このサイトでは、詩人・千家元麿Click!の父親であり出雲王家の末裔である、東京府知事もつとめた千家尊福Click!のことについてはご紹介済みだ。出雲圏と南関東の江戸(エト゜=岬)圏とが、おそらく1600年ほど以前の古墳期以来、もっとも接近した事蹟だろう。ただし、その時代の「出雲」は、ナラから数日で“国境”にたどり着ける距離感、すなわち中国地方のほぼ全域(吉備南部を除く)から四国にまたがる、明治初年に千家尊福が“行幸”したエリアの巨大なクニだったとみられる。
 千家元麿は、尊福の子どもとして1888年(明治21)に乃手Click!の麹町で生まれている。父親に反抗して家出し「不良少年」となった彼は、上野や浅草を遊び歩いては新聞に短歌の投稿を繰り返しており、最初は歌人になりたかったようだ。次に自由劇場のイプセンを観て感激し、劇作家あるいは小説家になろうとしていたらしい。だが、1912年(大正元)の24歳のときに、決定的な出会いがあった。同年10月に、読売新聞社で開かれた「ヒュウザン会」(のちにフュウザン会)の展覧会で、岸田劉生Click!や木村荘八Click!と知り合い、やがては武者小路実篤Click!との交流がはじまった。
 翌年から劉生、荘八、実篤、長与善郎、高村光太郎Click!など白樺派との交流が進み、次々と戯曲を発表している。千家元麿が本格的に詩作をスタートするのは、1916年(大正5)ごろからといわれている。そして、翌1917年(大正6)に30歳で発表した『自分は見た』(翌年に玄文社から出版)など16編の代表作で、詩人としての本格的な創作活動に入った。
 千家元麿の詩は、おもな代表作を読む限り性善的かつ楽天的で、いかにも白樺派の影響が大きい善意に満ちた感覚の作品が多い。岸田劉生や木村荘八と親しかったせいか、絵画にも強く惹かれていた様子がうかがえる。新潮社から出版された『日本詩人全集』(1969年)第27回付録に掲載の、中西悟堂「千家元麿と佐藤惣之助」から引用してみよう。
  ▼
 画が好きで、ゴッホだのドーミエだのに凝っていたが、そのゴッホの墓に咲いていた向日葵の種を千家は誰からか貰って、その種から庭に生やし、これを大事に育てていた。飯能に千家を好きな青年がいて、或る日、千家一家が不在の日に訪ねたところ、草蓬々の庭である。ほんの好意からそこにあった鎌で綺麗に草を刈ったのは殊勝だったが、ゴッホの向日葵もさっさと刈ってしまった。あとで千家のしょげようといったらなかった。散歩の時もまっしぐらに風のように、チビ下駄で飛ばすせっかちの千家。無類に優しい孤独の目がいつも不安に閃いて休止符というものが碌にないのが、萩原朔太郎ともどこか似ていたが、その善意は底なしであった。地獄と天国を同時に持っていたような天真の詩人。そんな千家が、限りなくなつかしい。
  ▲
 ここでは、千家が誰かからもらった、ゴッホの墓に咲くヒマワリの種が登場している。まったく同様に曾宮一念Click!も、誰かからゴッホの墓に植えられたヒマワリの種Click!をもらい、自宅の庭で育ててはよく作品のモチーフに使っていた。曾宮のケースは、1925年(大正14)にゴッホの墓参りをした佐伯祐三Click!から、帰国のフランス土産でもらったのではないかと想像していたが、もし千家と曾宮が同一人物からヒマワリの種をもらっていたのだとすれば、その人物は佐伯祐三ではない。曾宮一念は、京都で岸田劉生と待ち合わせをするなど、元・草土社の画家たちとも交流があったからだ。



 ちなみに、劉生は千家の肖像画を描いていることが、1941年(昭和16)に河出書房から出版された岸田劉生『美乃本体』からもわかるが、作品がいまどこにあるのかは不明だ。ひょっとすると、“首狩り”Click!にあった千家が譲り受けて、そのまま行方不明になっているのかもしれない。同書所収の、「自分の踏んで来た道」から引用してみよう。
  ▼
 次に真田氏の肖像、Y氏の肖像、千家兄の肖像、繃帯した少女の顔等の肖像画があるが、皆さういふ時期の製作である。だんだんに表現に新しい画らしい型がとれて行つて、大まかな筆ではあるが素直な自然の追求になつてゐる。真田氏の肖像や千家兄の小さい方なぞは、がつちりした感じが割に掴んである。
  ▲
 劉生が描く千家元麿の肖像画は、同書にによれば大小2サイズの画面があるようだが、残念ながら日記に描かれた似顔絵しか発見できなかった。(冒頭写真)
 さて、千家元麿は詩人として華々しく詩壇にデビューし、処女作の『自分は見た』をはじめ『虹』(新潮社/1919年)、『野天の光り』(同/1921年)、『新生の悦び』(芸術社/1921年)など次々に詩集を発表している。芸術家には、初期に出した作品群で自己表現のすべてを出しきってしまう早熟型の人と、少しずつ作品を積み上げてはついに代表作と呼べる作品を生みだす晩成型の人とがいる。千家元麿は、中西悟堂が「その流れは初めに太く終りに細くなっている」と書くように、典型的な早熟タイプの詩人だった。
 千家元麿は、より理想的な詩作の環境を求め歩いたのだろうか、30代には頻繁に転居を繰り返す引っ越し魔だった。その転居先は巣鴨、池袋、練馬、長崎、落合と、東京の西北部を中心として頻繁に移動している。その様子を、『日本詩人全集』12巻(新潮社/1969年)の尾崎喜八の文章から引用してみよう。
 
 
  ▼
 彼はたびたび居を変えたが、多くは東京北部の郊外、都会と田園とが接触して一種独特な庶民的生活風景と憂鬱な雰囲気とを持つ巣鴨、池袋、練馬のあたりを、家族をかかえて転々と借家住まいしていたように思われる。しかもその間に画期的な『自分は見た』以後、『虹』、『野天の光り』など十冊の詩集に加えて、ほかに二冊の短篇と戯曲の集、一冊の随想集を次々と出版させた。この間に変調を来たして幾らかの空白の時も持ったらしいが、やがて大東亜戦争が始まって、昭和十九年には長男宏がビルマで戦死し、翌年三月糟糠の妻千代子が疎開先の埼玉県吾野の田舎で病没した。
  ▲
 千家元麿の年譜には、その一部の住居が記載されているけれど、地名や住所の表記がかなりおかしい。そのまま転載してみると、彼は巣鴨村新田、鎌倉町大町、横浜、埼玉県飯能(夫人の実家)、大井町滝王子、豊島郡北荒井村(?)、長崎町五郎窪、下落合葛ヶ谷(?)、江古田2丁目、豊島区長崎町(?)、長崎南町(?)……などとなっている。これらは、千家が暮らした住所の一部とみられ、実際にはもっと転居先があるのだろう。
 この中で特におかしいのは「豊島郡北荒井村」で、このような地域は存在しない。豊島郡長崎町(字)北荒井のまちがいだろう。大正末から昭和初期に住んでいた住所なので、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」を参照すると、長崎町北荒井489番地(現・豊島区要町1丁目)に、「千家」邸を確かに見つけることができる。この千家邸は、いまでは要町通りの真下になり消滅してしまった敷地だ。
 さらに、「下落合葛ヶ谷」も落合町葛ヶ谷の誤りで、千家が住んでいたのは落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)だった。この敷地は、オリエンタル写真工業Click!の第1工場から、東へ100mほど歩いた角地の一画だ。また、「横浜」や「豊島区長崎町」だけで地域名や字名がなければ、広大な街中のどこに住んでいたのかまったくわからず、「長崎南町」は1932年(昭和7)に東京35区が誕生した大東京時代に、長崎町の一部に誕生した新しい町名であって、それ以前に千家元麿の住所とするのは明らかにおかしい。このように、彼が頻繁に転居を繰り返したせいか、年譜の旧居記述はかなり混乱しているようだ。落合町も葛ヶ谷640番地の1ヶ所だけだったものか、さらに研究の深化を期待したい。



 1925年(大正14)のことだから、そろそろ巣鴨町から長崎町への引っ越しを考えていたころだろうか、池袋駅の東口に拡がっていた根津山Click!をハイキングする、千家元麿をとらえためずらしい写真が残されている。草深い山道に腰を下ろした記念写真だが、千家は田畑や住宅地が拓け近くに里山が残る、このような風情の地域を探しては引っ越しを繰り返していた様子がうかがえる。そこには、いつも自然と人とが共存し、ときにはせめぎ合う「接点」のようなエリアの郊外風景が、各地域で展開していたにちがいない。

◆写真上:1922年(大正11)11月7日の『劉生日記』に描かれた、千家元麿の似顔絵。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」で確認できる千家邸。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる千家邸。下は、長崎町北荒井489番地(現・豊島区要町1丁目)の千家邸跡の現状で要町通りの下になっている。
◆写真中下:上左は、1918年(大正7)に出版された千家元麿『自分は見た』(玄文社)で装丁は岸田劉生。上右は、1941年(昭和16)に出版された岸田劉生『美乃本体』(河出書房)。下左は、1925年(大正14)に根津山を散策する千家元麿(右)。下右は、1927年(昭和2)ごろに長崎町北荒井の家庭で撮影された千家一家で、背後の自邸は西洋館のようだ。
◆写真下:上は、晩年の千家元麿。中は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)界隈。下は、同住所の現状。