以前、1807年(文化4)8月19日(旧暦)に起きた、永代橋Click!の崩落事故Click!について書いたことがある。深川八幡(富岡八幡宮Click!)の祭礼が行われている最中に、大勢の見物客で賑わっていた永代橋が突然崩落し、死者・行方不明者1,500人以上の大惨事となった事故だ。目黒に移転した海福寺の山門前には、「文化四年永代橋崩落横死者供養塔」がいまでも残されている。
 永代橋の崩落事故から90年後、1897年(明治30)8月10日に今度は大橋(両国橋)Click!の欄干が崩落する事故が起きている。折から花火見物の観光客で賑わっていた橋上から、鮨詰めになっていた200人ほどの人々が、大川(隅田川)あるいは涼み舟の上に落下する大きな事故となった。同年8月12日に発行された、「時事新報」の記事から引用してみよう。
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 欄干破壊して二百余名河中に墜落
 文化四年八月十九日深川八幡祭礼の当日永代橋落ちて千人以上の溺死者を生じたるは、今も伝へて稀有の惨事とする所なるが、今年はその九十年目に相当するとて深川永代寺に於ては、来る十九日を卜して、大川に大施餓鬼を催すの計画さへあるに際し、月も変らぬ八月十日祭礼ならねど川開きの賑ひし真最中に、両国橋の欄干落ちて死傷者数十名を出したるこそ由々しけれ。昔は兎もあれ建築土木の行届き得べき今の世に斯る事のあるべしとは何人も夢想せざりし所なるべきに、現在にこの凶事を見ること悲しくも亦怖ろしく、畢竟当局者の不注意と見るの外他の罪の帰すべきなきを奈何せん、
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 このとき、東京の町々には号外が出るほどの大きな騒ぎとなった。大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)と日本橋川に架かる日本橋Click!は、江戸東京の繁華街の中心あるいはこの街のヘソのような中核であり、市民にとっては特別な存在だった。それが崩落することは、永代橋の崩落事故以上に「ありえない」ことだったろう。今日の感覚でいえば、東京駅か東京タワーが倒壊したというほどの衝撃だったにちがいない。
 この記事の中で、8月10日の「藪入(旧盆)」近くにもかかわらず、「川開き」という言葉が出てくる。旧暦では、5月28日ごろが大川の川開きにあたるのだが、新暦になおすと7月の初旬ぐらいに相当する。7月7日に七夕の竹飾りが街を賑わし、7月15日前後に盆の中日を迎え、8月に入ると雇い人たちがいっせいに帰郷あるいは夏休みをとる藪入(旧盆)となる。事故が起きたのは、とうに川開きが終わっている8月10日なのに「川開き」と書かれているのは、両国橋で花火が打ち上げられるのは、原則として川開きの最中のみの“お約束”だったからだ。つまり、「川開き」という表現は旧暦8月28日ごろまでつづく川開き期間中、ないしは大川の納涼期間中という意味になる。
 さて、事故の続報を「時事新報」からつづけて引用してみよう。



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 花火見物かたがた納涼の客は陸又は川に推出し詰かけて、たそがれ頃には大川筋及び其両岸とも立錐の余地だになき有様なりしが、就中両国橋上は溢れん許りの見物人押よせ押戻してひしめき合へる其勢凄まじければ、警官数十名特に出張して警戒を加へ、僅かに中央なる車道の一部を排きて此を往来の用にあて、其の両傍の人道をば、見物の場と定めたり、されば、花火の打ちあげらるる毎に鍵屋、玉屋の声は、天上の月を驚かし、水底の魚を躍らしむるかと疑はれたるが、清興今や酣(たけなわ)にして、数番の花火並に仕掛花火の数々もすみ、中村楼前なる仕掛花火八方矢車の奇観未だ消えんとして花光漸く褪めかかれる午後八時廿分の頃、突然橋上に当つて数万の人々一斉に鬨の声をあぐるよと見る間に、川の西岸より十三間余距りて橋の十駒目より三駒、この長さ四間三尺丈けの欄干は、よりかかれる群集の力にまけて、まづ西の方よりメリメリと破れ初め(ママ)、人々の身をひくまもあらせず、堤の倒るゝ如く川中に落込みたれば、之と同時に数十人は箕より豆の落つるが如く一度に川中に墜落し其儘溺死をとぐるもあり橋下の船又は橋柱に身体を打ちつけて重軽傷を負へるものあり、ソレ橋が落ちた、欄干がおちたと泣く声喚く声すさまじく、橋上の人、橋下の船は乱れに乱れ狂ひに狂ひ今迄の歓楽境は忽ち化して修羅場となり、花火も茲に立消えとなりたるは実に近来の大椿事にして其の騒動名状すべくもあらざりし。(カッコ内引用者註)
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 記事は、かなり詳細に事故現場の様子を伝えているが、これは花火大会へ同新聞社の記者が取材に出かけており、たまたま事故に遭遇したからだろう。



 記事によれば、大川の西岸=日本橋側から13間余(24~25m)ほど本所側へわたったあたり、欄干の駒数でいうと10~13駒までの4間3尺(8m強)が、押し寄せる群集の圧力で崩落し、初期の報道では200人、続報では数十人が大川へ転落したとされている。事故が夜間に起きたこともあり、当日の日本橋警察署は落下した人数の把握ができず、また積極的な被害者の捜索も行っていない。警察では、行方不明者の届け出によって被害者数を割りだそうと試みることにしたようだ。
 8月14日の時点で、生死不明の行方不明者が154人のうち、12日午前中までに82人の無事が確認され、12日の夜までに残り72人のうち15人の無事がわかり、さらに13日午前中までには残り57人のうち30人ほどの無事が確認されている。したがって、死者・行方不明者は30人弱ほどと結論づけられた。
 大きな事故だったにもかかわらず、永代橋崩落事故とは異なり、被害者がケタちがいに少なくて済んだのは、橋脚自体が折れて崩落する事故ではなかったことと、当日の大橋(両国橋)の下には涼み舟や屋根舟、屋形舟、傳馬船などがひしめき合って停泊しており、落下した人々が川下へ流される前に、それらの舟が次々と被害者を救助できたことも、被害を最小限に抑えられた要因なのだろう。



 両国橋には、第六天社Click!による「川開き」の伝承が残っている。現在、付近の第六天社(榊神社)といえば蔵前にあるが、江戸期には両国橋の西詰めエリアにあたる柳橋Click!に鎮座していた。柳橋の第六天については、また機会があれば書いてみたい。1873年(明治6)に神田明神Click!と同様、明治政府の廃社圧力に抵抗して第六天社(宮)の社名を「榊神社」へと改名しているが、いまだにカシコネとオモダルの2柱がそろって健在な社だ。

◆写真上:大橋(両国橋)の東寄りから、本所側を向いて現在の欄干を眺めたところ。
◆写真中上:上は、1859年(安政6)に貞秀が描く『東都両国ばし夏景色』。中は、明治中頃に撮影されたとみられる両国橋。下は、1897年(明治30)8月10日直後に発行された「国民新聞」掲載の両国橋崩落事故のイラスト。
◆写真中下:上は、大川(隅田川)の川面から大橋(両国橋)を見る。中は、黄昏の両国橋から川下を見る。下は、両国橋下の川面から川上の総武線鉄橋を見る。
◆写真下:上は、明治中期に撮影されたとみられる両国橋と大川端の老柳。中は、両国橋をくぐり抜けた右岸=日本橋側の現状。すずらん通りClick!のカゴメビルが旧・ミツワ石鹸ビルClick!跡で、その左手(南側)には日本橋中学校(旧・千代田小学校Click!)が建っている。下は、目黒に移転した海福寺の山門前にある「永代橋崩落横死者供養塔」。