洋画家の小泉清Click!は早稲田中学校Click!時代に、英語教師だった会津八一Click!の自宅に下宿していた。小泉清の母・セツが、英語のできない息子を心配して会津にあずけたもので、彼は会津の家から早稲田中学へ通っている。
 小泉清は1912年(明治45)に入学し、留年も含めて1918年(大正7)に卒業しているから、この当時の会津は牛込区の下戸塚(現・早稲田界隈)、または小石川区の高田豊川町(現・目白台3丁目界隈)に秋艸堂Click!をかまえていたころだ。会津八一が下落合へ転居し、改めて秋艸堂Click!を名のるのは1922年(大正11)以降のことなので、小泉清は残念ながら下落合で暮らしたことはないはずだ。会津邸での指導は厳しく、学校の勉強が不得手な小泉は、会津八一から殴られたという伝承が残っている。
 1995年(平成7)に恒文社から出版されたワシオ・トシヒコ編著『画家・小泉清の肖像』に収録の、曾宮一念Click!「英語ができぬ八雲の三男坊」から引用してみよう。
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 今の画家志望者は秀才型というが、私たちのころ、清もご同様で中学も優秀でなく、母親の心配で會津八一方に寄宿させているあいだに、この英人の息子は英語で落第して、會津に擲られたのは伝説とのみは思えない。折り目正しい青年に見えた清は、せっかくはいった美校を二年目にやめてしまった。在学中、彼の風景小品一点しか私は見ていないから、何をしていたのか。/もっとも、私も美術なるものは退屈つづきで、我慢できたのは月謝が安く、教室にストーブが焚いてあり、モデルもただで描けたからと思う。
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 美校在学中に、音楽好きの学生たちが集まって楽器を演奏したのが「池袋シンフォニー」Click!であり、小泉清は母親や兄の反対を押しきってモデルと駆け落ちしたあと、しばらくは京都で映画館専属のオーケストラの仕事をしていたことは、前回の記事にも書いたとおりだ。母親が死去すると東京へもどり、その遺産を元手に鷺ノ宮駅前へビリヤード場とアトリエを建設している。
 小泉清のアトリエと、シズ夫人が経営していたビリヤード場が建っていた中野区鷺宮3丁目1197番地とは、ほんとうに鷺ノ宮駅を出た真ん前にあたる敷地だ。現在でも、鷺ノ宮駅の北側へと出る階段を下りた目の前、1階に通信キャリアの店舗が入っている茶色のマンションが小泉邸跡だ。小泉清がアトリエを建てた1934年(昭和9)の当時、鷺宮界隈には洋画家のアトリエがポツリポツリと散在していた。
 
 
 戦前戦後に住んでいたおもな画家たちを見ると、鷺ノ宮駅前から北へ中杉通りを直進し、新青梅街道を右に折れて左に少し入ると峰村リツ子のアトリエがあった。また、新青梅街道を左折しやがて右に少し入れば、三岸好太郎Click!が死去したのちに三岸節子Click!が建設した三岸アトリエClick!が建っていた。また、新青梅街道を曲がらずそのまま中村橋方向へ直進すると、渡辺貞一のアトリエや、吉岡憲Click!と親しかった松島正幸のアトリエがあった。三岸好太郎Click!が、藁葺き屋根の農家がよく見えるようにと設計したアトリエだが、1934年(昭和9)当時は周囲が田畑だらけの田園風景だったろう。
 小泉清は、このアトリエに籠りつづけながら、太平洋戦争がはじまっても、それとは無縁な作品の数々を産み出していく。彼のアトリエを訪問した詩人・高橋新吉Click!は、小泉邸の様子を次のように記憶している。同書に所収の「小泉清の死」から、詩人・高橋新吉の証言を引用してみよう。
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 私が彼を知ったのは、戦後、里見勝蔵氏のところで、紹介されたのであった。鷺の宮に彼は住んでいたので、一緒の電車で帰ったこともある。彼の自宅を訪問したのは、「すずめ」という美術論集を、私が出すことになって、二、三回行ったが、健康そうな奥さんが、いつも留守居していた。/彼は私の家へも、一、二度来たことがあるが、娘が結婚してアメリカへ行っている話や、長男と別居していることなど語った。彼は日本酒が、好きのようで、上高田に安い酒場があるというので、一緒に行ったことがある。
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 小泉清が下落合のすぐ西隣り、「上高田の安い酒場」を知っていたのは、曾宮一念つながりで上高田421番地の耳野卯三郎Click!アトリエを訪ねている可能性がある。


 
 早稲田中学の恩師だった会津八一と、小泉清は戦後まで手紙のやり取りをつづけている。会津は、小泉が描く作品を中学時代からずいぶん気に入っていたらしく、美術部委員をしていた彼の作品をもらいうけ、秋艸堂の壁面に飾っていた。おそらく、下落合の霞坂秋艸堂Click!にも架けられていたと思われるので、目白文化村Click!の第一文化村に転居したあと、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲時に、文化村秋艸堂Click!で灰になっている可能性が高い。
 1947年(昭和22)の秋、小泉清は銀座のシバタギャラリーで初めての個展を開くが、その案内状に会津八一が推薦文を寄せている。同書より、会津八一「小泉清君を推薦する」から引用してみよう。
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 いまから三、四十年も前、私が早稲田中学の教師をしていたころ、生徒の絵の展覧会に一枚の絵を見て、まだ一年生であったその作者に懇望して、もらい受けて自分の下宿に懸けていたことがある。それが清君を知った最初であるが、その頃から清君は、おちついた、考えぶかそうな、自信ありげな、その年配としては珍しい少年であった。/のちにこの少年を上野の美術学校へ入れるということになって、しばらく私の内へ清君を引き取って半年あまりもいっしょに暮らしたこともある。/それから私の身の上も清君の方もいろいろに変わってきたが、身の上がどう変わっても、清君は、いつも澄みわたった気持で、自分の芸術を見つめながら、大切にしてきているのは変わらぬらしい。
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 めったに人を褒めない、美術にはうるさい傲岸不遜の会津八一がこれだけ褒めるのだから、彼は早くも中学生の小泉清の才能に感嘆し、画家の素質を見抜いていたのだろう。


 1951年(昭和26)ごろ、新宿中村屋Click!のレストラン部の壁には小泉清の作品が架けられていた。どのような作品だったのかは不明だが、たまたま東京にいて中村屋を訪れた会津八一は、絵を買い取ろうとさっそく財布を取りだした。だが、残念なことに懐具合がさびしかった会津は、あきらめて新潟に引き上げている。

◆写真上:小泉清のアトリエが建っていた、マンション裏の自転車置き場あたり。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11/左)と1949年(昭和54/右)の右空中写真にみる小泉清邸。大きな建物はビリヤード場で、背後(北側)に母家とアトリエが建っていた。下左は、学生時代の小泉清。下右は、1995年(平成7)出版のワシオ・トシヒコ編著『画家・小泉清の肖像』(恒文社)。
◆写真中下:上は、かつてビリヤード場が開店していた小泉邸跡のマンション。中は、東側の空き地から眺めた小泉邸で左から右へビリヤード場店舗・母家・小泉清アトリエ。下左は、小泉清の人間関係が詳しく紹介されている2012年(平成24)出版の『早稲田をめぐる画家たちの物語』(早稲田大学會津八一記念博物館)。下右は、1944年(昭和19)制作の小泉清『向日葵』。
◆写真下:上は、鷺宮の小泉清アトリエ内部。中央右寄りの床面には、『猫』のキャンバスが見える。下は、1945年(昭和20)に描かれた小泉清『猫』。