アナーキスト詩人である秋山清Click!は、下落合4丁目1379番地の目白文化村Click!から葛ヶ谷(現・西落合)、さらにバッケが原Click!に面した中野区上高田2丁目300番地あたりへと転居するうちに、飼育していたヤギの頭数を増やしていったようだ。上高田のヤギ牧場が、いちばん規模も大きかったらしく、ちょうど東側にある万昌院功運寺Click!の墓地と西側の工場とにはさまれたあたり、1932年(昭和7)に耕地整理組合Click!が設立され農地をつぶして宅地にする耕地整理中だった、バッケが原の最南端に位置するエリアだ。
 秋山清がヤギを飼いはじめ、ついにはヤギ牧場を経営するようになったのは、新聞社のエレベーターボーイをクビになり、ヤギの乳を搾り出荷して、少しでも生計の足しにしようと思ったからだ。彼には、養わなければならない母親が同居していた。上高田にあったヤギ牧場での暮らしを、1986年に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  ▼
 その頃親しみを持っていた乞食村の人々のことを、ここで少し語ってみよう。(中略) 上落合の火葬場に近い、北向きの崖の中途に彼らの集団があった。/私が山羊と共に住んでいたのは、東洋ファイバーKKという堅紙工場と墓地との間の五百坪程の空地、そこを所有しているのは万昌院という寺で、吉良上野介や大岡越前などの墓があり、(中略) 友だちが遊びに来ると、よく垣根を越えてそこに案内したものだった。その墓地の向うで、北側が急な崖になっているあたり、小径の両側に沿って小さい家が十六、七軒あった。(中略) ここの人々は落合の火葬場の乞食権(そんな言葉があるかないか)を自分たちのモノにして、そこの入口の左右に女や子どもが毎日並んで、出る人、入る人に、例の「戴かせてやって下さいまーし」と連呼していた。私など多少の顔見知りが通っても、まるで見知らぬ人のようにしていた。これもついでに言って置けば、有楽町や当時はまだ在った数寄屋橋の袂や銀座通のデパートの松屋の前にも彼らは出ばっていたが、目が合ったとてけっして知っている人らしくは振舞わなかった。さすがという他はない。集落の下まで松葉杖をついてヨタヨタ来た男が、崖のすぐ下から、いきなりそれを肩にかついでさっと上って行くことなどにも、いつの間にか驚かなくなった。つづめていえば、仲よしになったということであろう。
  ▲
 秋山清は、急速に「乞食村」の人々と親しくなり、集落の中央に設置された風呂小屋の、一番風呂を奨められるまでになっている。
 この「乞食村」については、中野区に詳細な聞き取り調査の民俗資料が残されている。上高田の住民たちは、「乞食村」を怖がって近づかず、夜警などもこのエリアを避けてまわっていたようなのだが、秋山清はアナーキズムという思想と飾らぬ性格からか、またヤギ牧場を経営していたせいで「乞食村」の子どもたちとも親しくなったせいか、このコミュニティでは“優遇”されていたらしい。


 また、「乞食村」の内情を知るにつれ、自分よりもかなり裕福な暮らしをしているのもわかってきた。当時の一般家庭では、米は1~2等米を食べるのが普通だったが、米屋のご用聞きは「乞食村」へは特等米をとどけないと怒られた。肉屋での買い物も最上級の牛肉を買い、村じゅうですき焼きをたべることも多かったらしい。中野区の民俗資料で、1998年(平成10)に出版された口承文芸調査報告書『続中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)から引用してみよう。
  ▼
 あたしら、もう貧農だったもんですから、ほんで、あたしら、「たまには肉のおかずしようか」って、こま切れ買いに行くの、肉屋に。/そんと、おこもさんはね、「いちばんいい肉くれ」と。ねっ。乞食の親分に言われて、その下っぱが。こうも違うもんかなあと。(中略) まあ、乞食が多かったっていうのは、ほら、あすこにあのぅ、火葬場があったでしょう。そいでお薬師さんの縁日、そこで、二つの稼ぎ場所があるわけですよ。/お葬式があるでしょう。そうすると乞食がみんな並んで、そこでまあ、故人の仏様の冥福のために、お金をやるんですよ。そのもらいと、毎月八日と十二日のお薬師様の縁日、これはもう大変なもんだったでしたねえ。そこへみんな稼ぎに行って、それで、頭(かしら)がいるわけですよ。親分、大親分がね。/親分は足が悪くって動けないから小っちゃな家へ入って座ってて、それで犬が脇にいてね、夕方んなるともう、必ずすきやきなんですよ。好きなんです。その匂いがまた、すばらしい。食べたことないようないい匂いがするんです。
  ▲
 上高田ではクヌギ山と呼ばれていた、崖地に沿って建っていた「乞食村」の村長格、足が不自由で箱車に乗り、2匹のイヌに引かせて移動する親分は、桃園郵便局に「乞食村」の預金口座を開設しており、その日の上がりを郵便局では箱車から“下りて”、毎日フロアの椅子で窓口の記帳を待っていた。
 「乞食村」では、よそ者が入るのを極端に警戒していたようなのだが、村民から「乳屋の兄さん」といわれて親しまれた秋山清は、このエリアのどこへ入ってもフリーパスだったらしい。ときには、生産したヤギの乳を分けてあげていたのだろう。
 新宿区側にも、「乞食村」の様子が民俗資料として記録されている。1994年(平成6)に出版された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(新宿歴史博物館)所収の、福田アジオ「都市化の葬墓制の変化」から引用してみよう。


  ▼
 現在の老人方の記憶に残る火葬場の印象は乞食がその周辺に多数住んでいたという点である。火葬場近辺には人家はなく、裏手は森となっていた。乞食が小屋掛けして多く住んでいたのは、その一角であった。乞食はオモライサンとかオコモサンと呼ばれていた。昼間は火葬場の横に並んで座っており、火葬に来た人々が出す食物などを貰っていた。また、火葬場に近い落合の各家での葬儀に際して祭壇に供えた食物も風呂敷に包んで持参して乞食に与えたという。/ここに住む乞食の人々は常時火葬場近辺にいるのではなく、新宿方面に出かけていた。一定の秩序があり、オヤブンもいたという。記憶されている親分は犬二匹に引っ張らせて新宿の伊勢丹横まで毎日出かけていたという。/乞食が大勢いたのは戦時中までで、戦争末期には食糧不足となり、乞食に与えることもできなくなって、姿を消した。/落合の住民から見た乞食像は、定住生活者の漂泊移動の民に対する認識、観念を示すものであり、重要な意味をもつものであろう。
  ▲
 「火葬場近辺に人家はなく」と書いているが、北西側には牧成社牧場Click!と、牧場を囲むように住宅が建っていたはずだし、「乞食村」に隣接したところにはヤギ牧場と、秋山の自宅が建っていたはずだ。それとも、彼のヤギ牧場も「乞食村」の一部と、周囲からは見られていたのだろうか。w
 秋山清は、自身で若書きの「下手な詩」としているが、1936年(昭和11)に「乞食村」についての『早春』と題する作品を残している。
 門の両側にすわって
 年よった女 膝から下のない男 子供。
 みんな汚れてくろい顔だ。
 あごひげを垂らしたのもいる。
 雨が南風にあおられてパラパラ落ち
 煙突から煙が突きおとされるように散っている。
 電気ガマのモーターがごうごうと渦巻く。
 門のなかは玉砂利の広場に自動車が充満し
 控所は紋つきの女やフロックや羽織袴や。
 東京市淀橋区上落合二丁目落合火葬場。
 出入する自動車目がけて
 彼らはうたうように呼びかける。
 ――供養にいただかせてやって下さいまーし。
 自動車が通りすぎると、私語し、ほがらかにわらい
 口汚く子どもをののしり
 菓子をほおばる。
 型のごとき蓬頭襤褸のなかに
 炯々とひかる目をもち
 たくましく健康でさえある。


 上落合や上高田の住民たちは、両地域やその周辺域、せいぜい新宿あたりまで足をのばして、「乞食村」の人々は稼いでいたと思っていたようだが、遠く銀座や有楽町、数寄屋橋まで“出張”し、東京のメインとなる繁華街を大きな収入源としていた事実を知らなかったようだ。また、「食物などを貰」っているのはごく一部の稼ぎであり、その多くが現金収入であったことも知らなかったのだろう。秋山清のレポートのように、やはり“現場”へ出向いて溶けこみ、実際に当事者たちからの聞き取り調査=フィールドワークwwをしないと、実態を大きく見誤ることになる典型的な事例だと思われる。

◆写真上:500坪もあった秋山清のヤギ牧場では、ヤギが放し飼いにされていただろう。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる万昌院功運寺とヤギ牧場の界隈。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地域。
◆写真中下:万昌院功運寺の本堂(上)と、北側にある同寺の墓地(下)。
◆写真下:上は、万昌院功運寺墓地の崖近くにある吉良上野介義央Click!と家臣たちの墓所。下は、バッケが原から見上げたヤギ牧場跡の現状で右手に見える丘上が功運寺墓地。