1937年(昭和12)3月18日発行の東京朝日新聞から、陽咸二Click!の「南京豆芸術」Click!によって生まれた代表的な作品の連載がスタートしている。ここでひとつ残念なのは、当時の新聞写真はもちろんモノクロで、しかも製版技術が悪いせいか作品の細部までがわからず、あくまでも色合いの美しさや精緻な細工を、解像度の低い粗悪な写真から想像するしかないということだ。もし新聞だけでなく、アサヒグラフなどへ転載されていれば、もう少しマシな画像が残っているかもしれない。
 さて、同年3月16日の東京朝日新聞にその一部が掲載された陽咸二の「手記」から、南京豆芸術の具体的な作り方を引用してみよう。
  ▼
 紙細工等と違ひ南京豆はそれぞれのもつ形によつて作るものが決定されるのでして何を作らうと思つて豆を探すと、なかなか大変ですから、豆を見てから作る物をきめるやうにします。此豆は何の形に見えるかをよく考へて最も適当な形だと思ふ物に作ります、尾を作ればそのまゝで鳩に見える豆や、金魚に成る豆が有ります。金魚に適当した豆で鳩を作らうと思つても無理ですから、よく考へる必要があります。これにはすんなり出来た豆より出来の悪い豆の方が特徴があつて面白い物が出来ます、殻は小刀では切れませんから鋏で切ります。ミシン用の先の細かい少し曲げてあるちひさな鋏が一番工合良く使へます。これなら決して殻を割るやうな事なく、綺麗に切れます。もし殻が丸くて立たぬ時には下に画鋲を着けると立ちます、殻にはゴフンか白絵の具を下塗りして其上に色を塗るやうにすると綺麗な物が出来ます。尤も殻の肌の色を利用した方が良い物もあります、又特に火でコガして其色を利用する場合もあります。
  ▲
 まるで、おしんこ屋Click!か鼈甲飴屋のような道具立てであり解説だが、かたちの偶然性を利用して想像の翼をめいっぱい拡げ、アドリブ的にこしらえていく細工もののダイナミズムとユーモアが、ちょうど根付や錺(かざり)物などと同様に、江戸東京市民の気性に(つまり東京市街地の市場に)ジャストフィットしたものだろう。
 埋め立てられたばかりの月島の新宅に生まれた陽咸二は、生まれながらにしてそのような感性を備えており、だからこそ当初は牙彫師を志して池田象牙店Click!へ飛びこんだにちがいない。おそらく、本業の彫刻よりも南京豆芸術からの収入のほうが、はるかに多かっただろう。彼はその膨大な収入を、尾崎紅葉Click!の父親である牙彫師・服部谷斎(尾崎惣蔵)Click!と同様に、少なからず多種多彩な趣味の世界で蕩尽しているのではないか。
 絵の具による彩色について、陽咸二の「手記」からつづけて引用してみよう。
  ▼
 白絵の具をたつぷり付けて、ヌラツと塗つてつまり絵の具を置いて来るやうにします、紙に塗るやうに何度もこすつて塗りますと下塗の白い色が溶けて来て、うまく塗れませんし、綺麗に出来ません、色を塗る時は下に針か楊枝のやうな物を差して持つやうにしますと楽に塗れます、殻に鋏を入れたら、成るべく中の豆を取り出しませんと虫がつきます、豆は砕くやうにすれば大抵は取り出せます。豆で出来ない所は手工用の粘土、糸、楊枝等を利用します、南京豆の細工は出来た物が小さく可愛い所が身上です。
  ▲
 さて、南京豆芸術の作品紹介は東京朝日新聞の紙上に、1937年(昭和12)3月18日からスタートし、同年3月28日に終了するまで都合10回にわたり連載されている。(3月22日は休載) 作品の解説を担当したのは、構造社の斎藤素厳だった。
 
 
 まず、1回目は「松に鶴」(写真①)。南京豆の殻に白い胡粉を塗り、羽の質感を出したあと雄鶴の首は粘土でつけ、墨と朱で色づけしてタンチョウヅルに仕上げている。足はマッチ棒で、松は白い水引きを緑に染めて切りそろえている。
 2回目は「冠・面・鷹」(写真②)。冠(右)は豆殻を墨で塗り、ボール紙で精緻な立纓をつけて顎紐は糸だ。面(中)は、殻から豆を取り出して粘土を詰め、表がひょっとこで裏がおかめの面をしている。頬っかぶりは手製の豆絞りで、粘土にマッチ棒を立てている。鷹(左)は、白い胡粉を塗った背中に墨で斑をつけ、前は鳶色に塗ってある。鷹の足は細い竹製で、止まり木は朱に塗った杉箸、足下のリードは金色の水引きを利用している。
 3回目は、「白衣観音とキユーピーさん」(写真③)。白衣観音(右)は、観音立像に見える殻に胡粉を塗り、得意の筆を加えただけで南京豆以外の素材は使われていない。キューピーさん(左)は、前かがみの南京豆を選び、根つきの突起を切りとって頭に見せ、両手と背中の羽は画用紙で糊づけして全身を彩色したもの。頭は茶、ほかは桃色で塗り、股の線は赤で引かれている。
 4回目は、「孔雀と家鴨」(写真④)。クジャク(左)は、変態南京豆の殻を半分切り、粘土を詰めてマッチ棒を足にし、トサカは画用紙で作っている。あまり複雑な細工はせず、鮮やかな色合いの魅力で見せたのだろう。新聞の作品タイトルは家鴨(アヒル)となっているが、どう見てもガチョウ(右)だろう。斎藤素厳も「鵞鳥」と書いているが、嘴と頭部は粘土で尾が画用紙を加工している。身体全体は純白の胡粉を塗り、目だけが黒いようだ。
 5回目が、陽咸二らしいユーモラスな作品で「京人形と這い這い人形」(写真⑤)。京人形(右)は、頭のとがった殻の底部に画鋲を刺し、頭部は金色、両手は朱色、腹部は代赭(たいしゃ)色=くすんだ赤黄色に塗って金文字で「金」と書いてある。這い這い人形(左)は、別々の豆殻を上下マッチ棒でつなぎ、継ぎ目に粘土を接着している。帯には赤い水引きを結び、上を向いた目鼻立ちがどこかおかしい。
 6回目は、「大黒天と山羊さんとリス」(写真⑥)。なんでヤギは「さん」づけで、リスが呼びすてなのかは不明だ。大黒天(右)は、豆殻の底に画鋲を刺して固定し、上半分に胡粉を塗って墨で大黒天を描いたもの。粒子の荒い写真では、イマイチ描画がよくわからない。ヤギ(左上)は、尻尾の生えた豆殻を探し、耳を画用紙で、足をマッチ棒で細工している。リス(左下)は、ヤギと同様に耳を画用紙で、手をマッチ棒で作り、太い尻尾は粘土で表現されている。腹は胡粉の白いままで、背と顔は茶褐色に塗られている。斎藤素厳は、「眼の点描や腹毛の扱ひ方など、流石に芸術家の筆である」と書き添えている。
 
 
 7回目は、「はと」(写真⑦)。実際の小さな枝に、粘土を詰めた豆殻に針金を通し、足として枝にとまらせている。広げられた羽は、接着された殻片だろうか。着色もリアルにされているようで、動きのある面白い一作だ。
 8回目は、「金魚車と寿美田川」(写真⑧)。寿美田川(上)は、突起のある南京豆を探して嘴にし、全体を胡粉で塗り墨を少し入れただけ。足は画鋲で固定している。細竹に、「寿美田川」と画用紙に書いて糸で吊ったのはおまけ。金魚車(下)は、豆殻の半分に切りこみを入れて拡げ、背びれと胸びれ、尾びれは画用紙を切って接着し、胡粉と朱で彩色したもの。台車は、ゴールデンバット(たばこ)の空き箱で、車輪には画鋲を使っている。台車にマット棒を刺して、上部の金魚を固定している。
 9回目は、「宝船と絵馬」(写真⑨)。宝船(上)は、船体と帆は豆殻で、帆は殻をふたつに割ったもの。帆の耳は画用紙を切って貼り、擬宝珠には粘土を用いている。船の側面にある波も、ブルーに着色された粘土でできている。船体は多くの色彩で鮮やかに着色されていたようだが、色合いの詳細については書かれていない。絵馬(下)は、顔は馬で角や髭を生やした「龍頭馬面」の立体絵馬だ。龍の髭は赤い水引きを、角は竹ひごを加工してつけたもの。絵馬の土台は、木製の菓子箱を切りとって応用したもので、彫刻刀で細かな模様が彫られている。
 連載最後の10回目は、「虎と龍」(写真⑩)。陽咸二は中国玩具の蒐集家であり、その道では権威者としても知られていた。トラ(上)は、中国風のデザインをしており、豆殻に粘土の四肢と水引きの尻尾、洋紙の耳を貼りつけている。色は書かれていないが、黄色に黒の縞柄だろう。龍(下)は、胴体が豆殻でうしろに伸びた尾は粘土。髭と角は水引きを活用しており、身体全体は黄色と黒とで塗られていた。
 南京豆芸術がヒットしたおかげで、陽咸二はかなり収入が安定したようだ。だからこそ、さまざまな趣味へ手を出し、それぞれの道では一目置かれるほどの「権威」となっていったのだろう。こんなエピソードが残っている。1931年(昭和6)に開催された、構造社の「第五回展美術展覧会出品目録並ニパンフレツト第四号」から引用してみよう。
  ▼
 思はず大金がころげ込んで、先づ第一に、一ふし何円とかにつく、釣竿を買つて、イヤハヤ其講釈のうるさい事、ところが其後数日ならずして釣に行つた帰り酔つぱらつて、折角の得物はどこかに落し、ヤカマシイ釣竿はズタズタに折つてしまつて、翌朝嘆じて曰く「誰だ俺に金なんかよこした奴は」
  ▲
 
 陽咸二は、ほどなく病気がちになり、若いころの不摂生が祟ったのだろう、身体じゅうが悪いところだらけになって、常時6人の医者にかかるようになる。身体だけでなく、口も前から悪いと誰かからいわれたのだろう、陽咸二は「イイヤ口は達者だ達者だ」。

◆写真上:陽咸二の南京豆芸術にピッタリな、変態豆殻のひとつ。
◆写真中上:①から④は、1937年(昭和12)3月18~21日に発行された東京朝日新聞の「趣味娯楽」欄に掲載された「これが南京豆―陽咸二氏の遺作品から―」。
◆写真中下:⑤から⑧は、同年3月23~26日に掲載された南京豆芸術の作品群。
◆写真下:⑨と⑩は、同年3月27・28日に掲載された自宅に残された遺作群。