落合地域の川沿いには、昔から染色業や印刷業に加え、化学薬品を製造する企業や工場が多い。それは、神田川(旧・神田上水)の清廉な水質が、化学工業に適していたからだろう。たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)を参照すると、明らかに化学工業会社とみられる社名の企業や研究施設は、すでに5社を数えることができる。すなわち、坂上免疫剤(株)、亀井薬品研究所、三菱薬品研究所、池田化学工業(株)Click!、そして戸塚化学工業(株)の5社だ。
 『落合町誌』の「産業」章から、その一部を引用してみよう。
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 旧神田川沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ賑はず、日用食料の小売業者多きを占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。
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 この事情は、神田川の南側に位置する戸塚町(現・高田馬場/早稲田地域)でもまったく同様で、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、テーエス東京製剤(合資)や(合名)河中工業所などの工場名が挙げられている。
 また、神田川の北側に位置する高田町(1920年までは高田村)でも薬品製造の工場は早くから進出し、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、規模の大きな工場が紹介されている。以下、『高田村誌』の「工業地としての高田」から、水野製薬所についての紹介文を引用してみよう。
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 大正六年五月中の創立に係り、場主は水野善一氏たり、現在生産品は炭酸マグネシウムにして即ち軍艦汽船の塗料剤及はみがき、ごむ製品材料としての用途に充つ。販路は日本内地及輸出向とし、刻下孜々として諸製薬研究の続行中に属せり。場所は高田五三四と成す。
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 戦時中に、これら川沿いの工場は軍需品の製造現場となっていたので、B29による空襲の目標となり、ほとんどの工場が爆撃で破壊されるか、それ以前に空襲に備えた建物疎開Click!で郊外へと移設されている。戦後、いち早く復興したのも、これら神田川の水を利用できる沿岸の工場群だった。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』(新宿区)によれば、1949年(昭和24)の時点ですでに24社の化学薬品企業が操業をスタートしている。また、3年後の1952年(昭和27)には30社へと増えている。



 現在でも、これら地域の神田川沿いには、製薬会社あるいは化学研究所は多いが、戦前はこれらの企業や研究所と軍部(おもに陸軍)が結びついている例も少なくなかっただろう。陸軍では、特に軍事機密(化学兵器)ではない薬剤に関しては、製薬会社に委託して研究開発を進めているケースが見られる。特に落合町をはじめ、中野町、戸塚町、高田町など神田川沿いの製薬会社や研究所は戸山ヶ原Click!も近く、陸軍の化学兵器開発の本拠地である陸軍科学研究所Click!や軍医学校などに近接していたからだ。
 さて、台東区が発行した資料『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正。昭和』第7巻に、薬剤店の息子が神田川沿いにあった神田和泉町の東京衛生試験場へ入所し、陸軍向けの毒ガス解毒剤を開発していた証言が残されている。当時、薬剤の専門家をめざすには、明治薬学専門学校か東京薬学専門学校のいずれかを卒業する必要があり、著者は1939年(昭和14)に明治薬専を卒業している。
 当初、陸軍は毒ガスの解毒剤を製薬会社に作らせようとしたが、採算が合わないと断られ、著者が入所していた東京衛生試験場で製造することになった。以下、同書所収の藤田知一郎「千束町二代、薬店から工業薬品へ」から引用してみよう。
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 そのころ試験所では戦時医薬品を作れという事で、新しく製薬部っていう所が出来た時なんです。/この製薬部は三つに分かれていました。一つは窒息性毒ガスの解毒剤を作る所、一つは睡眠剤で今でいう精神安定剤を作る所です。これは戦場で狂う人ができるんでその安定剤なんです。もう一つは殺菌剤で、アメーバ赤痢の特効薬でキノホルムって有機性の薬品を作るところです。これはヨードチンキの代わりに傷にもきくんですが現在は発売禁止になっている薬です。/私は毒ガスの解毒剤を作る製薬部にまわされました。この解毒剤はロベリンというんですが、それまではドイツから買っていたんです。ところが当時で一グラム百二十円もするものですから、とても買い切れないので日本で作ろうという事になったんですね。製薬会社で作らせようとしたんですが、とても採算が合わないというので引き受けてがなくて、それでは国で作ろうという事になったんです。
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 もうひとつ、著者の文章には貴重な証言が含まれている。陸軍の召集令状である「赤紙」Click!については広く知られているが、「青紙」の役割りについてはあまり知られていない。陸軍の公式的な資料から「青紙」=“防衛招集”などと解説する資料もあるけれど、戦時中に「青紙」が果たしていた役割りはまったくちがう。以下、同書からつづけて引用してみよう。
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 それから間もなく、五月になって軍から青紙が届いたんです。青紙というのは赤紙の召集令状が来る前の待機命令で足止めなんです。赤紙が来たら宇都宮の軍隊に入る事になっていました。それではというので覚悟して準備をしていましたら八月十五日の終戦になったんです。
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 戦争も情勢が不利になってくると、「青紙」が居住地からの移動や地方疎開の禁止、つまり召集者へ「赤紙」がとどく前の“禁足”措置として機能していた様子がうかがえる。わたしの親父も話していたが、「青紙」がとどくと当人は現在居住している地点から移動できなくなり、転居や疎開Click!ができなかった……という証言とも一致する。召集予定の当人を除き、家族だけで転居や移動(疎開)ができない家庭では、そのまま親や妻、子どもたちも「青紙」にしばられて現在地へ残ることになる。
 この「青紙」により現居住地に“禁足”され、東京大空襲Click!や山手空襲Click!などに巻きこまれて、その家族たちも含め生命を落とした人々がどれだけいたものだろうか。いまでは記録も残されてはおらず、「青紙」犠牲者のすべてが闇の中だ。
 また、製薬研究所や製剤会社へ陸軍が発注した劇薬がもとで、死亡した職員や社員がどれほどの数にのぼるのか、こちらも統計がないのでまったく不明だ。彼らは、単なる職場の「労災」として片づけられただろうが、まちがいなく戦争の犠牲者たちだ。


 大正中期あたりから、さまざまな新聞や雑誌、書籍などの広告欄に製薬会社だけでなく、薬品を小売りする薬局の広告が急増してくる。このころから、いわゆる市販薬・民間薬の製造工場が川沿いを中心に急増し、高い診察料をとる医院にはかかれない庶民たちが購入するようになった。現代のように、「国民皆健康保険制度」が完備するのは、戦後の東京オリンピックが開催される3年前、1961年(昭和36)になってからのことだ。

◆写真上:現在でも神田川沿いには、大手製薬会社やケミカル会社が営業つづけている。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された水野製薬の媒体広告。中は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋下流の工業地域。下は、上掲の写真とほぼ同じ位置からの撮影で戦後の下落合に設立された代表的なケミカル会社。
◆写真中下:上は、1933年(昭和8)に作成された「各区便益明細図」にみる高田馬場駅周辺で、化学や製薬の会社・工場が各所に見えている。下左は、池袋の津村敬天堂が1928年(昭和3)に制作した媒体広告。下右は、大日本麦酒の製薬部門が1943年(昭和18)に週刊誌の裏表紙へ掲載しためずらしいカラー広告。
◆写真下:上は、1919年(大正8)の『高田村誌』掲載の薬局と医院の広告。下は、中野区の写真資料館に掲載された昭和初期の薬局。なんだか副作用がたくさん出そうな薬局で、「わいは危険ちゅうわけやな」…とあまりこの店では買いたくない。w