当ブログへの訪問者が先日、1,200万人を超えました。落合地域とその周辺域の方たちに読んでいただくつもりが、ときに故郷の(城)下町Click!のことも書いているので、よろしければ江戸東京つづきの旧・市街地の方々にもお読みいただければ幸いです。もうすぐPVが東京の人口を超えそうですが、これからも拙サイトをよろしくお願いいたします。

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 少し前に、目白崖線の濃いグリーンベルト沿いを、犯人が中野方面へ逃走したとみられる、小日向で起きたピストル強盗事件Click!について書いた。昭和初期の目白崖線は、武蔵野の巨木が生い繁る森林が東西へ長くつづき、低い位置から丘を眺めると、それら大木によって実際の標高よりも高く見えていただろう。目白崖線でもっとも高い位置は、旧・下落合4丁目の大上(現・目白学園あたり)の標高38m弱にすぎない。
 わたしの学生時代でさえ、いまだに崖線の斜面には緑の帯がつづき、黄昏どきになると黒々とした帯状になって見えていた。その緑が急速に薄れてきたのが、濱田煕Click!も指摘しているように1980年代の後半あたりからだ。街中の“地上げ”ほど悪どくはないまでも、一戸建ての住宅を何軒かまとめてつぶして集合住宅を建てるか、あるいは広い一戸建ての敷地を不動産会社が取得して、建蔽率ギリギリのビルを建てるケースが増えた。当然のことだが、家々の庭に繁っていた樹木は、ほとんどが伐採されることになる。
 新宿区における緑の減少率で、落合地域が長年“トップの座”にいたのも記憶に新しい。1980年代後半から約20年間で、落合地域の緑は50%以上も消滅しただろうか。その様子は、空中写真を年代順に追って観察していくと歴然としている。特に、山手線に近い落合地域の東部よりも、目白文化村Click!から中井御霊社まで、落合西部における緑の減少が圧倒的に目立つ。昔見た、樹林の間に邸宅が建ち並んでいた目白文化村からアビラ村Click!にかけての街並みは、それらの樹木がほとんど伐採されて当時の面影がない。
 春日の西側から小日向、江戸川公園、椿山、新江戸川公園、目白台、学習院、下落合、西落合、和田山(井上哲学堂)Click!へとつづくグリーンベルトが、あちこちで分断されて連続性が薄れつつある。中野北部の上空から、南東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真(2015年)を見ると、椿山から下落合にある薬王院の森までは、なんとかグリーンベルトと呼べるような緑の連続性が確認できるのだが、聖母坂Click!を境に緑地がプッツリと途切れてしまう。目白崖線沿いで、次にまとまった緑地が確認できるのはあけの星学園と林芙美子記念館、目白学園と中井御霊社で、その次が西落合公園と和田山(哲学堂)というように、飛びとびの“島嶼”状態になってしまうのだ。



 これは、わたしが学生時代に歩いた下落合の風情とはまったく正反対で、むしろ下落合西部(現・中落合/中井2丁目)の住宅地のほうが、緑がよほど濃かった情景が目に浮かぶ。通常の感覚で考えても、主要な鉄道や駅、ターミナル、繁華街に近い住宅街ほど緑が急速に失われ、そこから遠いほど比較的豊かな緑が保全されるケースが圧倒的に多い。それは、東京の各地域で一般的に見られる傾向なのだが、下落合のケースは特異で、山手線や新宿・池袋などのターミナルに近い東部に緑が多く、本来は東部よりもよほど樹木が繁っていたはずの西部が、現在ではまとまった緑地を探すのさえ困難になっている。
 おそらく、戦前からつづく住宅の敷地が、東部に比べて西部のほうが相対的に広くゆったりとしていて(300坪を超える敷地はざらにあった)、また地付きの地主や住民なども多く住んでおり、ひとたび相続などの課題が発生すると、土地を細分化せざるをえなかったのではないかと思う。その際、手離していったのは濃い樹木が繁っていた庭や、斜面に拡がる緑地だったのだろう。そのような土地を開発するためには、樹林を根こそぎ伐採しなければ住宅敷地が確保できない。それが、1980年代から90年代にかけ、下落合の西部で連続して起きていた現象なのではないか。
 もちろん、下落合の東部でもそのような話は数多く聞くけれど、崖線沿いの斜面には地元の人たちが熱心に保存運動をつづけた御留山Click!(現・おとめ山公園)をはじめ、野鳥の森公園、違法建築を止めたタヌキの森Click!、そして薬王院や藤稲荷などの寺社の杜、区立学校……というように、グリーンベルトをなんとか失わずに確保できる好条件が生まれ、育っていたともいえる。それが30年後の今日、下落合の東部と西部で“逆転現象”が生じた理由だろうか。わたしはもう一度、緑に覆われた目白文化村やアビラ村を見てみたいが、おそらく二度とかなわない夢なのだろう。



 先日、友人から明治末に作成された地形図をベースに、大正期に着色された目白崖線の地図をコピーしていただいた。小日向の崖線から、下落合の前谷戸(目白文化村)あたりまでの地形図なのだが、標高が高くなるほど茶色が濃くなる色分けがなされている。神田上水(現・神田川)あるいは妙正寺川の北側に連続している、濃淡茶色いエリアの南斜面には、戦前まで鬱蒼とした樹林が形成されていた緑地帯だ。わたしが初めて、下落合へ足を踏み入れた1970年代の半ばごろには、いまだ緑地帯の面影があちこちに残っていた。だが、いまやそれは旧・下落合の東部と、山手線をはさんだ学習院のキャンパスあたりまでに“縮小”している。
 緑が少なければ、周辺の気温は急激に上昇するし、二酸化炭素は減らず新たな酸素も生産されない。非常に(生物学的に)生きにくく暮らしにくい住環境へと変質していくのは、誰もが知っている自明のことなのだが、樹木を伐採してビルを建てる行為は止まらない。たとえ違法性が確定して、ビルの建設が止まったとしても、工事現場を廃墟にしたまま“あとは野となれ山となれ”Click!の無責任さで、工事前の原状へもどそうともしない。これは、もはや企業が実施するまともなプロジェクトの姿勢や、最低限の商売の信義さえわきまえない、地域や環境を破壊し収奪してはトンヅラしたまま去っていく、黒澤映画に登場しそうな山賊のたぐいで、もはや企業のビジネスにさえ値しない。
 さて、いただいた大正期に着色された地形図のコピーには、興味深い記載が見えている。現在の聖母坂が通う西側の谷、つまり青柳ヶ原Click!の西側にある谷の真上に、「不動谷」Click!の名称が採取されている。そして、目白文化村の第一文化村まで切れこんだ谷間の南には、「前谷戸」とおぼしき名称が記録されている。この明治期に作成された地図から読みとれることは、「不動谷」は谷間にふられた名称のままで、のちに谷のすぐ西側へふられる字名とは認知されていないようだが、「前谷戸」はすでに谷間から離れ、谷の南側に拡がる一帯の字名化が進んだ時期のもの……というように解釈できる。



 江戸東京地方の地名表記(表現)では、その地域の地主や集落(本村など)から見て、谷戸のすぐ“前”にある土地は「谷戸前」と呼ばれるのが慣例であって、「前谷戸」とは呼ばない。「前谷戸」は、その地域の地主や集落から見て目の前にある谷戸、つまり谷間そのものを指す名称にちがいなく、わたしはそう解釈している。

◆写真上:下落合の畑地周辺に残る、昔ながらの常緑・落葉の雑木林。
◆写真中上:上は、下落合東部からさらに東に連なる目白崖線のグリーンベルト。中・下は、いずれも御留山(おとめ山公園)へ切れこんだ谷戸。
◆写真中下:いずれも旧・下落合の空中写真で、旧・下落合中部(上)と西部(中)。下は、旧・鈴木邸の敷地だった野鳥の森公園の脇を通るオバケ坂(バッケ坂)。
◆写真下:上は、1965年(昭和40)4月12日に大蔵省所有地になっていた御留山の緑地公園化を陳情する下落合住民たち。当時は蔵相だった目白台の田中角栄Click!(左端)邸で撮影されたもので、図面を覗きこむ右端の人物が「落合新聞」主幹の竹田助雄。中は、明治末の地形図へ大正期に着色した標高図。下は、同地図に記載された「不動谷」部分の拡大。