だが、そのほかに「鼠塚」や「わり塚」という呼称も記録されている。狐塚は小字にも採用されており、雑司ヶ谷字西谷戸大門原(狐塚)と呼ばれていた一帯だ。現在は西池袋2丁目となっており、雑司ヶ谷6~7丁目の地名が消えてしまうのを拒否して、地名存続が最高裁まで争われたエリアClick!としても有名だ。このあたりの風情は、女子美を出たばかりの三岸節子の下宿先としても、以前に記事でご紹介Click!している。
 しかし、『和佳場の小図絵』の現代語訳である海老沢了之介『新編・若葉の梢』では、3つ記録された塚のうち、「狐塚」と「鼠塚」の記述はあるものの、なぜか「わり塚」の記述は省かれている。そこで、金子直德が記録した寛政年間の様子を、より正確に把握するために、原文の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
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 同御屋敷後ろ中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺(ママ)と云。(源頼朝の)奥州征伐の時御凱陣ありしが、夜討の沙汰ありとて、もの見を爰(ここ)に出し給ふ故に、名を不寝見塚と云よし。鼠山もその軍兵夜不寝にありし故と云、その年限を不知。(カッコ内引用者註)
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 ここで「御屋敷」と書かれているのは安藤対馬守(古くは安藤但馬守)の下屋敷のことで、のちにその屋敷跡へ7年間だけ、芝増上寺を上まわる巨刹となった感応寺Click!が建立されている経緯も、すでに記事に書いた。その「後ろ」側に塚の名称が3つ採録されている。この記述によれば、「鼠塚」の別名が「狐塚」または「わり塚」ともとれるが、海老沢了之介は「狐塚」と「鼠塚」を別々の塚として解釈している。そして、「鼠塚」の位置を安藤対馬守下屋敷の西南側、現在の目白の森公園のやや東側で、目白通りの沿道近くに比定している。
 これは、鼠山と呼ばれた将軍家の御留場Click!(狩り場)が、安藤対馬守下屋敷の西側に展開していたので、そのエリアにできるだけ近接した位置へ比定したものだろうか? だが、これでは「御屋敷」の「後ろ」ではなくて「前(表)」になってしまい、本来の『和佳場の小図絵』の記述とは一致しない。江戸期の「前後(表裏)」概念あるいは「縦横」概念は、すべて千代田城を基準に表現・記述されているからだ。
 千代田城から眺めて、タテに見える川や堀割は東西に流れていようが「堅川」であり、千代田城から見て横に流れている川は南北に流れていようが「横十間川」だ。同様に、千代田城から見て「後ろ」側は、城北部の場合は北側であって「表」の南側ではない。つまり、安藤対馬守下屋敷の「後ろ」といえば北面を指すのであり、海老沢了之介の『新編・若葉の梢』が比定している南側の位置概念は、江戸期の当時ではありえそうもない……と、わたしは解釈している。



 海老沢了之介が、なぜ「狐塚」と「鼠塚」だけ取りあげ、「わり塚」を省いたのかは不明だが、わたしは本来は3つとも別々の塚にふられた名称だったのではないかと思う。なぜなら、小字のもととなった「狐塚」とみられる塚は地図にも採取され、その一部が戦前まで破壊されずに残っているが、その周囲には同様の塚とみられる、直径30m前後の正円形が1936年(昭和11)現在の空中写真に見てとれるからだ。
 もうひとつ、「狐塚」と「鼠塚」は明らかに塚の規模や形状を示唆している表現とも解釈でき、幕末あるいは明治期につくられたとみられる「屋敷の築山に狐が住んでいたから狐塚」は、どこか稲荷信仰とからんだ付会の臭いがするからだ。つまり、「鼠塚」は「狐塚」よりも規模が小さかったからそう呼ばれた、相対的なサイズ(または形状)を表す名称とも想定できる。また、「わり塚」(割塚と書かれることが多い)は全国に展開する古墳地名であり、もとから存在していた塚状の地形を崩すか、あるいは塚のどこかへ切り通し状に道路(農道や街道)を敷設して付けられる、一般名称に近い呼称だ。だから、これら3つの塚は元来別々に存在していたのであり、寛政年間に書いた金子直德は伝聞のみで現地を詳細に検証しておらず、安藤対馬守下屋敷の「後ろ」に連なる塚を混同して記録しているのではないか?……というのが、わたしの問題意識だ。
 しかも、これらの塚が連なっている敷地は後年まで宅地開発が進まず、周囲を住宅に囲まれながら戦後すぐのころまで空き地のままとなっていた。そこには、なんらかの伝承(古墳にみられる屍屋=しいや的で禁忌的なもの)が存在したか、あるいは大正期あたりの宅地開発の過程で玄室や羨道、人骨が出土しているのではないだろうか? 池袋駅へ徒歩5分ほどの立地でありながら、空き地のままの状態が戦後まで長くつづいた経緯に強く惹かれるゆえんだ。しかも、塚が連なる南側の一部は、現在でも住宅街ではなく上屋敷(あがりやしき)公園として保存されている。
 さて、安藤対馬守の下屋敷について、幕末に作成された『御府内場末往還其外沿革図書』の図版に添えられた解説から引用してみよう。
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 天保五午年五月安藤対馬守元但馬守 右下屋敷一円御用ニ付被召上 本所押上吉川四方之進屋敷の内被召上為代地被下 感応寺境内ニ成 同十二丑年十月思召有之感応寺廃寺被仰付上ヶ地ニ成
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 1834年(天保5)から感応寺の境内となる、この安藤対馬守下屋敷の近くの道端からは、1772年(安永元)正月に鬼子母神が出現した伝承が残っている。鬼子母神は、いったんは雑司ヶ谷の大行院へと奉納されたが、再び安藤家の下屋敷内の社殿へ奉り直されている記録が残る。一度は近くの寺へ納められたが、屋敷内へ社殿を建立し、“神”として改めて勧請されたようだ。
 


 再び、金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
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 (鬼子母神を)願て又家内に勧請し奉りぬ。出現の時は安永元年正月初八日なり。寛政四年の春より内殿に奉、同九年八月、母の病気に付守来ぬ。附て云、八咫大蛇(やまたのおろち)の前歯一基、保元・平治の頃より伝ふ。脇差・鎗・旧書の類、其外に伝り物。(カッコ内引用者註)
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 ここで気になるのが、もちろん同屋敷に伝わっていた「八咫大蛇の前歯一基」だ。安藤対馬守(古くは但馬守)が、江戸市街へもどるときに利用していた坂が、下落合氷川明神社Click!へと抜ける七曲坂Click!であり、田島橋(但馬橋)Click!の由来となった道筋に残るヤマタノオロチ伝説Click!に連結可能な記録だからだ。高田氷川明神(スサノオ)と下落合氷川明神(クシナダヒメ)をセット(男宮=女宮)としてとらえ、七曲坂に同伝説が付与された由来は、江戸期に「八咫大蛇の前歯一基」を安置していた、安藤家の下屋敷が設置されたあたりではないかと想定できる。この「前歯」とは、龍骨とよばれる奉納物がナウマンゾウの歯化石だったひそみにならえば、なんらかの動物化石だった可能性が高い。
 3つの塚名が記録された狐塚周辺は、池袋の地名由来となった丸池へ向け、なだらかな北斜面のほぼ丘上にあたる。『御府内場末往還其外沿革図書』には、狐塚あたりから丸池へと注ぐ小流れが採取されており、同池を形成する重要な湧水源だったことがうかがわれる。丸池から流れ出た川筋は、東側に拡がる雑司ヶ谷の谷間へ向け弦巻川Click!の流れとなる。海老沢了之介の『新編・若葉の梢』には、川柳がふたつ収録されている。
 大江戸の しつぽのあたり 鼠山
 鼠山 猫また橋の つゞき也
 幕府の御留場である長崎地域の「鼠山」は、江戸後期の大江戸(おえど)Click!概念を形成した朱引墨引の境界線ギリギリにあたるため、揶揄気味にネズミの「しつぽ」と表現されている。また、「鼠山」と小石川養生所(植物園)前の千川に架かる「猫股橋」とをひっかけて、街道筋をネコとネズミの関係に洒落のめしている。もし川柳の作者が、「狐塚」という小字を発見していたら、巨刹がアッという間に廃寺になったいきさつを皮肉って、「鼠山 狐も仏も ちゅうこん下(げ)」とでも詠んだだろうか。w
 
 
 安藤対馬守下屋敷の北側に展開していた直径30m前後の塚は、それぞれ独立した古墳ではなく、周辺各地で見られる大きな主墳Click!の“陪墳”群Click!だととらえられるとすれば、いったいなにが見えてくるだろうか? でも、古墳群とみられる塚の南西側は、安藤家の下屋敷や感応寺建立で早くから開発されつづけ、塚の東側は品川赤羽鉄道(のち山手線)や池袋駅の工事あるいは駅前開発で、地形が大きく改造されている。戦後の焼け跡写真に目をこらしても、より大きな主墳らしいフォルムはいまだ発見できないでいる。

◆写真上:安藤対馬守下屋敷(感応寺)跡に現在も残る、同敷地につづく北辺の道。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる狐塚周辺。中・下は、それぞれ塚の痕跡と思われるサークルへ古墳番号(仮)を付けたもの。安藤家下屋敷の「後ろ」にもっとも近接していたのが「鼠塚」(現・上屋敷公園)だろうか。
◆写真中下:上は、『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた延宝年間の安藤対馬守下屋敷(左)と、1834年(天保5)の感応寺境内(右)。すぐ南側は下落合村と接しており、南端に描かれた街道が清戸道Click!(現・目白通り)。中は、1922年(大正11)作成の地形図にみる狐塚。1936年(昭和11)の空中写真でも確認できるが、狐塚の墳丘残滓はかなり後年まで残っていた。下は、安藤家下屋敷に接した1号墳(鼠塚?)跡の現状。
◆写真下:上左は、2号墳(狐塚)跡は巨大なマンションが建っている。上左は、3号墳跡の現状で南側の道は商店街になっている。下左は、北側へと下る斜面の4号墳跡の現状。下右は、小石川氷川(簸川)社の谷間を流れる千川に架かっていた猫股橋の袖石。