落合地域でも、近くの川で泳いだ記憶を持つ方は多い。ここの記事では、妙正寺川にあったバッケ堰Click!のさらに上流、バッケ坂Click!と上高田の境目あたりにできた新バッケ堰で泳いでいた子どもたちの様子をご紹介している。
 旧・神田上水や旧・江戸川(現・神田川)では、面影橋Click!のたもとや大洗堰Click!(現・大滝橋)あたりが、格好の水練場(すいれんば)となっていたらしい。ただし厳密にいえば、「水練場」とは泳ぎを教える水泳教師や助教たちのいる組織化された施設で、旧・神田上水や妙正寺川では年上の子どもたちが年下の子どもたちに泳ぎを教える、あるいは自然に泳ぎをおぼえるプールのような存在だったので、「遊泳場」と表現したほうが的確なのだろう。
 昭和期に入ると、小学校には体育で水泳を教えるプールClick!が建設されたり、町営プールClick!が出現したりするので、川で泳ぐ子どもたちは急減したと思われる。また、河川沿いには各種工場が進出し、工業排水がそのまま河川へ流れこんだため、昭和期に入ると水質の汚濁もかなり進んでいたとみられる。親たちも、川で泳がせると溺死事故が心配なので、川泳ぎを禁じて安全なプールへ行くよう指導していたにちがいない。
 中小の河川では、灌漑用水のために造られた堰のすぐ下流域や橋のたもと、用水池などでの遊泳が多かったが、大きな河川には早くから水練場Click!が設置されていた。少し前の記事で、大橋(両国橋)Click!からすぐ下流の大川(隅田川)Click!右岸、薬研堀Click!の南側に水練場が設置されていたのを、木村荘八Click!の随筆で知って書いた。明治後期から大正期にかけてのことで、おそらく関東大震災Click!を境に、水練場は大川の右岸から左岸へと移動し、親父が通っていたのは本所の川岸に設置された水練場のほうだった。
 明治期に薬研堀へ設置された「伊東の水練場」について、1953年(昭和28)に東峰書房から出版された木村荘八『東京今昔帖』から引用してみよう。ちょうど大橋(両国橋)の欄干が崩落した事故当日の出来事で、1897年(明治30)8月10日に荘八の兄・木村荘太が花火見物へ出かけたままもどらないのを、家族全員が心配してる場面だ。
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 (両国橋崩落事故のとき:註記) 実兄の木村荘太がその時家にゐなくて(事件はその日大花火最中の午後八時廿分頃に起つたといふ)、橋でやられはしないかと、家中で心配をした。しかし実は荘太は水練場の伊東に花火見物をしてゐたので、無事だつた――といふことのあつたのを、印象歴然とおぼへてゐる。しかしこれは或ひはあとから家のものの云ひする話を、それをおぼへてゐるものかもしれない。僕自身としては、兄貴の失踪を「心配した」実感は少しも記憶に無い。兄貴はその時九歳だつたから、水練場へ花火見物に行つてゐたことは、有り得ただらう。(僕もやがて九つともなれば、同じく伊東へ毎夏水練に通つた。)
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 水練場「伊東」には、泳ぎが上達するつれて進級していく、泳法「向井流」のカリキュラムが導入されていた。助教たちが立ち合いのもとに「進級試験」が行なわれ、進級するごとに白い水泳帽へ赤線が1本増える。まず、赤線を1本もらうためには水練場のある薬研堀、つまりのちの千代田小学校Click!(東日本橋の現・日本橋中学校)あたりから泳ぎはじめて、大川(隅田川)を向こう岸の本所まで泳ぎきらなければならなかった。途中、子どもたちの体力が尽き、泳ぎに付き添う舟につかまって休んだりすると、試験は落第で赤線はもらえなかった。
 いくら川幅が広く、流れがゆったりした大川(隅田川)といえども、水流の圧力に逆らって本所までわたるのは、子どもたちにとっては大きな試練だったろう。本所側の向こう岸へあと少しというところで、目の前に口を開けた堅川へ吸いこまれそうになる子どももいただろう。大川の下流域は、あちこちに水運用に拓かれた川の河口があるため、東京湾からの潮の干満と相まって、流れがかなり複雑だったにちがいない。“赤1本”の水泳試験の様子を、同書から引用してみよう。
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 水練場の伊東から向ふ川岸の中州の芦までは、どのくらゐあつたか、進級試験には、赤フン赤帽の「平さん」といふ助教の先導で、われわれチビが、一列に並んで、この川を泳ぎ渡るのである。これを「川越し」と云つた。ハイヨー、といふ先達の声につれて力泳、又力泳、向ふ川岸まで泳ぎ渡る。途中舟へ上がらずに向ふ川岸まで泳ぐと、赤一本になる。(われわれ泳ぐにはかなきんの白帽をかぶるが、これに毛繻子の赤い細い線を一本ぐるりと縫ひつける、赤一本である。)
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 試験には“赤3本”までがあったようで、木村荘八はそれに合格して白い水泳帽に赤線を3本入れていた。“赤3本”は、大川(隅田川)を下り東京湾へと出て、お台場まで泳ぎきる遠泳だった。この試験でも、子どもたちの傍らには助教たちの舟が付き添い、途中で力が尽きた子どもたちを拾いあげていた。
 

 大川(隅田川)から流れ下る水流に逆らわず、上手に身体をあずけて泳げば、大橋(両国橋)のたもとからお台場まで泳ぎきれたようだが、約8kmはたっぷりありそうな遠泳なので、水流や潮流の中を泳ぎきって“赤3本”をとるのは容易ではなかっただろう。ちなみに、わたしは大川ならいまでも泳いでわたれると思うのだが、中学生のころならともかく両国橋からお台場までは、とても息がつづかずムリだろう。同書から“赤3本”の進級試験について、再び引用してみよう。
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 三本と云ふのは、「流れ」と云つて、(かたく云へば遠泳)、両国から品川のお台場迄流れるのである。――この流れつゝあつた途中、すでに万年橋のところが、枝川へ吸ひ込まれさうで、万年橋は大川の上げ汐・引汐に土左衛門のたまりとも聞き、しんぞコワかつたものだが、相生橋から先きのミオへ出た頃には、神疲れ、いキも絶え絶えとなりながら、そばを泳ぐ板じんみちの鼈甲屋の人(助教)が、「荘ちゃん、もうぢきだ、上るんぢやないヨ」 上るんぢやないよ、とは、舟へ上るんぢやないよ(棄権するんぢやないよ)といふ意味である。僕と並行に泳いで、助教さんが水の中からさう云つてはげましてくれるのを聞きながら、歯をくひしばり、涙をぼろぼろ流して、ガン張つた。(中略) 何杯水をのんだかわからぬ。そしてとうとうせいの立つ台場のそばのシビのところ迄やつとたどりついた時には、ヘトヘトで、足は膝つ小僧がガタガタして、立てなかつた。
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 木村荘八は、白帽に“赤1本”と“赤3本”を獲得する進級試験の様子を書いているが、“赤2本”の試験については書き残していない。試験の様子からすると、両国橋のたもとから相生橋をすぎたミオ(澪筋)あたりか、あるいは埋め立てられて間もない月島の先、東京湾の出口ぐらいまでを泳ぎきると、“赤2本”がもらえたものだろうか。
 わが家には、2本線の入った白帽をかぶる小学生時代の親父の写真が残っている。ただし、昭和10年代まで「向井流」による古式泳法が大川で行われていたとは思えないので、新たに本所側へできた水練場では、現代的な水泳試験が行われていたのかもしれない。



 水練場「伊東」で教授されていた「向井流」泳法とは、江戸初期に船手奉行だった向井正綱・忠勝親子が完成させた古式泳法のひとつだ。甲斐の猿橋から水中へ飛びこむ、「逆下」(飛込泳法)を将軍家の前で披露したことから、幕府の泳法として採用されている。いま風にいえば、平泳ぎや横泳ぎのバリエーション泳法といったところだろうか。

◆写真上:薬研堀に、元柳橋が架かっていた界隈の現状。明治末の水練場「伊東」は、左手の日本橋中学校(改修中)の左手あたりにあった。
◆写真中上:旧・江戸川(現・神田川)で遊泳する子どもたちで、上・下左は江戸川の起点である大滝(大洗堰)下あたり。下右は、旧・神田上水の面影橋あたりで泳ぐ子ども。
◆写真中下:上左は、1859年(安政6)に作成された尾張屋清七版の切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細柄図」にみる薬研堀で、すでに北西に入りこんだ堀が埋め立てられている。上右は、明治末の市街図にみる埋め立てられた薬研堀。水練場「伊東」は、日本橋米沢町から矢ノ倉町の間にあったと思われる。下は、1879年(明治12)制作の小林清親Click!『元柳橋両国遠景』だが元柳橋自体は描かれていない。
◆写真下:上は、大正初期ごろに薬研堀側から撮られた両国橋。中は、明治前期に描かれた井上安治『元柳橋』で橋の下が薬研堀。下は、1935年(昭和10)に撮影された千代田小学校の水泳写真で、褌姿の生徒たちの白帽に赤色とみられる2本線が入っている。