このサイトでは、夏になると落合地域とその周辺域で語られてきた“怪談”を、これまで何度となくご紹介してきた。でも、今回はそれらの怪談に真っ向から「ウッソだぁ~!」と反駁している、井上円了Click!についてご紹介したい。
 1912年(明治45)に自裁した学習院Click!の乃木希典Click!と、そこから西へ2,500mほどの井上哲学堂Click!にいた井上円了とが、乃木生前より面識があったかどうかはわからない。おしゃべり好きらしい乃木希典は、ことあるごとに学生や生徒たちを集めては怪談話を聞かせ、それを聞きつけた新聞記者までが学習院を訪れて取材していることも、こちらの記事でご紹介した。そのせいか、学生・生徒たちの親はもちろん、学内の進歩的な教師や学生たち(白樺派など)からは、繰り返し顰蹙をかっている。
 乃木希典の死後、井上円了は1919年(大正8)に丙午出版社から『真怪』を刊行しているが、この中で乃木が体験したさまざまな怪談について質疑応答の形式をとりながら、そのすべてを批判・否定している。質疑応答は、実際に行われた講義あるいは講演会で行われたものかもしれない。その内容は、ひと言でいえば科学と論理の時代に、古くさい江戸時代の迷信を引きずった心理的な作用がもたらす、他愛ない迷信と変わらぬ世迷言のたぐいと一蹴している。
 では、こちらでもご紹介している1909年(明治42)の報知新聞にも掲載された、乃木が山口県の萩にある「玉井山」で遭遇した、顔が見えないのになぜかは不明だが「美人」としている物の怪の話Click!について、井上の具体的な反駁を引用してみよう。出典は、1919年(大正8)出版の井上円了『真怪』より。
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 乃木大将は如何に智人勇兼備であつても、妖怪専門の学者ではない、諺に餅屋は餅屋、酒屋は酒屋である如く、各専門家の判断を待たなければならぬ、此記事を熟読するに、臆病と深夜と暗黒と濃霧と疲労と山上深森の境との諸事情を綜合すれば、恐怖心より幻覚妄覚を生ずるに最も好都合の状態であるから、大将が自己催眠の状態に陥りて、幻影を見られたに相違ないと思ふ。
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 つまり、これは「真怪」Click!などではなく、乃木希典が深山で経験した「催眠」状態の一種で、怖い怖いと思うからあらぬ幻覚が見えてしまうのだ……と、顔を隠した「美人」妖怪を全否定している。
 確かに、登山などで心理的に追いつめられるような極限状態に置かれると、見えないものが見え、聞こえない声が聞こえるという話はよく聞くケースだ。そのようなときは先を急がず、ひと休みしてタバコを一服すると“正気”にもどるという話も、山男の間ではポピュラーな逸話だ。これは、キツネに騙されたClick!ときは、タバコを吸うとよいというエピソードにもつながりそうだ。
 
 これに対して質問者は、玉井山の「美人」妖怪は「幻覚妄覚」でも片づきそうだが、同じ報知新聞に掲載された、北陸・金沢の宿で出会った髪をふり乱す女の幽霊Click!は、どう解釈するのか?……と迫っている。井上円了は、この話は「論理的におかしい」とし、惨死をとげた女が殺した相手を恨むのならわかるが、縁もゆかりもない乃木を悩ますのは理にかなわないではないかとしている。
 しかも、同じ宿の3階の部屋に居つくのも不可解で、幽霊は「無礙自在」とされているのだからどこへでも移動できるはずであり、あるひとつの部屋に「固着」するのは理屈に合わない。もし、「怨霊」がなんの関係もない人間を苦しめるのであれば、人間の「狂人」でさえ自他を区別できるのに、これではそこらの「狂犬」と同じ道理ではないか。「怨霊」など存在せず、人が迷信からそのような妄想を抱いているにすぎない……としている。その上で、井上は次のように総括している。
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 只今の三階の幻影は乃木大将が惨死のありしことを知らぬ時に起つたから、大将の予想ではないことは明らかである、就ては其夜の乃木大将の精神の内状如何の探検をしなければならぬ、併し今日にてはもとより其探検は出来ぬから、推想するより外に方法がない、余の推想によるに、其夜は大将の精神に過労を感じて居たか、若くは胃中に不消化を起して居ると、怖い夢を見たり、ウナサれたりするものである、そうして婦人の姿を見たのは、夢現中に起りし幻影に相違ない、即ち一種の夢である、斯く解釈し来らば、是れ亦不思議とは見られぬ。
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 こうして、金沢の萩原家にいた妾の「怨霊」は、乃木による日本海の美味いもん食いすぎの消化不良と、単なる疲れと夢見のせいにされてしまった。


 それでは納得できなかったのか、質問者たちは乃木のもっとも有名な幽霊譚を持ちだして、井上に質問している。それは説明するまでもなく、1904年(明治43)の報知新聞に掲載された、日露戦争の二〇三高地攻略戦で乃木の息子・乃木保典少尉が戦死したとき、8kmほど離れた乃木のもとへ別れの挨拶に出現したエピソードだ。質問者はどうだといわんばかり、「此話はドー説明したら宜うござりませう」と挑戦的に問うた。井上は、あらかじめこの質問を予想していたものか、次のように答えている。
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 戦争当時にあつては兵隊の父兄は毎日其安否計りを気に掛けて居る、殊に何方面に今日激戦があるとの電報や号外があると、兵隊の父兄にはすぐに己の子弟は討死するであらうとの予想が起つて来る、其予想が原因となつて幻覚妄覚を描き出すなどは有り勝ちの事柄である、そうして其幻妄と戦死とが正しく相合すると、すぐに幽霊が戦死を知らせに来たときめて了ふ、此等は予想し得らるゝ範囲内であるから、決して不思議ではない、只今の乃木大将の話は、令息の戦士を予想し得らるゝ事情を有して居る、其予想が内に動いて夢現の間に幻影を見るに至り、戦死の事実と偶合したのである、例へば前夜寝る時に気候が蒸しあついから雨が降らうと予想して眠つた場合に雨の夢を見たが翌朝目がさめて見るに、果して雨が降つて居たと同類の話であるから、まだ真の不思議とすることは出来ぬ。
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 またしても、夢見と幻覚妄想のたぐいの世迷言にされてしまい、乃木がこれを聞いたらかなり不満に思い腹を立てただろうか。井上円了によるほかの幽霊話に対する回答も、たいがい疲労や身体の不調、精神的に追いつめられたあげくのストレス、迷信や旧弊に起因する妄想幻覚とされてしまっている。さて、『真怪』の質問者たちは、井上の解説に満足して会場をあとにしたのだろうか。

 井上円了が『真怪』を表してから、100年近くが経過した21世紀の今日、井上の人文科学的な視座が社会の隅々にまでいきわたり、幽霊譚や怪談のたぐいが一掃・駆逐されたかというと、まったく正反対に、大正当時よりもはるかに激増しているのが面白い。疲労と消化不良、夢見、幻覚妄想のせいにされてしまった乃木希典が、腹を立てて目白通りの上空を西へ向かい、井上哲学堂に化けてでたかどうかは、記録がないのでさだかではない。

◆写真上:怖い幽霊姉さんではなく、年とって優しい表情になった哲理門の幽霊母さん。
◆写真中上:左は、1919年(大正8)に刊行された『真怪』(丙午出版社)の奥付。右は、著者で東洋大学の創立者である“妖怪博士”こと井上円了。
◆写真中下:上は、井上円了が眠る哲学堂前の蓮華寺。下は、昭和初期の哲理門。
◆写真下:朱も鮮やかな六賢台へ上り、四聖堂と宇宙館を見下ろす。