落合地域の周辺には、平安末ごろから伝承されたとみられる和田氏の伝承Click!や地名が散在するのを、これまで折りにふれて書いてきた。和田氏とは、もちろん鎌倉幕府Click!の重要な御家人の系統であり、侍所別当の重責をつとめるあの“和田氏”だ。当然のことながら、鎌倉幕府ができたので和田氏が突然形成されたのではなく、もともと南関東に根差していた勢力が幕府の成立過程で重要な役割りをにない、幕府成立後は鎌倉へ移住して館をかまえたとみられている。
 落合地域には鎌倉街道が通い、鎌倉の切り通し工法で作られた七曲坂Click!には、奥州藤原氏との戦ののちに形成されたとみられる頼朝伝説が残り、七曲坂の下からは鎌倉期に造られた板碑Click!が出土している。つまり、下落合の本村Click!(もとむら)と呼ばれたエリアは、少なくとも鎌倉時代にはすでに形成されていたとみられ、周辺になんらかの勢力が根を張っていたとしても不思議ではない発掘状況だ。
 通称「和田山」Click!と呼ばれ、和田氏の館跡の伝承が残る井上哲学堂Click!の丘や、その南側の松が丘に展開する鎌倉時代の住居跡、鎌倉中期だろうか下落合の西部から西落合にかけて語られる地頭・細田氏の伝承、そして和田山の北側に継承された(東)和田から本村(中野区)や、現在も地名がつづく広大な和田町(中野区)、東の長崎側に残った大和田Click!(豊島区)、戸山ヶ原に展開する和田戸Click!(新宿区)の地名など、後世に形成された付会や俗説とは思えない、リアルな存在感をおぼえるのだ。そしてもうひとつ、和田義盛の伝説が残る東中野の事績を見つけたのでご紹介したい。1933年(昭和8)に出版された、『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
  
 和田義盛手植の松
 東中野駅の北方にて野立場の南寄に、和田義盛手植の松と云ひ伝へたる老木ありしが、大正六年の頃枯死したり、此の地は旧幕徳川時代の代官中山主水の抱屋敷以前より武家屋敷跡なるよし。或は和田義盛の館址にや。されど和田館址と称する地は前既に記したる、和田堀町字堀之内なる妙法寺池の外、野方町に字和田山(哲学堂)及び和田部落ありたり。又渋谷町にも大和田ありて和田一族の住めるよし伝へあり。(後略)
  
 和田義盛の「手植の松」というのは、かなり後世の付会臭がするけれど、ここで重要なのは和田氏のネームがあちこちで具体的に伝承されているという事実だ。
 東中野駅の「野立場」というのは、徳川幕府の時代に将軍が鷹狩りClick!にやってきて、周囲の様子を展望した「御立場」Click!と同義のポイントで、下落合の七曲坂の上にも同様の場所があった。東中野駅の北東側、すなわち早稲田通りを越えた上落合エリアに接した南側は、大塚と呼ばれる古い小字が伝承されてきたエリアで、百八塚Click!のひとつで墳丘とみられる見晴らしのいい小高い丘が存在したのかもしれない。現在の場所でいうと、「野立場」は2009年(平成21)に廃校になった東中野小学校のあたり、すなわち華洲園跡Click!(小滝台住宅地)の北東の位置にあたる。



 また、杉並区の和田堀町界隈や渋谷町の中渋谷界隈にも、昭和初期まで和田氏の伝承が色濃く語り継がれていたのがわかる。渋谷の大和田は、現在でいうと渋谷駅の南西側にある南平台町や鉢山町、鶯谷町、桜丘町あたりの丘陵地帯だ。これらの地域を地図にポイントし、面で考察すると広大な地域が浮かび上がる。
 すなわち、東側は新宿区の戸山ヶ原Click!(尾張徳川家下屋敷Click!)に残る和田戸(山)から、北は豊島区の椎名町駅と東長崎駅の中間に位置する大和田、あるいは中野区にある哲学堂公園(和田山)の北側にふられた(東)和田、西は杉並区の現代につづく広い和田(町)から和田堀Click!にかけ、そして南は渋谷駅の南西側にある大和田の丘陵地帯まで、実に5つの区域にまたがる南北に長い広大な面積だ。
 これだけ広範にわたり和田氏の事蹟や伝承が数多く語り継がれ、また地名にもその痕跡が色濃く残っている状況から、すべてが後世の付会ぱかりとはいい切れないリアリティを感じるのはわたしだけではないだろう。これら物語の発祥は、鎌倉幕府が成立し和田氏が相模の海辺へと一族で移住(出仕)する以前、藤原時代の末あたりから形成されていた可能性も否定できない。
 下落合の自性院に残る縁起を記録した、1932年(昭和7)出版の大澤永潤Click!『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみよう。



  
 今より八百年前藤原時代の末葉義家卿の部下の士によつて開かれたといふ床しい伝説を持つ当地はそれより三百有余年を経て室町時代となりました、勿論この間、鎌倉時代の伝説として近くに和田義盛の據城跡と伝ふる和田山の伝説が村の鎮守の森に続いて西方一帯の丘陵に渡つてあります。(中略) 和田山の故事は一寸前述致しましたが当初鎮守御霊社境内に続いて西方一帯の丘陵地で明治年間彼の妖怪学の泰斗で社会事業家井上円了博士の哲学堂が建説(ママ:設)せられ都人学徒の参観者数多あり、又この度び大東京都市編入に際し此の辺一帯天然風致区域に指定せられました。
  
 この伝承によると、「村の鎮守の森」すなわち葛ヶ谷村(現・西落合)の鎮守である葛ヶ谷御霊社Click!にも、和田氏に関わるなんらかの伝承が当時まで残されており、落合地域から和田山の(東)和田の本村地域にかけて、かなり古くから「和田伝説」が語り継がれてきたことをうかがわせる。和田氏の館が、ほんとうに和田山にあったのかどうかはとりあえず別にして、近接する下落合の鎌倉街道や頼朝伝説を踏まえれば、そうとう根深い伝説だったことがうかがわれる。
 鎌倉時代は、いまだ室町後期のような“山城”や“平城”などの城郭を築く、戦略あるいは戦術上の発想は存在していない。あくまでも拠点となる館が中心であり、その建設地に選ばれたのは、周囲からできるだけ攻められにくい地形を考慮した適地を選ぶのが通例だった。そのような視点から、改めて「和田」の地名が残る一帯を眺めていると、丘あり谷ありの起伏に富んだ地形であることに気がつく。つまり、和田義盛がほんとうに住んでいたか否かは別にして、和田氏に関連する館ないしはなんらかの拠点が、鎌倉時代のこれらの地域に広く展開していた……と考えても、なんら不自然さを感じないのだ。



 東京西部に残る「和田」地名のエリアから、鎌倉時代の集落遺跡、あるいはその存在を示唆する板碑などが共通して発見されているのであれば、この仮説はがぜんリアリティを増すことになるだろう。和田山(哲学堂)の南には鎌倉期の遺跡が、下落合の鎌倉街道沿いからは鎌倉時代の板碑が見つかっている。他のエリアも、古くからの遺跡が多そうな地勢なので、なんらかの痕跡が残っているかもしれないのだが……。

◆写真上:落合地域の西隣り、野方村(現・中野区)の東和田あたりの街並み。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された井上哲学堂(通称:和田山=現・哲学堂公園)。は、1933年(昭和8)に撮影された小滝台(旧・華洲園)上の東中野尋常小学校。は、同小学校のある小滝台の丘上へと通う急なバッケ階段。
◆写真中下:1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる、野方村東和田界隈()と長崎村大和田界隈()。は、東京西部に残る和田氏の伝承地と「和田」地名。
◆写真下は、「和田戸(山)」と呼ばれた戸山ヶ原に残る箱根山で旧・尾張徳川家下屋敷の庭園跡。は、谷と丘の連続で起伏が多い渋谷駅南西側の南平台界隈。は、鎌倉の由比ヶ浜に残る和田氏一族の終焉地である和田塚。