山手線の目白駅Click!を越えた向こう側に、気になる西洋館がふたつある。目白町と雑司ヶ谷町(現・南池袋含む)は、山手空襲Click!から一部の焼け残った住宅街が戦後までつづいていたので、明治末から昭和初期までに建てられた住宅が、そのままの姿で建っていた。ときどき、それらの街角を舞台にした絵画や小説の作品に出あったり、印象的な建築が記録されたりしている。
 目白町の西洋館(または文化住宅)を舞台にした作品で、すぐに思い浮かぶのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。空襲にも焼け残った住宅街に建つ「氷沼邸」は、周囲の様子や駅までの距離、あるいは平面図さえ同作に登場するので、どのあたりに建っていた住宅なのか、特定することができる。1987年(昭和62)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集・第10巻/死』所収の『虚無への供物』から、「氷沼家」の描写を少し長いが引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋(ママ)の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会(ママ)わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を忍ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。行き止まりかと思う道が、急に狭い降り坂となって、ふいに大通りへぬけたり、三叉に別れた道が、意味もなくすぐにまた一本になったりして、それを丈高い煉瓦塀が隠し、繁り合った樹木が覆うという具合だが、豊島区目白町二丁目千六百**番地の氷沼邸は、丁度その自然の迷路の中心に当る部分に建てられていた。/宝石商だった祖父の光太郎が、昭和四年、初孫の蒼司が生れたのを喜んで、半ば隠居所を兼ねて建てた家だが、これという趣味も奇癖も持たなかったせいか、久生の期待したような尖塔も櫓楼もある筈はなく、間取りなどもごくありふれた平凡な建物だった。
  
 中井英夫は、弦巻川へと下る北向きの斜面を「運よく戦災にも会わなかった」と書いているが、1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、かなりの範囲が焼け野原となっている。彼が1958年(昭和33)に、下落合4丁目2123番地へ転居してくるころには、すでに焼け跡のバラックが消えて住宅街が復旧していたので、そのあたりを散歩すると古い家屋が目について、一帯が空襲でも焼けなかったように見えたのかもしれない。
 「豊島区目白町二丁目千六百**」と書かれているので、500坪もの庭を持つ大邸宅の「氷沼邸」が、山手線沿いの路地が迷路のように入り組む、細長く焼け残った住宅街の中に想定されていることが知れる。下落合からこのあたりまで散歩に出た中井は、川村学園のあたりから目白通りを北側へ左折し、複雑で狭い迷路のような路地を歩いて、「氷沼邸」に設定する西洋館の目星をつけたのだろう。現在でも、路地こそ拡幅され舗装されてはいるが、複雑な三叉路やおかしな道のかたちはそのまま残っている。
 目白町2丁目1600番台の地番は、川村女学院(現・川村学園)や高田第五尋常小学校(現・目白小学校)の裏手を東西に、また山手線沿いを南北に長く連なる太い「L」字型のエリアに限定されるが、同学園や小学校の北側一帯は空襲でほぼ焼け野原だったので、戦前からつづく1600番台の住宅街というと、入り組んだ路地の存在とともに、山手線沿いの南北に細長い一画のほうに想定されたとみられる。

 

 『虚無への供物』の「氷沼家」は、モデルとなる西洋館はあったかもしれないが、あくまでも虚構のうえで存在する“幻の邸宅”だけれど、実在したにもかかわらず今日では人々の口の端にのぼることさえなくなり、“幻”と化してしまった巨大な西洋館があった。同じ高田町エリアの雑司ヶ谷に建っていた松平貞一邸だ。明治末にはすでに建設されていた同邸は、周囲の住民から「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれていたが、別に外国人が住んでいたわけではない。(敗戦後の一時期、GHQに接収されていた可能性はあるが……) 「松平」という姓からうかがえるように、おそらく徳川家の姻戚のひとりが建てた明治仕様の西洋館だったのだろう。
 豊島区の郷土資料をたどっても、弦巻川北岸の丘上にそびえてかなり目立つ、巨大で特徴的な西洋館だったにもかかわらず、意外にもほとんど記録が残されていない。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)にも、特に「松平家」は地元の“有名人”としての記載がない。つまり、ほんとうに幻の雑司ヶ谷「異人館」なのだ。
 「異人館」の所在地は、雑司ヶ谷(4丁目)572番地(現・南池袋4丁目)であり、今日の南池袋第二公園の東側あたりの一画だ。木造であったにもかかわらず空襲からも焼け残り、戦後には周辺の住民たちからメルクマールとして記憶された大屋敷だった。都電荒川線の鬼子母神電停を降り、線路沿いのほぼ直線の道を北へたどると、暗渠化された弦巻川の跡をすぎてから登り坂となる。その坂上に、あたりを睥睨するように明治期の大きな西洋館(松平邸)が見えていた。
 一度こちらでも引用しているが、1986年(昭和61)に発行された「広報としま」7月号所収の、永井保Click!「わたしの豊島紀行<22>」から引用してみよう。
  
 目白台から落合にかけての台地斜面には、名だたる坂が多く、景色もいいが、旧鎌倉街道が横切る、だらだら坂の多い雑司ヶ谷風景も好きである。いまは取り壊されてしまったが、鬼子母神電停から北へ、線路ぞいの坂の上にあった異人館(実際の名は知らない)などは好画題になった。
  





 永井保は、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた明治末の西洋館が、1986年(昭和51)7月の時点で「取り壊され」たと書いている。空中写真で確認すると、1984年(昭和59)にはいまだ建っているのが確認できるので、おそらく1985年(昭和60)前後に解体されているのだろう。
 永井保は「異人館」のイラストを残しており、下見板張りの外壁で屋根には尖った細いドーマーが並ぶ、いかにも明治期の建築らしい西洋館だったようだ。たとえるなら、1912年(明治45・大正元)に建設された、大磯Click!駅前の大きな旧・木下別邸のような意匠をしていたのだろう。イラストの表現を見ると、旧・木下別邸のように外壁が明るい色で塗られているようには見えず、なにか濃い色に塗られていたように見える。おそらく、外壁の腐食を防ぐためコールタールが塗られ、建設から間もない時期はともかく、戦後はこげ茶色をした外壁だったのではないだろうか。
 また、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』にも、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた、雑司ヶ谷の同地番に建っていた大きな西洋館が記録されている。なお、「昨年遂に取りこわ」されたと書かれているが、同文は1985~86年ごろに書かれたものではないか。
  
 宝城寺裏の丘の上に明治末から異人屋敷(異人館)と呼ばれた異様な建物があったが、昨年遂に取りこわし、その姿を消した。弦巻川は宝城寺下四つ辻のところの土橋で、流れは杜深い大久保彦左衛門邸内に注がれて入った。彦左衛門は殊にこの勝景を愛で池の汀に茶室を設け、しばしば清会を催したという。
  
 「異人館」が松平邸だったというのは、地元でも知られていなかったようで、住民の詳細について記した資料は見あたらない。きっと、「異人館」には昔から表札が出ていなかったか、あるいは住民がときどき変わって〇〇邸とは呼びづらかったのかもしれないが、少なくとも1938年(昭和13)の「火保図」には、松平貞一邸と採取されている。



 さて、この「松平」がどこの松平さんなのか同邸の周囲を見まわすと、ひとつの大きなヒントを見つけることができる。「異人館」から、西へわずか140mにある王子電車(現・都電荒川線)をはさんだ雑司ヶ谷大鳥社だ。同社は、金山稲荷Click!の対岸である目白台Click!にあった出雲藩松平出羽守の下屋敷(のち百人組同心大縄地)に由来する祭神であり、江戸期には嫡子の病平癒を願って祭神を出雲大社から勧請している。詳細は省くが、この出雲藩松平出羽守の末裔のひとりが、明治末に大鳥社の見える丘上の地へ、大屋敷を建設しやしなかっただろうか? 目白台からもほど近い雑司ヶ谷の「異人館」は、かつて“異人”など一度も住んだことのない、出雲の松平家にちなむ邸宅だったのではなかろうか。どなたか、ご存じの方があればご教示いただきたい。

◆写真上:南池袋第二公園の東側にあたる、丘上の雑司ヶ谷「異人館」跡の現状(正面)。
◆写真中上は、目白町2丁目16XX番地界隈に残る和館。中左は、1964年(昭和39)に講談社から「塔晶夫」名で出版された中井英夫『虚無への供物』。中右は、氷沼邸が想定された1947年(昭和22)撮影の空襲をまぬがれた16XX番地界隈。は、1986年(昭和61)に永井保が1951年(昭和26)ごろの風景を前提に描いた雑司ヶ谷「異人館」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された「異人館」こと松平貞一邸。は、雑司ヶ谷「異人館」の近隣に残る古い和館。は、上から順に1947年(昭和22)・1975年(昭和50)・1984年(昭和59)の空中写真にみる松平邸。
◆写真下は、1912年(明治45・大正元)に建てられた大磯駅前の旧・木下別邸。は、1857年(安政4)に制作された尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる出雲藩松平出羽守下屋敷。は、雑司ヶ谷「異人館」の近くにある雑司ヶ谷大鳥社。

コメント欄に、@mina_zou_coinpaさんより貴重な情報をいただいた。「異人館」はご友人の邸であり、松平邸の2軒西隣り(現・南池袋第二公園)に建っていたというものだ。そして、「異人館」の解体は1979年(昭和54)のことだったという。詳細は下記のコメントをご参照いただきたい。
 (ありがとうございました。>@mina_zou_coinpaさん)
もうひとつのテーマ、近くにあった松平邸は、下屋敷内に大鳥社を勧請した出雲藩松平出羽守の末裔の方だったかどうか、ご存じの方がおられればご教示いただければ幸いだ。
下の写真は、1975年(昭和50)に撮影された印の雑司ヶ谷「異人館」(上)と、その跡地である南池袋第二公園(中)、そして敗戦時には丘上にそそり立つように見えた王子電車(都電荒川線)沿いの坂道(下)。
コメント欄に、「お名前(必須)」さんより貴重なコメントをいただいた。同西洋館は明治期に来日したお抱え外国人のリヒャルト・ハイゼ邸ではないかという情報だ。詳細は、下記コメントをご参照いただきたい。(ありがとうございました。>お名前(必須)さん)




@mina_zou_coinpaさんより、「異人館」の上部が写るカラー写真をご紹介いただきました。詳細は、下記のリンク先(Twitter)をご参照ください。
https://twitter.com/mina_zou_coinpa

1950年代半ばの異人館
雑司ヶ谷「異人館」にお住まいだった正木隆様より、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された邸の写真をお送りいただきました。周辺にお住いの方々が、坂道を上るたびに眺めては印象深く記憶されているように、たいへん美しくて瀟洒な西洋館です。写真をご覧になって、さらに当時の様子を思い出される方々も多いのではないでしょうか。