下落合に住んだ矢田津世子Click!は、ほとんど他人の悪口や皮肉をいったり書いたりはしていないが、中には例外的な人物評が残っている。彼女としては、よほど腹にすえかねたのだろう。標的になったのは、まったく生活に心配がない岡山のボンボンで髪結いの亭主だった、タダイストの吉行エイスケClick!だ。
 1932年(昭和7)に発行された「新潮」2月号に、『吉行エイスケ氏』と題する皮肉たっぷりな人物評を載せている。矢田津世子は、吉行エイスケを乃手Click!のお城に住む「王子」様にたとえ、彼が下界に降りていってする仕事を「手すさび」だと辛辣に評している。冒頭から引用すると、こんな具合だ。
  ▼
 山ノ手の、緑濃い樹々に覆はれた小高い丘の上に一ツのお城がありました。お城の中には、この世に稀な、貌(みめ)麗はしい王子が住んでゐました。王子のたつた一ツの愉しみは、窓に凭れて、眼下の街々を眺めることでした。/街には――沢山の窓を持つたビルデイング。白い舗道。その上を走る鉄砲玉のやうな自動車。色彩り彩りな家々の瓦……そして、夜は、華やかなネオンサインの明滅です。/王子は端正な趣味の持主でした。窓枠から躰を起して書斎へ戻ると、彼は、ライトデスクに向つてペンを走らせるのでした。(中略) けれど、王子は、ペンが走れば走る程、云ひやうのない或る不満をロマンの中に見出していくのでした。/「アア、僕の書くものは、全てプリンのやうに歯応へのないものばかりだ! それといふのも――」/そして、王子は、或夜秘かにお城を抜け出しました。
  ▲
 王子様は、下界のいろいろなモノに興味を抱き、「進歩的な感覚」でちょっと手を出しては、すぐに次の新しいモノへと移っていく、めまぐるしい「冒険譚」として表現している。これを目にした吉行エイスケは憤慨したかもしれないが、彼を知る人々はニヤニヤ皮肉な笑いを浮かべ、うなずきながら読んでいたのかもしれない。
 常に沈着で穏和な矢田津世子が、なぜこれほど皮肉たっぷりな文章を書くまで腹を立てたのかは不明だが、どこかで出会って反りが合わなかったか、妻帯者なのに彼女を口説いたか、あるいはピントはずれな言質で彼女の仕事を侮蔑するかしたのかもしれない。
 
 もうひとつ、矢田津世子が不快感を露わにしたエッセイが残っている。おしなべて、乃手の男が大人になってもつかう「ボク」だ。彼女は、子どもに「ボクちゃん」と呼びかける母親に嫌悪感をおぼえており、どうやらわたしと……というか江戸東京の町場と同じような感覚をしていたらしい。彼女は秋田出身であり、ふだんの飾らない親しい友人との会話では、自身のこと「オレ」と表現している。秋田方言で「オレ」は、「わたし」という意味であり、女性でも男性でもつかう1人称の代名詞だ。
 東京では、「オレ」は男の1人称代名詞であり、ほかに男では「わたし」「わたくし」「あたし」「自分」、古い地付きの年寄りでは「おらぁ」「おいら」etc.…などの表現があるが、「ボク」は基本的に子どもがつかう言葉(せいぜい高校生ぐらいまで)か、あるいはごく親しい友人や幼馴染み、同窓会などでつかう言葉で、わたしの育ちからいえば大のオトナの男が日常的につかっていると、「母親に甘やかされ放題で育った、野放図なわがままマザコン男か?」というような感覚で、かなり奇妙に聞こえる。
 ただし、関西圏では大人も「ボク」と表現するのが普通のようなので、これは中部(長野や静岡あたり)から東日本にかけての地域(東京では主に旧市街地の城下町Click!)にある感触なのかもしれない。「ボクはぁ~小さな子供が好きなんで~!」と記者会見でデスクをたたいて子どものように泣きじゃくる、薄らみっともない兵庫県議の姿は、関西圏より以上に、東日本では輪をかけて情けなく、ガキ同然のありえない異様な姿として映っている。ちなみに、この感覚は以前にも一度記事Click!に書いたことがある。
 余談だが先日、NHKが収録した曾宮一念のインタビューを見ていたら、ドンピシャで「あたし」「あたしゃ」といっているのが嬉しかった。いつか、オバカな「サエキくん」のエピソードClick!を書くとき、曾宮の1人称は「オレ」か「あたし」のどちらかで迷ったのだが、あの雰囲気と性格でもともと日本橋浜町出身の彼のことだから、きっと「あたし」「あたしゃ」にちがいないと想定したのだ。早くから乃手地域に住み、歳をとってからは静岡に住んでいた曾宮一念だけれど、インタビューでのしゃべり言葉は一聴して東京の(城)下町方言であり、それは死去するまで変わらなかったのだろう。
 矢田津世子は、乃手の“奥様”が子どもへ呼びかける「ボクちゃん」に、甘やかされて育つマザコン男の典型を見たようで、ムズムズして我慢ができなかったらしい。1937年(昭和12)3月7日に発行の「東京朝日新聞」に連載された、エッセイ『浅春随想』の1編「唐梅」から引用してみよう。

  ▼
 「なあによ、ボクちやん」/肥つた母親はかう呼びかけながら、愛情の度がすぎた甘い顔で舐めるやうな風に子供をのぞきこんだ。/「ボクちやん」とは「僕ちやん」の意味であらう。なんといふ、子供を甘やかした呼びかただらう。私は厭な心もちがした。/初め、母親は箸で和菓子をひとつ取つて子供に与へた。瞬く間にそれを食べてしまふと、子供は、ちよつとの間私どもの方を窺つてゐたが、上眼づかひで偸み見ながら、自分から手を出してひとつ取り、そこらを飛び跳ねながら半分ほど食べたのこりを食卓へ投り出して、また、菓子鉢へ手を突つ込んだ。/「ボクちゃん、おなかを痛くしたらどうするの」/母親は、ちらと子供を振りかへつたゞけで、咎めようともしない。
  ▲
 わたしの子どもが訪問客の前で、こんな行儀の悪いわきまえない行為をしたら、おそらく迷わずに頭を打っ(ぶっ)たたいているだろう。
 ちなみに、(城)下町でも「ボクちゃん」はつかうが、自分の子どもではなく「ボクちゃん、危ないからおやめ」というように、女性が名前を知らない男の子へ呼びかける場合がメインだ。男の場合は「ボクいくつ?」というように、やはり名前を知らない男の子へ呼びかけるときにつかうが、まず「ちゃん」付けはしない。また、自身の雇用主や目上の人の既知の子どもに対し、「ボッちゃん(坊ちゃん)」と呼びかけることはある。
 ちょっと横道へそれるが、最近、自分の妻を人に紹介するとき、「ボクの奥さんです」などという言葉を聞くのだけれど、ゾクッとむしずが走って吐き気がする。(まさか乃手方言の慣用句じゃないよね?) どこか、自分の子どもを「ボクちゃん」と呼ぶキザ(気障り)で嫌味なイヤらしさにも似て、ちょっと品のない東京町場の職人風言葉か、怒りっぽい岸田劉生Click!風にいえば……、「てめぇの女房を他人(ひと)に紹介すんとき、敬称つけてどーすんだよ。バッカじゃねえのか?」(失礼)と思うのだ。
 つづけて、矢田津世子の『浅春随想』から引用してみよう。
  ▼
 帰りみち、老母も私も、すつかりふさぎこんで、無口になつてゐた。「ボクちやん」で甘やかされ放題に育てられたあの子供は、「ボクちやん」で成人になつていく。二十歳になつた時の、三十歳になつた時の、あの「ボクちやん」の、人を、世の中を甘く観ることに馴らされた頭脳を想像すると、怖ろしい気がする。/こんなことがあつてからといふもの、電車の中などで、この「ボクちやん」を耳にしたりすると、私は、ぞつとする。
  ▲

 このように、町場で「ボク」は基本的に子どもに(が)つかう1人称代名詞なのだが、おそらく山手に住んだ矢田津世子は、オトナの男がつかうのを聞いて薄気味悪く感じていたのではないか。秋田では、女性も自分のことを「オレ」というぐらいだから、大の男が「ボク」というのにきっと馴染めなかっただろう。ちなみに、秋田に限らず東北方言の多くは、女性の1人称代名詞は「オレ」だ。ただし、矢田津世子のようなタイプが「オレ」といったりすると、なんだか「宝塚」の男役を想像してしまうのだけれど。w

◆写真上:洋の応接間を備えた、大正末から昭和初期の典型的な和洋折衷住宅。矢田津世子邸のすぐ近く、二ノ坂に建っていた邸だが昨年解体された。
◆写真中上:大正末ごろの矢田津世子(左)と、大谷藤子とともに(右)。
◆写真中下:第三文化村Click!の、目白会館文化アパートClick!で撮影された矢田津世子。
◆写真下:一ノ坂の矢田津世子邸から歩いて5分前後の、三ノ坂の中腹に建っていた近代建築の和館だが、やはり昨年に解体された。