近ごろ東京のあちこちで、江戸期に建てられていた屋敷や商家の遺構の発掘調査を耳にする。数年前に新宿歴史博物館Click!の近く、三栄公園で埋蔵文化財の発掘調査が行われているのを目にした。江戸時代は北伊賀町にかかるエリアなので、なにか商家の遺構でも発見されただろうか。
 同博物館が建設される以前、江戸期には伊賀の組屋敷が建っていた敷地あたりから、大量の獣骨が出土している。幕府の御家人である伊賀組屋敷や扶持が多めな屋敷は、その一部が町域となっていて町人たちも隣接して住んでいたようだ。ひょっとすると、組屋敷の敷地の一部をナイショで町人に貸与し(幕府により敷地の賃貸は原則的に禁止)、管理する差配を置いていたものかもしれない。発見された獣骨は、判明しているだけでもイノシシ(最少個体数97頭)、ニホンジカ(同32.71頭)、ニホンカモシカ(同7.11頭)、ツキノワグマ(同3頭)、ニホンオオカミClick!(同3頭)などだった。発見された限りの骨は完全骨格のものは少なく、身体の一部の骨が多かったという。狭い敷地でこれだけの獣骨が発見されるということは、さらに多くの獣肉が集積していた可能性が高い。
 つまり、1頭の動物をいくつかの部位に解体したあと、江戸にめぐらされた専門の物流ルートを通じて肉が町場へ配送されていた……と考えるのが自然だろうか。その個体数の多さから、武家屋敷が多い乃手Click!のエリアだった四谷三栄町にも、(城)下町と同様にももんじ屋Click!(肉料理屋)が開店していたと想定することができる。中でも、牛肉より美味だとされるアオジシ(ニホンカモシカ)や、非常に美味しいニホンジカの肉は人気があったと思われ、シシすき(焼き)や江戸風シシ鍋(いわゆるボタン鍋とは別物で牛鍋に近い)と同様に好まれていたのではないだろうか。この獣類や鳥類(日本橋ではカモなど)の“すき焼き”料理Click!や鍋料理をひな型に、明治以降になると肉の素材にウシが加わり、東京には濃い“したじ”(醤油の江戸東京方言)ベースで甘辛の牛すき焼きや牛鍋Click!が誕生することになる。
 さて、江戸時代の発掘現場からは、思いもよらない遺物が出土することがある。幕府の大旗本(時代により譜代大名)だった柳生家の菩提寺・広徳寺の墓所から、ツゲの木で精巧につくられた入れ歯(全部床義歯)が出土している。柳生宗冬が使用したとされているけれど、厳密に規定できるかどうかは知らない。現在のおカネに換算すると、制作には2,000万円ほどの経費が必要だったようだ。以前、下落合の第二文化村Click!に住んだ歯科医学のパイオニアであり、東京医科歯科大学Click!の創立者・島峰徹Click!のことを書いたとき、江戸期の専門職だった「入歯師」Click!について触れたことがある。
 精巧な木製入れ歯は、現在でも制作するのは困難で、自在に木彫ができる彫刻の巧妙な技術をマスターした専門家でないとできないようだ。浅草の阿部川町(現・元浅草界隈)に住んだ仏師(仏像の彫刻師)が、柳生家の墓所出土の入れ歯を再現した記録が残っている。某大学教授からの依頼で、どうやら大もとは宮内庁を通じて興味をもった昭和天皇からのオーダーだったようだ。



 1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)所収の、大川幸太郎「江戸っ子阿部川町九代目」から引用しよう。
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 私もこないだ、ツゲで作ったんですけど大変ですよ、型をはめてやるんでなく、木で彫って口の中へ入れて、さわるとこを削って、口の中へ入れたり出したり、相当長い間かかるんでしょうからね。仏師の手間が一日いくらで来るんでしょうから。全部仏師がやったもんです。仏師でなければ、そういう細かい仕事はできないんですよ。/普通の彫刻師は、下へ置いて彫るんです。仏師は手で持って彫るんです。入れ歯は立体ですから手で持って彫れる仏師でなければ出来ないわけなんですね。/広徳寺の現物、今うちに来てます。すごい貴重品だから気をつけて下さいって、大学の先生が持って来たんですけどね、この歯のところは象牙です。今世界中で日本の入れ歯を随分外人の歯科医が研究に来るらしいですよ。
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 腔内の微妙なカーブや、口当たりを細かく絶妙に調整できる高い技術力がないと、とても木製の入歯師はつとまらなかった様子がうかがえる。現代では、その技術を継承しているのは、木彫の仏師しかいないようだ。もっとも、手先が非常に器用な彫刻家(陽咸二Click!レベルかな?)なら、なんとかつくることができるかもしれない。
 大川幸太郎という人は、8歳になった小学生のときから仏像彫刻を修行しはじめ、22~23歳になった兵役後の年季明けで独立している。この文章を書いたときは、すでに50年以上のキャリアがある仏師だった。柳生家の墓から出土した入れ歯は、ツゲ木の歯茎に象牙の歯でつくられたものだったが、そのほかにも歯の部分がコクタンで仕上げられた入れ歯も出土している。日本でもっとも古い入れ歯は、室町時代の遺構から出土した450年前のものだそうだが、女性が使っていたらしい。


 それほど大昔から、歯周病による歯抜けに悩んだある程度の身上のある人々は、彫りが巧みな専門家(おもに仏師)に依頼して入れ歯を制作していたようだ。もっとも、江戸初期の柳生家とそのつながりが強い伊賀家などでは、“草”(忍び=諜報員)の仕事がら永久歯が生えると抜歯してしまい、総入れ歯にしてしまったという伝承が残っている。もちろん、情報収集を行なうためにどこかへ潜入する際、怪しまれないよう人相風体を変える必要があったからだ。江戸期に“草”を職業にしていた人々の墓所を発掘すると、数多くの入れ歯が見つかるのかもしれない。
 入れ歯が特殊な階級や、一部のおカネ持ちだけでなく、一般の町民にまで浸透してきたのは江戸後期になってからのことだ。ほとんど木製のものが多かったのだろうが、専門の技工を身につけた入歯師が街中に看板をかかげることになる。木製の歯茎にコクタンの歯を嵌めこんだ、女性専用の鉄漿(歯黒)いらずの入れ歯も多くつくられている。
 さて、阿部川町で仏師をしていた大川幸太郎という人は、戦前から川柳(せんりゅう)の句会も催していた。江戸期に町名主だった柄谷川柳(八右衛門)が、龍宝寺の門前町とみられる阿部川町に住んでいたことから、それにちなんで川柳をはじめたらしい。ところが、戦時中に「反戦川柳」を詠んで殺された、鶴彬(つるあきら)という人物(同句会のメンバーだったのかもしれない)の証言を残している。以下、同書から再び引用してみよう。
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 戦争中に反戦川柳を作りましてね、それで殺されちゃった人がいるんですよね。最初は戦争反対ということでもって警視庁へひっぱっていかれて、散散ひっぱたかれて、幾日か留められて釈放されるんですね。帰されるとまた発表して捕まる。それを繰り返してるうちに、特高が怒っちゃって赤痢にしちゃって病死にしちゃうんですね。/拷問したりすると問題になるから、たまたまそういう病気に運悪くなったというふうにするために菌食わしちゃったんですね。その人の川柳は本当にすごいです。/落語家などが変な川柳をやるので川柳はふざけたもんだと思ってる人が多いんでね、機会ある毎にその話をするんですけどね。/手と足を もいだ丸太にして返し(中略)/帰されたって、ただものを食って、脱糞してるだけで、ただ生きている丸太ん棒ですからね、戦争ってのはこういうもんだって事ですよね。
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 ここで書かれている「赤痢菌」が事実だとすれば、特高Click!はどこから入手したものだろうか。以前こちらの記事にも登場しているけれど、戸山ヶ原に設置された陸軍兵務局分室Click!(のち陸軍中野学校Click!)の福本少佐が、もともとは憲兵隊特高課の課長であり、警視庁の特高課とは非常に近しい関係にあったらしいことを書いた。警視庁特高課の幹部が、陸軍兵務局分室への就業(特務要員として)を推薦しているらしい形跡さえうかがわれるのだ。陸軍兵務局分室は、もちろん諜報員(スパイ)養成のために、同じ戸山ヶ原に建設されていた陸軍科学研究所Click!や防疫・細菌研究室(731部隊拠点)Click!とはツーカーの仲だったことが、さまざまな証言からうかがえる。

◆写真上:江戸期の遺構がふんだんに眠る、四谷界隈でかいま見られた関東ローム。
◆写真中上:上は、三栄公園の埋蔵文化財発掘調査。中は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版江戸切絵図「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」にみる三栄公園の北伊賀町あたり。下は、大量の獣骨が発見された三栄町遺跡の上に建つ新宿歴史博物館。
◆写真中下:上は、四谷三栄町遺跡から出土したイノシシやアオジシ(ニホンカモシカ)、ニホンジカなどの多種多様な獣骨。下は、四谷荒木町の「策(むち)の池」へと下る旧・松平摂津守Click!の上屋敷内だった敷地へ明治以降に設置された坂道。
◆写真下:上は、広徳寺の柳生家墓所から出土した寛永年間(1624~1645年)につくられたとみられるツゲ+象牙の入れ歯。中は、1864年(元治元)に制作された国芳『きたいな名医難病治療』の部分。歯科医の膝元には、いくつかの入れ歯が置かれている。下は、1861年(文久元年)の尾張屋清七版江戸切絵図「浅草絵図」にみる龍宝寺と阿部川町。