2016年(平成28)に南池袋公園は再リニューアルされ、カフェテラスのある明るい公園へと生まれ変わった。池袋駅前(東口)の、防災設備も備えた豊島区の震災1次避難所としての役割りも果たすという。もはや、昔日の根津山Click!の面影はどこにもない。ただ、公園の東端にある空襲で亡くなった人々を慰霊するプレートのみが、戦災当時の記憶をとどめているのみだ。
 公園の南側には、戦後に改葬あるいは拡張された本立寺の墓地が静かに横たわり、東側はビルや住宅の立たない駐車場(?)のような広い空き地が拡がるばかりだ。以前の南池袋公園ほどに樹木はいまだ繁ってはおらず、公園の敷地全体が広い芝庭のような風情となった。まだグリーン大通りに都電が走っていたころ、夜間に根津山を通りかかると車窓から防空頭巾をかぶった大勢の人々が樹間に見えた……とかいうたぐいの怪談も、これからは語られにくくなるのだろう。
 1974年(昭和49)に行われた南池袋公園の再整備工事の様子を、1988年(昭和63)8月18日発行の朝日新聞に掲載された記事から引用してみよう。
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 池袋根津山の白骨/公園工事で姿現し/塩で清め埋め戻す
 池袋周辺は(昭和)二十年代に行われた戦災土地復興整理で区画が大幅に変更され、根津山の雑木林も姿を消した。仮埋葬の遺体も別の場所に本葬された。その後、根津山の跡地に南池袋公園がつくられたが、四十九年の公園改修工事の際、コンクリート製の別の地下壕に行き当たった。その近くで、かなりの数にのぼるとみられる白骨が土中から姿をのぞかせていた。が、工事を急ぐあまり塩でお清めをして、そのまま埋め戻した、と当時の工事関係者は証言する。/やがて巣鴨プリズンも取り壊され、跡地には、戦後の繁栄の象徴ともいえる、日本一の高さを誇るサンシャインビルがそびえ立つ。しかし、夏休みの親子連れが歓声を上げて見下ろす繁華街の地下の片隅には、今なお本葬されなかった白骨が眠ったままでいる。(カッコ内引用者註)
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 記事では、「仮埋葬の遺体も別の場所へ本葬された」と書きつつ、「本葬されなかった白骨が眠ったまま」と頭尾で矛盾した記述となっている。前者が、区役所または周辺住民への取材から得たとみられる情報であり(そう思いたかったのだろう)、後者が1974年(昭和49)現在に突きつけられた事実だということを示している。
 さて、記事中に見える「コンクリート製の別の地下壕」とはなんなのだろうか? 南池袋公園は、池袋駅東口のすぐ駅前であるにもかかわらず、戦後しばらくの間はビルや住宅の建たない空き地として放置されていた。1951年(昭和26)に南池袋公園として整備されるが、それまでは柵で囲われた広い空き地のままだった。コンクリートの地下壕は、朝日新聞の図版によれば公園敷地の最南端、本立寺の墓地との境界あたりで発見されている。
 ここで、再び小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』のヒロインである「ミオ」に登場してもらおう。ただし、本作品は小説という形態をとっているので、戦後すぐに防空壕へ住みついた「ミオ」や「軍服」をはじめとする登場人物たちは、すべて架空の存在だと思われる。
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 「その空き地よ」/ミオと軍服が同時にいって笑い声が起きた。夏に盆踊りをやる空き地。見世物小屋が出ることもある。ほかの目的で使われているのは見たことがない。ふだんは鉄条網で覆われている。駅前なのに、なぜいつまでも空き地なのか。あそこは国の持ち物ではなくてS鉄道の敷地ではないか、と担任の先生がいっていたかもしれない。もしくはS鉄道が国の土地を買ったのである。軍服によれば、爆弾が落ちたのは、まさにそこだった。地面に大きな穴が開き、疎開から戻った人たちが、よく見物していたものだという。やがて穴は埋められたが、もともとそこにあった地下の通路は確保された。通路の起点は、皇族方の通う学校である。その地下道と都電通り沿いの穴はつながっている。
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 文中の「S鉄道」は西武鉄道のことであり、「大通り」とは都電が走るグリーン大通りのことだろう。ここで語られている「皇族方の通う学校」は、目白駅前から環5(明治通り)へとつづく学習院のことで、学習院から根津山をへてグリーン大通りの地下へと抜けるトンネルの存在を示唆している。
 そもそも、このようなトンネルが存在するとすれば、航空機による空襲を防ぐ必要性、つまり防空の概念が顕著になった時期に造られたものだろう。すなわち、1930年代に入ってからということになるだろうか。池袋東口駅前から学習院前の千歳橋まで、環5(明治通り)が貫通したのは1932年(昭和7)、現在のグリーン大通りである、根津山を東西に横断する舗装道路(舗装されない道路は以前からあった)ができたのが1937年(昭和12)であり、そこに東京市電が開通するのは1939年(昭和14)のことだ。つまり、1930年代に入ってから、学習院と現在のグリーン大通りとの間は、あちこちで地面を大きく掘り返す工事中の風景が見られていただろう。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)によれば、この時期に町内各地で道路整備工事が行われている。
 『リナリアの咲く川のほとりで』の記述をそのまま踏襲すれば、根津山の空き地からトンネルはグリーン大通りへとつづいているわけだから、その南から北上してきていると思われる。つまり、学習院の東端から明治通り沿いを北上し、旧・雑司ヶ谷小学校あたりから北北東へ進路を変えて、グリーン大通り下の地下道へとつながっていることになるだろうか。ちなみに、現在の南池袋公園には東京メトロ・有楽町線が通っており、グリーン大通りの下には東京メトロ・副都心線が走っている。
 さらに、上記の副都心線の敷設コースがとても気になる。なぜなら、同線はあちこちでトンネルが発見された戸山ヶ原Click!のまん真ん中を通っており、学習院の東端をかすめて雑司ヶ谷から池袋駅へ、さらには練馬の郊外(小竹町/向原町方面)へとつづいているからだ。停車駅でいうと、「西早稲田」(陸軍戸山学校の北側=近衛騎兵連隊敷地)-「雑司が谷」(学習院東端の千登世橋際)-「池袋」(同駅地下)の西へとカーブを描くコースだ。南池袋公園へと向かう、明治通りの地下コースとは別コースになるが、戸山ヶ原に展開した陸軍各施設と学習院、そして郊外とを結ぶ非常に効率的なルートといえる。空襲でトンネルのひとつが崩落した場合、別ルートのトンネルをバックアップとして担保しておくのは、誰でも考えそうなことだ。



 もうひとつ、面白い記録が残っている。1934年(昭和9)に、グリーン大通りの北側にあった陸軍による「東京在営諸兵隊対抗実地演習」の明治天皇「野立所」跡を、公園化する動きだ。同演習は1875年(明治8)12月27日に実施されたもので、「野立所」は南池袋公園からグリーン大通りをわたり、北北東へ100mほど離れた位置にある。1934年(昭和9)7月13日の読売新聞によれば、東京府と文部省はすでに「重大問題」として調査をはじめており公園事業化が進んでいた。
 こののち、「野立所」の土地は非公開のまま根津育英会が所有していたことになっており、1941年(昭和16)に同会が豊島区へ寄付し、豊島区が東京市へと寄付するかたちで、1943年(昭和18)に東京市立「根津山公園」として開園している。もっとも、当時は日米戦争が熾烈化する一方の時期で、根津山公園の開園は目立たないニュースだったかもしれない。
 さて、これをお読みの方はすぐに気づかれると思うのだが、文部省が公園事業化を決定してから、実際に根津山公園が開園するまで9年もの歳月が流れている。その間、たいして広くもない公園に、いったいなんの「工事」を施していたものだろうか? 根津山公園は、現在の副都心線のほぼ真上にあたる施設であり、現在では「明治天皇野立所碑」がポツンとニッセイ池袋ビルの裏に残されているだけだ。根津山公園の開園を伝える、1943年(昭和18)1月17日に発行された読売新聞の記事を引用してみよう。
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 根津山公園を公開
 畏くも明治天皇には、明治八年十二月二十七日雑司ケ谷の地に行幸あらせられ、在京諸兵の対抗演習を御統監遊ばされたが、その御縁りの地、俗に根津山といはれる広潤な林野の一部を今度帝都の百八十五番目の公園「雑司ケ谷野立所」公園として市民に公開することになつた。/これは明治天皇の聖蹟地として昭和十六年七月根津育英会から地元豊島区へ寄附されたものを同十六年十二月同区から(東京)市へ寄附移管されたもので、(東京)市では直ちに工費四千六百円で装景工事に着手したものである。
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 ここで不可解なのは、1934年(昭和9)に「重大問題」として事業化に着手したはずの文部省と東京府の姿が、まったく消えてしまっていることだ。表面的には、豊島区と東京市のみが登場しており、文部省と東京府は9年の間になんらかの“役割り”をすでに終えた……ということなのだろうか。



 現在、南池袋公園では空襲の犠牲者を慰霊する「小さな追悼会」が毎年開催されている。再び『リナリアの咲く川のほとりで』から、主人公との初対面のときに射るような目つきで話す、「ミオ」の言葉を引用してみよう。「どうせ昔のことなんか、誰も知らなくなるから、知らないといっておけばそれですむのさ。すべてはなかったことになる。歴史からなくなってしまう。でもなくならないよ」。

◆写真上:南池袋公園を南から眺めた現状で、右手のビルはサンシャイン60。
◆写真中上:上は、空襲の焼け焦げとみられる跡が残る本立寺の石塀。中は、1956年(昭和31)の空中写真にみる南池袋公園。下は、1963年(昭和38)の同公園。
◆写真中下:上は、1988年(昭和63)8月18日の朝日新聞記事。中は、1932年(昭和7)に撮影された目白通り(環5)工事。下は、1937年(昭和12)に撮影されたとみられるグリーン大通りの舗装工事。池袋駅へと向かう東京市電は、いまだ敷設されていない。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)7月13日の読売新聞に掲載された根津山記事。中は、哀悼碑のある南池袋公園の東側で、高層ビルは豊島区役所の入る「としまエコミューゼタウン」。下は、1995年(平成7)に設置された根津山の「哀悼の碑」。