落合地域と下戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、戸山ヶ原Click!(現・百人町4丁目)、柏木地域(現・北新宿4丁目)、そして中野地域(現・東中野4丁目)と、数多くの地域が落ち合う地点に、神田川の小滝橋交差点がある。現在は大型スーパーやドラッグストア、AVチェーン店など大型店が進出し、周辺の商業拠点になっている交差点だが、大正末から昭和初期にかけても同交差点を中心に、商店街が四方へ伸びていっている。
 同交差点へ行かれた方はご存じだろうが、上落合や東中野側からは早稲田通り、山手線・高田馬場駅方面からも早稲田通り、戸山・大久保方面からは諏訪通り、柏木・百人町(現・新宿)方面からは小滝橋通り、そして少しズレてはいるが下落合方面からはバス通りとなっている聖母坂Click!筋(補助45号線Click!)の通りが合流し、付近を貫通する大通りの期せずして集合場所になっている。ちなみに、いまだ計画が廃止になっていない補助73号線Click!は、高田馬場3丁目の住宅街を斜めにつぶして、小滝橋のすぐ手前の早稲田通りへと貫通・合流する予定になっている。
 小滝橋は、交通の要所のせいか、関東乗合自動車Click!(現・関東バス)の営業所や車庫も1932年(昭和7)に開設され、現在も都バスの車庫・営業所として運営されている。大阪から出てきた作詞家の喜多條忠が、クルマで小滝橋近くを通りかかったとき、学生時代の懐かしい情景を想い出しながら作詞したのが『神田川』Click!だというのを、新聞記事かなにかで読んだ記憶がある。
 大正期の中ごろまで、旧・神田上水に架かる小滝橋は木造だったが、大正末ごろに石造りの橋に架け替えられ、上をクルマやバスが通れるようになった。新たな小滝橋の位置も、江戸期からの橋の位置からはやや西にズレて設置されているようだ。大正末ごろ、わたりの季節になると小滝橋周辺にはカモやシラサギの群れが飛来して、旧・神田上水に近い小滝台Click!周辺に羽を休めていたらしい。その様子を、1983年(昭和58)に発行された冊子『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)所収の、「トリの話」から引用してみよう。
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 小滝(華洲園の東方にある低地)に永井さんと言う大きなお屋敷があった。この屋敷のなかを神田川が流れていた。秋になるとこの屋敷の川辺に沢山の鴨が下りた。この鴨は大変利口でなかなか庭から外に出て来ませんでした。たまに出て来るとズドンとやられるからである。白鷺は神田川・妙正寺川添(ママ)にあったタンボに沢山下りていた。全く良き田園風景そのものであった。
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 いまでこそ、神田川や妙正寺川沿いではカモやシラサギ、セキレイなどはめずらしくなくなったけれど、わたしが学生時代には水鳥などめったに見かけず、夕方になると橋下に営巣するアブラコウモリたちが飛びまわるぐらいだった。
 小滝橋周辺に限らず、農家では鶏卵を採るためにニワトリをたくさん飼育しており、夜中にコケコッコーと鳴くと、住民は就寝中でも急いで起きだして、ニワトリが鳴きやむまで箕(み)を団扇がわりにパタパタ扇ぎつづけたという。夜中にニワトリが鳴くと「火を呼ぶ」という、東京郊外の古い迷信からきているものだ。上落合では、中小の工場が建ちはじめ、特に火事が多かった川沿いの前田地区Click!を抱えていたので、付近の農家はよけいに敏感になっていたのだろう。ちなみに、下落合では1980年代までニワトリの鳴き声が聞こえていたが、夜中に鳴くのはクルマのヘッドライトに反応していたからだ。
 古くから交通の要所だった小滝橋には、早くから企業や施設、商店などが開店していた。関東バスの車庫・営業所のほか、当時は切通しの道だった小滝橋通りを新宿方面に歩くと、柏木985番地のゲルンジーミルクプラントClick!や同1279番地の豊多摩病院Click!があり、高田馬場駅へ向かう下戸塚の早稲田通り沿いには、野菜を市街地の市場へ運ぶ近郊農民を相手の、あるいは付近の商店や工場の従業員相手の、茶店や飯屋「橋本や」などが店開きしている。
 また、上落合側の早稲田通り沿いは、大正末ごろまで両側は田畑のままが多く、南西を見ると日本閣(鈴木屋)Click!の建物が、北東を見ると下落合の駅舎までが見通せたらしい。このころの店舗というと、豆腐屋や酒屋、日用雑貨屋などがポツンポツンとできはじめたが、いまだ商店街を形成するほどではなかった。



 再び、『昔ばなし』所収の「小滝橋附近」から引用してみよう。
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 関東大震災後に次第に発展し、昭和の初め頃には、早稲田通りの両側は立派な商店街になりました。勿論小滝橋も石の橋になり、名物の「橋本や」さんは姿を消してしまいました。商店街の中には「ミルクホール」と呼ばれるお店があり「コーヒー」や「ミルク」や「ライスカレー」などを売って居りましたし、「落合亭」という「カフエー」もあり、夕方になるとお店の前に水をまいて、若い女の人がきれいになって、(着物姿に白いリボンのついたエプロンを着ていた)店先に立って、お客を呼んでいました。/八幡さまの前の道は「八幡通り」と言って商店が軒を並べて居り、「郵便局」や「マーケット」がありました。早稲田通りは昭和の初め頃、今の関東バス側が拡がりました。丁度、家一軒分位が道路となったわけです。道が拡がっても商店が並んで居りましたが、都バスの車庫が出来るようになってから、次第に商店の姿が消えてしまいました。
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 東京郊外への人口流入に比例し、早稲田通り沿いには市街地から喫茶店やバーなど流行りの店舗が進出している。このころになると、川沿いの工場からの排水や住宅からの生活排水で旧・神田上水の水質は濁り、魚や沢ガニが採れにくくなっている。小滝台の周辺に飛来していた、シラサギやカモの姿もめっきり減ったのだろう。
 上落合の子どもたちは、いまだ自然が多く残っていた小滝台に拡がる華洲園Click!の雑木林に出かけ、小枝に鳥もちを塗ってメジロやウグイスなどをよく捕まえたそうだ。もちろん、鳥商人に売ったり鳥籠に入れて自家で飼うためだが、樹木のてっぺん近くで鳴くモズは、そこまで鳥もちを塗りに登れないので採れなかった。小島善太郎Click!が飼っていたホオジロClick!も、そのようにして捕まえたものなのかもしれない。そういえば、「ホオジロを捕まえると火事になる」というジンクスも、東京郊外には語り継がれていた。
 


 大正末から昭和初期にかけ、小滝橋とその周辺域は“激変”と呼んでも差しつかえないほどの、急激な変化にみまわれている。濱田煕Click!が描いた、1938年(昭和13)ごろの小滝橋交差点のイラストは、商店がギッシリと通り沿いに建ち並び、もはや田畑などどこにも存在しない。わたしが学生時代に見た、高層建築があまりなく銭湯の煙突ばかりが目立っていた小滝橋の情景も、このイラストに近いものだった。『神田川』の喜多條忠が学生時代をすごしたころは、もっとイラストに近い風情ではなかったろうか。

◆写真上:上落合側から見た、早稲田通りに架かる小滝橋の橋柱。
◆写真中上:上は、大正中期までの木造小滝橋でたもとに茶店が描かれている。(『昔ばなし』の挿画より) 下は、1933年(昭和8)に撮影された石造りの小滝橋。
◆写真中下:上は、1933年(昭和8)に撮影された旧・神田上水沿いの小滝にあった東京府中野授産場。中は、大正初期に撮影された小滝橋からほど近い中央線・柏木駅(のち東中野駅)。小島善太郎が踏切番のバイトClick!をしていたとみられる当時の駅舎で、現在の東中野駅の位置とは異なり柏木地域(現・北新宿)寄りに建っていた。下は、営業所や整備場、乗員宿舎も備えた都バスの小滝橋車庫。
◆写真下:上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる小滝橋(左)と、1930年(昭和5)の同地図にみる小滝橋(右)で、急速に市街地化していく様子がわかる。中は、濱田煕が1938年(昭和13)ごろを想定して描いた小滝橋交差点で戸山ヶ原の西端が見える小滝橋通り。下は、下落合の丘陵が見える小滝橋から上落合方面の早稲田通り。目白崖線が実際より高めの印象で描かれているのは、当時の下落合は樹林が密だったため実際の標高よりも高く見えたものだろう。