昨年の正月、下落合にアトリエを建てて転居してくる直前の佐伯祐三Click!が、1920年(大正9)に描いた『戸山ヶ原風景』Click!の一本松をご紹介した。そのわずか4年後に、戸山ヶ原近くの大富豪令嬢が「誘拐」されるという「大事件」が起きている。そして、身代金の受け渡しが戸山ヶ原の一本松で行われたため、事件解決を依頼されたひとりの探偵が、同松とその周辺域を捜査している。怪人二十面相の前では、「ははは…」と意味もなく笑いながら、つい自分で自分のことを臆面もなく「名探偵」といってしまったりする、性格的にやや問題がありそうな明智小五郎Click!だ。
 令嬢誘拐事件は、新聞でも12~13行のベタ記事で報道されたそうだが、日付は記録されていないのでハッキリしない。ただ、この誘拐事件を記録した明智小五郎の親しい友人が、明智と知り合って「一年程」たった冬の出来事だとしているので、おそらく1924年(大正13)の冬、つまり11月から12月※あたりにかけての事件だったのだろう。
※江戸川乱歩が本作を執筆したのは1921年(大正10)ごろとされているが、ここでは「新青年」発表時を起点として逆算想定している。
 事件を記録した筆者は、大学を出たばかりで働きもせず、かといってそれほどおカネに困っている様子もなく、熱海の温泉などにゆっくり浸かっていられる身分、つまり当時の言葉でいうなら「高等遊民」のような存在だった。
 彼が明智小五郎のことを、初めて原稿化して記録したのは1924年(大正13)の正月であり、そのテーマとなる出来事があったのは前年、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の余燼くすぶる9月、乃手Click!の花屋敷Click!のある菊人形で有名な団子坂で発生した殺人事件だった。東京の市街地が壊滅しているのに、被害が少なかった乃手の団子坂で悠長に珈琲など飲んでる場合じゃないだろ……とは思うのだけれど、そこが「高等遊民」ならではの、何事にもあたふたしないライフスタイルなのだろう。
 のちに、『D坂殺人事件』と名づけられたこのケーススタディのとき、筆者は明智とはすでに喫茶店で待ち合わせをするほど親しい間がらであり、この事件のときが知り合ったばかりだったとしても、次の事件が起きるのは「一年程」あと、すなわち1924年(大正13)9月以降の冬季……ということになる。『D坂殺人事件』は、1924年(大正13)1月に発表されたが、『黒手組』と題された令嬢誘拐事件が筆者の手で発表されたのは、1925年(大正14)2月のことだ。
 さて、戸山ヶ原近くの屋敷街に家をかまえる大富豪のもとへ、令嬢の「富美子誘拐」と身代金を要求する脅迫状がとどくところから、同家を恐怖のどん底へ陥れた事件の幕が切って落とされる。以下、1925年(大正14)に博文館から発刊された「新青年」2月号に所収の、江戸川乱歩『黒手組』(光文社版)から引用してみよう。文章は、筆者の伯父が明智小五郎に事件の経緯を説明する一節だ。
 ちなみに、江戸川乱歩Click!というのが筆者「高等遊民」のペンネームであり、おそらく関口の大滝橋Click!から揚場町近くの舩河原橋Click!あたりまで、すなわち大正期は桜の名所として知られた江戸川Click!(現・神田川)沿いを、フラフラあてもなく散歩することが好きだったので、「江戸川」の「乱歩」とでもつけたものだろう。事実、彼は戸塚町(現・高田馬場)界隈や、早稲田鶴巻町一帯の下宿や借家を転々としている。
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 脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人限きりで来ること、若し警察へ訴えたりすれば人質の生命はないものと思え……娘は身代金を受取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」/T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所に一寸した灌木林があって、一本松はその真中に立っているのです。練兵場とはいい条、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、殊に今は冬のことですから一層淋しく、秘密の会合場所には持って来いなのです。
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 ここでも、実名を出してしまうと差し障りがあると感じたものか、団子坂を「D坂」と書いたように、陸軍用地だった戸山ヶ原Click!のことを「T原」と表現している。そして、戸山ヶ原の西端、つまり省線山手線の西にあった陸軍科学研究所Click!の北側に位置する一本松を、あえて「原の東の隅っこ」などと言い換えている。
 「昼間でもまるで人の通らぬ」と書いているが、それはこのあたりに詳しくない筆者の誤認で、陸軍による演習が予定されてはおらず、立入禁止の赤旗が翻っていないとき、昼間や休日は近所の人々の散歩道として、あるいは子どもたちの遊び場として、さらには近所に住む画家たちの格好の写生場所Click!として、戸山ヶ原にはけっこう人々が入りこんでいた。夏目漱石Click!が大久保の寺田寅彦宅Click!へ向かうコースも、戸山ヶ原を斜めに横断していくコースだったし、佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』も上戸塚の南側(現・高田馬場4丁目)にあったとみられる下宿から、散歩がてら入りこんだ同原の光景を写したものだ。
 むしろ、戸山ヶ原の外周域にある住宅街では、大久保射撃場Click!からの流弾被害Click!のほうが深刻な課題だった。同射撃場の全体が、1928年(昭和3)7月にコンクリートのドームで覆われる以前の話だ。ちょうど令嬢誘拐事件が起きたころには、周辺町村の住民たちが陸軍は戸山ヶ原から「出ていけ」運動Click!を展開している真っ最中だった。
 さて、「誘拐」された富美子嬢の家、つまり実業家で大富豪の屋敷は、戸山ヶ原周辺のどこにあったものだろうか? そもそもこの誘拐事件の大前提として、文面に書かれている戸山ヶ原の一本松が「あっ、あそこだ!」とすぐに気づくエリアでなければ、脅迫状になんの意味もないことになる。かんじんの身代金の受け渡し場所が、「一本松って、なに? 警察には相談できないし、どこへ行けばいいの?」では困るのだ。だから、戸山ヶ原にある一本松の位置を知悉している、ひょっとすると大富豪の家人も散歩したことがあるエリア、そのごく近くの屋敷街ということになる。その証拠に、大富豪の伯父は「御承知の通り」などと、戸山ヶ原の様子をよく知っている口ぶりだ。
 当時もいまも、一本松のある山手線西側の戸山ヶ原を囲むように存在している街は、北側の戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)、北西側は落合町上落合、西側の中野町小滝(現・東中野5丁目)、西南側の柏木町淀橋(現・北新宿4丁目)、南側の百人町……ということになる。この中で、一代で大富豪となった筆者の伯父が、大邸宅をかまえて居住しそうな屋敷街というと、ちょうど大正期に入って華洲園(花畑)Click!が整理され、藤堂伯爵邸をはじめ大屋敷街が開発されたばかりの、中野町小滝のバッケ(崖地)Click!上にある小滝台住宅地が相当するだろうか。ひとつの敷地が600~2,600坪という、大邸宅向けの分譲地であり、いわゆる「中流上」向けの文化村住宅街とは、そもそもケタがちがう開発コンセプトだ。
 

 身代金の受け渡しには、小滝台の邸宅からクルマで早稲田通りへと下り、小滝橋交差点を新宿方面へ向かう小滝橋通りへと入って200~300m、戸山ヶ原の西端に駐車すると、伯父と書生の「牧田」は原の斜面を東へ上っていったのだろう。背後には、豊多摩病院Click!の灯火がチラチラと見え隠れしていたかもしれない。あたりは初冬のことだから、昼間太陽に熱せられた地面から、薄っすらと靄が立ちこめていたかもしれない。ふたりは、まばらな林を抜けると塹壕演習Click!の跡が生々しい原っぱに出た。懐中電灯で照らされた原の中心には、ポツンと一本松の影が闇を透かしてなんとか確認できただろうか。
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 「あのT原の四五町手前で自動車を降りると、わしは懐中電燈で道を照しながらやっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく樹蔭を伝う様にして、五六間の間隔でわしのあとからついて来ました。御承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやら判らぬので、可也気味が悪い。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあの間どうしていたっけかなあ」/「はあ、御主人の所から十間位もありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっと御主人の懐中電燈の光を見詰めて居りました。随分長うございました。私は二三時間も待った様な気がいたします」
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 このとき「牧田」は、陸軍科学研究所Click!のある南側の林を密かに移動し、一本松の下で身代金を用意して犯人を待つ主人の東側へと廻りこみ、林の中で急いで変装していた。そして、黒づくめの大男を装うと拳銃をかまえ、主人からまんまと身代金1万円を奪うことに成功している。明智小五郎が一本松の下で現場検証を行い、「竹馬」らしい足跡を発見するのは、事件から5日めのことだった。


 でも、戸山ヶ原の一本松あたりは、近所の子どもたちの格好の遊び場となっており、事件から5日もたったあとまで、事件当夜の足跡がきれいにクッキリ残されていたとは思えない。明智小五郎が天眼鏡で足跡を探しているそばから、「も~い~かい?」「ま~だだよ」と一本松でうしろ向きに数をかぞえる、“鬼”から逃げ散った子どもたちが周囲を走りまわり、「こっ、このオバカ~! ガキどもが、そこらを踏み荒らすな~! コッ、コラ~ッ、浅草の見世物小屋か、サーカスにでも売り飛ばしてしまうぞ、あっちいけ~!」と叫ぶ明智を尻目に、ウヒャヒャヒャ……と周囲の地面はグチャグチャにされていただろう。江戸川乱歩が一本松の周囲を、ことさら「人の通らぬ淋しい場所」とか「秘密の会合場所には持って来い」と強調しなければならなかった理由が、実はこれだったのだ。

◆写真上:日米開戦の直前まで、一本松があったあたりの現状。戦時中、陸軍技術本部/陸軍科学研究所Click!が北側へ拡張されたため伐採されて消滅している。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)に陸軍航空隊が撮影した空中写真にみる戸山ヶ原の一本松。下は、1938年(昭和13)ごろの戸山ヶ原の様子を描いた濱田煕による戦後の記憶画『天祖社の境内から一本松を望む』(部分)。
◆写真中下:上左は、2004年(平成16)に出版された短篇『黒手組』所収の光文社版『江戸川乱歩全集』第1巻。上右は、空襲からもまぬがれ現存する蔵を改造した江戸川乱歩邸の書庫。下は、江戸川乱歩の小説が連載された博文館発行の「新青年」。
◆写真下:上は、濱田煕が描いた戸山ヶ原(西部)の鳥瞰図にみる「伯父」と書生「牧田」の身代金1万円の受け渡し想定ルート。下は、「牧田」が拳銃を手にして隠れていた灌木あたりの現状で、斜面を下りたビルの向こう側に小滝橋通りが走っている。