明治期の、いまだ澄んでいた大川(隅田川)沿いに散在していた江戸小紋や江戸友禅、紺屋などの染色業Click!が郊外へいっせいに移転しはじめるのは、明治末から大正期にかけてのことだ。旧・神田上水Click!や江戸川Click!(ともに現・神田川)沿いにも、数多くの染色会社や工房が移転してきて、1955年(昭和30)刊行の『新宿区史』によれば、京染めをはるかに凌駕した江戸東京染めは、実に都内染物生産額の75%を新宿区の旧・神田上水(江戸川)沿いに建っていた工場や工房が占めるまでになっている。
 郊外へ移転する前、下谷二長町で染物屋をしていた方の証言が、1991年(平成3)に出版された『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)に収録されている。地付きの家は、江戸期から大工だったようだが、著者の親の世代から染物業に転換し、現在でも埼玉県草加市で操業をつづけているようだ。同書の長谷川太郎「江戸っ子職人三代の二長町」から、江戸小紋を生産していた工房の様子を引用してみよう。
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 父の染めの仕事は着物の染めでした。小紋ですね。そのほかお人形さんと、羽子板の押絵に使う友禅などもやったんです。小紋というのはなかなか技術のいる仕事で大変なんです。/布地一反といえば三丈(一丈は十尺で約三メートル余り)ありますから、これを板に張って染めるのに一丈五尺のもみ板を使うんです。反物の幅は九寸から一尺位あってそれに耳をつけますから一尺四~五寸はあるんです。/それで一丈五尺の板の裏表で丁度三丈の布が張れるんですね。この板を三十枚も五十枚も揃えておいて使っていたんです。だから染屋は仕事場が広くないと出来ないんですね。/昔はね、手拭屋さんとか紺屋さんとか染屋さんがこんな小さな町にも何軒もあって、そこで働く職人さんがうんといたんです。染屋産ではいわゆる小紋をやっているのが多かったですね。それが震災後に新宿の落合方面とか、江戸川の方とかへ散って行ってしまいましてね。
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 ここでいう「江戸川」とは、大滝橋Click!から千代田城外濠への出口にある舩河原橋Click!までの神田川のことで、葛飾区を流れる新しい江戸川のことではない。
 現在では、これらの工房は法人化され染め職人は会社員となっているが、戦前までは仕事をおぼえるまでの年季奉公ないしは徒弟制度がふつうだった。尋常小学校あるいは高等尋常小学校を終えた子どもたちは、「小僧」として工房に入り、仕事(技術)をおぼえて一人前になるまで毎月20~30銭の小遣いで働くことになる。戦前、小僧の「年季明け」は19歳の兵役検査がめやすで、たとえば20歳から2年間の兵役につき、除隊すると1年間の「お礼奉公」があった。
 お礼奉公の期間は、いちおう給料が支払われ1日あたり1円30銭~1円50銭が相場だったらしい。1年間をすぎると、一人前あつかいで1日あたり1円80銭~2円と給料が上がり、月の合計給与は当時の一般サラリーマンよりも多めになる。休日はほとんどなかったが、昭和に入ってからは会社員をならって、日曜日を休日にするところが多くなった。



 つづけて、同書の「江戸っ子職人三代の二長町」から引用してみよう。
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 昔は月給というのはありません。今の様に休みが多くないからまあ一年中働いていた様なもので、天長節であろうが何であろうが関係ないんです。昔の休日といえば月の一日と十五日、少し後になって第一、第三の日曜日が休みという事になったんですが、もっと昔は年に二回、一月と七月のやぶ入りだけだったんですからね。(中略)/お小遣いを二十銭とか三十銭もらってね、大体行く所は浅草ですよ。かすりの着物に鳥打帽スタイルです。映画を見て食べて帰るんですが、まあ一銭でも安い所を探すわけですよ。支那そば十銭とかね、探すと八銭の所もありましたよ。十戦のカレーライスとかね、カツレツとかフライなんかもあるんです。
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 ここで「藪入り」の話が出てくるが、東京は新暦なので1月1日に正月(2月の旧正月は存在しない)、7月7日の七夕のあとに盆をやる習慣は当時もいまも変わらない。正月と盆に雇用人へ休暇を出すことを、藪入りといっていたのだが、現在では8月の旧盆のことを親たちの世代から藪入りと呼んでいる。従来は、東京地方の7月15~16日の盆に合わせて休暇を出していたものが、8月の旧盆のままの地方も少なくはないので、戦後は8月に休暇(夏休み)を出す会社が多くなった。したがって、本来はシンクロしていた7月の盆と藪入りが分離してしまったわけだが、それでも8月の旧盆休みを、わたしの子どものころまで東京では「藪入り」と呼ぶのが習わしだった。10月は「神無月」だが、出雲(島根)のみは「神在月」と呼ぶのと同じような感覚だ。
 でも、高度経済成長がスタートしてしばらくすると、地方から働きにくる人々が増えたため、藪入り(旧盆)のことを「盆」と呼ぶ人たちも増え、東京では7月の盆と8月の旧盆が二度あるような感覚になってしまった。それではおかしいので、7月の盆はそのままで8月の旧盆は「藪入り」ではなく、最近では「夏休み」と表現する企業も増えている。
 本来なら、8月の半ばが盆なら、正月は2月1日でなければおかしいし、七夕も8月7日でなければまったく暦(こよみ)に合わないのだけれど、1月1日が正月、3月3日が雛祭り、5月5日が端午の節句、7月7日が七夕、7月半ばが盆……という習慣を頑固に守っているのは、いまや江戸東京地方を含む関東地方だけになってしまったものだろうか。



 さて、江戸小紋の染めつけは浮世絵の版画を何色も重ねて刷るのと同じで、非常に高度なテクニックが必要だった。浮世絵は、失敗すればその刷り紙を廃棄すればいいが、小紋は布が一尺五寸もあるので、やり直しがまったくきかない。型紙は、和紙を何重にも重ねた渋紙でこしらえるが、それに小刀で模様を切っていく。これも高度な技術が必要で、寸分の狂いもない神業のような腕が求められた。
 戦前の染めには化学染料が使われたが、ドイツからの輸入品が多かったらしい。だから、第1次世界大戦でドイツが負けると、染料の価格が高騰してたいへんだったようだ。朝方は1匁(もんめ)10円で買えた染料が、夕方には20円になっていた……などという話もめずらしくなかった。大正の中期ごろ、染め物業者は食うや食わずで染料の入手に奔走していたという。だが、戦後は和服の需要が急減し、職人の数も激減している。落合地域の江戸小紋や手描き友禅の工房も、いまや40軒あるかないかの件数にまで減ってしまった。
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 しかしあたしはもう和服はやめました。残念ながらこれでは食っていけませんからね。それで今は無地のものの機械染めをしているんです。スポーツ用品のバッグとか、かばん類、登山用のテントとか、合成せんいの消耗品が主です。最近はこういう需要が多いんです。まあこの機械染めならば後継者もやれて永続性がありますから。
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 落合地域の神田川や妙正寺川沿いでは、いまだ着物を染めつづけている工房Click!が少なくない。いまや、江戸小紋や江戸友禅の“本拠地”になってしまった同地域だが、少しでも地場や地域の産業を盛り上げようと、さまざまな企画や催しClick!が行われている。



 余談だが、江戸小紋の染めに使われた長さ1丈5尺で幅1尺5寸の染め板は、戦時中に「風船爆弾」Click!の製造用に軍へ徴集されている。和紙や羽二重の布へこんにゃく糊を塗る、下敷きの作業台にされていたのだ。陸軍登戸研究所Click!による風性爆弾は、本所国技館Click!や浅草国際劇場Click!などで製造されていたけれど、軍の最高機密であるにもかかわらず、親父でさえ戦時中からその存在を知っていた。ヒロポン(覚せい剤)を注射された女学生たちが徹夜で作業し、到底「作戦」とも呼べない風まかせの偶然性に依拠した風船爆弾を語るとき、「どう考えても勝てるわけがない」と苦笑していた親父を思い出す。

◆写真上:しぶい浅縹色(あさはなだいろ)の、精緻な柄が美しい波頭文様の小紋。
◆写真中上:江戸小紋の作業工程で地染め(上)と型紙止め(中)、そして型染め(下)。
◆写真中下:上は、丸刷毛と染め布。中は、現在でも染めの工房が多い妙正寺川(神田川支流)沿い。下は、何度かお邪魔した上落合にある染の里「二葉苑」Click!。
◆写真下:戦後に撮影された、浅草国際劇場(上)と本所国技館(中)。下は、江戸小紋の染め板を使いこれらの施設で製造されていた「風船爆弾」のバルーン。