先週末から今週にかけ、1日で110,000PVという日があった。これまで、12,000PV超えという日はときどきあったが、こんなにアクセスが集中(通常の20倍)して混雑するのは初めてだ。どこかで紹介されてPVが激増したものか、それとも新手のリファラスパムか、連日50,000PV超えはちょっと気味が悪い。Android端末でYahoo! JAPAN経由が多いようなので、タブレットあるいはスマホのデバイスからの大量アクセスだろうか。

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 東京藝大の門前に近い浅尾沸雲堂Click!の浅尾丁策(金四郎)Click!は、敗戦直後から豊島区長崎へ頻繁に足を運んでいる。東京市街地が空襲で焼け野原になってしまい、それまで仕入れていた国産絵の具メーカーの工場がほとんど全滅してしまったため、ほぼ市内で唯一焼け残った長崎のクサカベ絵の具工場へ、油絵の具を仕入れに出かけていた。
 1928年(昭和3)に創業した絵の具メーカーのクサカベは、いまでも埼玉県朝霞市で健在だが、長崎の製造所は家族総出による家内制手工業の典型的な工場だったらしい。クサカベの本社は神田小川町にあったはずだが、たび重なる空襲でとうに焼けていただろう。創業者の日下部信一は敗戦直前に死去し、二代目が引き継いで長崎の工場で油絵具を生産していた。当時の様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』より引用してみよう。
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 絵の具メーカーはほとんど戦災に遭い焼失したがクサカベ絵の具の長崎町の工場は幸運にも難をのがれた。そして製造再開の知らせがあったので早速行ってみた。/創始者の日下部信一さんは終戦間際に亡くなり、息子の松助君は二十代前半位で坊主頭のまだ学生気分の抜け切れない青年であった。松助君とヤブさんと呼ばれていた中年の人が絵の具練り仕事やチューブ充填等をやり、お母さんと女中さんが、チューブにレッテルを張ったり箱詰めを忙しそうにやっていた。外歩きは従兄の早川さんが一生懸命に働いていた、というような本当の家内工業であった。連日三十二、三度の猛暑つづきの一日であったので、松助君は氷を飲みに行こうと言って、すぐ近所の店へ連れていかれた。
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 このクサカベ絵の具の長崎工場が、どのあたりに建っていたのかは不明だが、戦後間もない時期に操業を再開しているので、空襲の被害をほとんど受けなかった千早町あたりか、西落合寄り(南長崎)のほうではないかと想定している。
 このとき、日下部松助に連れられて浅尾丁策が入った氷屋は、きれいな姉妹が切り盛りをしていた。この姉妹の兄は、のちにクサカベ絵の具の営業部に入り営業部長をつとめたあと、独立して美術ジャーナル画廊を起ち上げる羽生道昌だった。
 
 
 さて、浅尾丁策は西落合や長崎地域にアトリエをもつ画家たちへも、敗戦直後から画材をとどけたり制作を見学したりしているが、もうひとつ池袋駅でよく下車する理由があった。それは、敗戦と同時にニーズが急増した絵画モデルを、東京藝大や画家のアトリエへ派遣するために、宮崎モデル紹介所Click!のビジネスにならい浅尾沸雲堂に隣接してモデル紹介所(プール・ヴーモデル紹介所)を設立したが、その事務所のディレクターをしていた元モデルの北村久子が、昼間の仕事を終えたあと、夜は池袋駅前に酒場「炎」を開店していたからだ。
 北村久子は結婚前、岡田三郎助Click!や平岡権八郎、田辺至などに気に入られて“専属モデル”をしていたが、どうやら酒を飲むと性格が一変するらしく、誰彼となくケンカをふっかけては取っ組みあいになったらしい。下町言葉Click!を流ちょうにしゃべる、もともと東京出身の女性だったらしいが、酒席で気に入らない人間がいるとケンカを売り、柔道初段の心得があった“チャコちゃん”から、ひどいめに遭わされた画家もいたようだ。北村久子の性格を知る人々は、まったく根に持たない、明日になればすべてを忘れるサッパリした気性なのを知っていたが、その酒癖が災いしてほどなく離婚されたらしい。
 酒場「炎」は、池袋西口の空襲で焼けた豊島師範学校Click!(現・東京芸術劇場界隈)跡の空き地に建ったバラックだが、原っぱや水たまりが拡がる焼け跡には、やき鳥屋やおでん屋、飲み屋が10軒ほど固まって営業していた。酒場「炎」のバラックは、ちょうどその真ん中あたりに建っていたらしい。「炎」の後援会の会長になったのは浅尾丁策で、池袋や長崎、目白、落合の各地域に住む若い画家たちへ、開店の通知をガリ版で刷っていっせいに配布している。その全文を、以下に引用してみよう。

 

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 MADAM CHAKO後援の会
  CHAKOは江戸ッ子
  竹を割ったような はげしさの
  裏をかえせば、とてもとても淋しがりや
  面倒くさい特定の一人を守るより
  大勢に愛されたい、と願う
  本当に女らしくない 女性です
  若いころの彼女を知ってゐる皆さん
  素晴らしかったでネ
  良かれ悪しかれ、誰もが、そのイメージを
  大なり、小なり、心のどこかに
  持ってゐない方は 無いでしょう
  大勢に愛されたい、彼女の生き甲斐は
  どこかに酒場らしい酒場を持ちたいと
  訴えてゐます
  皆のイメージをサインにかえて
  後援者の一人になってやってください
  そして命ある限り
  アルコールと共に
  楽しく明るく 永らえましょう
             発起人 浅尾丁策
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 開店してみると、酒場「炎」は池袋西口で大当たりをした。もともと画家たちの間で、彼女の人気が絶大だったのだろう。周辺に住む画家たちや美術関係者らが押しかけ、連日満員の盛況だったようだ。「炎」の常連客には、大河内信敬や南正善、藤本東一良、柳瀬俊雄、金子徳衛、榑松正利、鈴木栄二郎、笹鹿彪、原精一、寺田政明Click!、木内岬、川瀬孝二、大橋純らがいた。豊島師範学校跡地の原っぱ飲み屋街でも、酒場「炎」はひときわ繁盛している店となった。
 「炎」のメニューには、画家にはおなじみの「カルバドス」があったけれど、敗戦直後の物資のない時代に、本物のカルバドスが手に入るわけがない。リンゴ酒のカルバドスは、銀座にあったカフェ「プランタン」の松山省三が、大正期にフランスから輸入していた酒だが、画家たちの間で特に人気の高かった安いリキュールだ。「炎」の和製カルバドスは、焼酎を水で割りライムジュースを加えて香りをつけたもので、実際のカルバドスとは似ても似つかない風味だったが、ほかの酒類をおさえて圧倒的な人気だったらしい。1杯50銭で飲ませたらしいが、毎日売り切れるほどだった。
 北村久子は姐御肌で、若いモデルたちにも人気があったらしく、店の仕事を手伝いに樋田真代や中村豊子、大畑せい子、高野桂子、大島節子、北村啓子といった、当時は名の知られたモデルたちも大勢集まっていた。
 酒場「炎」は、地元の画家たちも印象に残ったのか記録している。二科の桑原実が書いた随筆、「“炎”という店」から引用してみよう。
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 旧豊島師範の校舎跡が、附属小学校との間に一本の道路を残して全て闇市となったが、その道路に一番近いところに、師範の書庫が鉄筋建てだったので焼けのこり、そのまま簡易診療所か何かに改装されていた。それに添って上原組のバラックが並んでいたのだが、そこの一隅に“炎”という店が開店した、上野プールブ(浅尾仏霊堂経営のモデル屋)のモデルさんが経営していて、夜になるとモデル嬢が交代でホステスをつとめていた。名前のように、毎夜、画家が集り炎のような熱気を発散していたものである。
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 藝大門前の浅尾佛雲堂のことを、「浅尾仏霊堂」とはあんまりな書きようだろう。まるで、葬儀屋か仏具店がモデル事務所を開いていたようだ。w



 酒場「炎」で真っ先に酔っぱらってしまうのは北村久子だったが、機嫌が悪いと気に入らない画家へケンカを売った。さんざん大ゲンカして別れたのに、翌日になるとケンカ相手の画家は平然とやってきてはカルバドスを注文し、チャコちゃんも前日のことなどケロッと忘れてもてなしていたというから、彼女はよほどの“人格者”か“健忘症”のサッパリした性格で、周囲からモテたのだろう。戦後もしばらくすると、豊島師範学校の跡地は再開発されることになり、酒場「炎」は閉店を余儀なくされている。

◆写真上:原っぱに北村久子の酒場「炎」が開店して和製カルバドスが人気だった、池袋西口の東京府立豊島師範学校の跡地(現・東京芸術劇場)の界隈。
◆写真中上:上左は、クサカベ絵の具の創立者・日下部信一。上右は、敗戦でほとんどの絵の具メーカーが壊滅した中で生産をつづけたクサカベ絵の具。下左は、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』。下右は、1980年(昭和55)の「林武の会」における浅尾丁策。
◆写真中下:上は、1937年(昭和12)ごろ撮影の豊島師範通り。中左は、通りの突き当たりにあった東京府立豊島師範学校の本館。中右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる豊島師範学校の焼け跡。原っぱのどこかに、北村久子の酒場「炎」があるはずだ。下は、消滅した豊島師範学校通りの駅前起点あたりの現状。画面の左方向に見えた豊島師範へ向け、斜めに通りがつづいていたが現在はすべてが消滅している。
◆写真下:上は、1950年(昭和25)に東京藝術大学のおそらく「大浦食堂」で開かれた画家たちのパーティ。中央にいる女性が“チャコちゃん”こと北村久子で、その左横に立っているのが浅尾丁策。中・下は、現在の東京藝術大学のキャンパス。