1934年(昭和9)になると、沖縄からの画学生だった仲嶺康輝は、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にある名渡山愛順が借りていた下落合4丁目2080番地の一原五常アトリエClick!から、下落合4丁目2162番地の林明善のアトリエへと転居している。林明善は、片多徳郎Click!に師事した名古屋出身の洋画家で、帝展を中心に活躍していた。
 林明善は、名古屋市中区の古渡町にある犬御堂(現在は道路拡張にともない廃寺)という寺にいて、僧職をつとめながら帝展へ出品する異色の洋画家だった。ほとんどを名古屋の寺ですごすのだが、帝展や第一美術展の時期が近づくと、下落合の2階建てスレート葺きのアトリエへやってきては作品を仕上げていた。仲嶺康輝は林明善が名古屋にいる間、アトリエの“留守番”として住みこみの管理人となったわけだ。林明善アトリエのあった下落合4丁目2162番地は、中井御霊社Click!のちょうど南斜面、目白崖線の最西端にあたる八ノ坂の西に接するエリアだ。吉屋信子Click!が、1928年(昭和3)夏の散歩で歩いた中ノ道(現・中井通り)の途中、「牛」Click!を撮影したポイントの左背後の斜面に、林明善アトリエは位置している。
 このアトリエで留守番をしてすごしている1935年(昭和10)10月、仲嶺康輝はゴタゴタつづきの帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)から、牧野虎雄Click!の奨めで多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へと転校している。牧野は当時、多摩美校の初代洋画部長をつとめていた。同じころ、仲嶺は山元恵一と西村菊雄の3人で連れ立って、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町Click!へ、自邸とアトリエClick!を新築した安井曾太郎Click!を訪ねている。帝展画家たちとの交流が多かった3人にしてみれば、二科の安井曾太郎を訪問したのはめずらしく、特に小林萬吾の同舟舎洋画研究所へと通い、のちにシュルリアリスムへと進む山元恵一は、美校や画塾でのアカデミックな表現にウンザリしていただろうか、安井の画面が新鮮に感じられたかもしれない。
 1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 山元・西村と私の三人は目白駅の近くにいた安井曾太郎のアトリエを訪ねた事がある。なかなかアトリエを人に見せないので有名だが、沖縄から洋画の勉強に来た事を話したらアトリエを見せて下さって茶菓子を頂き激励して下さった。
  
 安井曾太郎は、「アトリエを人に見せないので有名」と書いてあるけれど、山口蚊象(のち山口文象Click!と改名)設計のアトリエはかなり自慢だったらしく、当時の建築雑誌や美術雑誌などの取材に応じてはアトリエ内を公開している。



 さて、下落合西部のアビラ村には、下落合2080番地の金山平三Click!や下落合741番地の満谷国四郎Click!後藤慶二Click!が設計した大久保百人町のアトリエに住んでいた南薫造Click!などが大正末に呼びかけて以来、帝展を中心とする画家たちが集合しはじめていた。名渡山愛順が一原五常アトリエを借りていたのは、おそらく東京美術学校で島津一郎Click!と同級生だった縁からだろう。当時の様子を、同誌からつづけて引用してみよう。
  
 この近くには、島津製作所の社長島津源吉の数千坪の屋敷に豪邸があった。その社長の息子に島津一郎がいた。一郎は、名渡山愛順と同級生で、そのため我々も懇意の中となり、よく一郎のアトリエに遊びに行った。一郎のアトリエは、島津家の大きな家敷(ママ)の一隅に、大きな住宅のような建物を持ち、よく専属モデル嬢を使って制作していた。刑部人の奥さんは一郎の姉で、島津家の広大な家敷の一角に邸宅を与えられていた。刑部人の息子祐三は、名渡山愛拡と美校時代の同級生と聞く。
  
 ここで、このサイトではおなじみの名前が次々と登場している。島津源吉邸Click!の庭にある、噴水の北側に建設された島津一郎アトリエClick!についてや、下落合4丁目2096番地の刑部人アトリエClick!、また、ここの記事ではよく写真やコメントを紹介させていただいている刑部佑三様Click!が、名渡山愛擴(拡)の同窓生とは存じ上げなかった。
 また、仲嶺康輝が下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)に、山元恵一たちと寄宿していたころの思い出として、次のような文章を書いている。今年(2017年)3~4月に、沖縄県立博物館・美術館で開かれた「山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム」展図録の、仲嶺康輝『学生時代の山本恵一君』から引用してみよう。
  
 私達の住んでいるアトリエから金山先生のアトリエまでは約7、80米、そこから中井駅まで約200米あって、この200米位のまがった坂道はスペインのアビラ村に似ているというわけで、金山先生がアビラ坂と名付けられた。私達はよく金山先生のアトリエにも遊びに行ったが、ここからは中井(西武線)の駅は、すぐ下にあって、ここを隔て、南側の向いが上落合で、上落合の欅の木々の間から遠く新宿の建物が見られた。上落合には南風原朝光さんが家族と一緒に住んで居られ、我々はよく遊びに出かけ南風原さんも亦我々のいるアトリエに来られた。
  



 仲嶺康輝が、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエに住んでいるとき、1936年(昭和11)の二二六事件Click!に遭遇している。その文章の中で、「学校へ行くために中井駅まで行ったら、東京の全交通機関はストップ」と書いているけれど、明らかに勘ちがいだろう。つい先日も二二六事件Click!の朝、西武線の中井駅から山手線、中央線と乗り継いで登校した名取義一の文章Click!をご紹介したばかりだ。
 前夜からの大雪で電車に遅れは出ていたかもしれないが、東京各地の省線や私鉄はいつもどおり運行されており、それに乗って登校あるいは出社した人々の証言は、これまで何度もここでご紹介している。東京市に戒厳令がしかれ、芝浦に海軍の陸戦隊が上陸して一触即発の状況となった後日の出来事と、2月26日当日の朝の出来事とを混同しているのではないだろうか。
 仲嶺康輝は年末が近づくと、金山平三アトリエClick!で催される忘年会(ダンスパーティ)Click!へ出席するため、友人たちと踊りの練習に熱中した。もちろん、沖縄舞踊の出し物だったが、金山平三が沖縄舞踊に惹かれて自身でも踊るClick!ようになったのは、近くにいた名渡山愛順や、沖縄の若い画学生からの影響だったのかもしれない。再び「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 私が留守番をしていた林画室は、友人・知人がよく来訪し、忘年会の時には皆が肉や魚や酒等を持って来てくれて若き日を楽しんだ。金山平三のアトリエでは、忘年会には、有名な画家(おもに帝展系)が集まってダンスパーティーをやった。私は郷里の青年で村芝居の経験のある数人を深川から林画室に来てもらって、リハーサルをし、金山平三の広いアトリエの作品を別室に片付けての忘年会に沖縄の舞踊を特別出演させたら大変な拍手であった。
  
 やがて、林明善アトリエには画学生の小林久や荻太郎が、愛知県からやってきて同居するようになる。だが、学校を卒業したあとも、そのまま林明善アトリエに住みつづけられると思っていた仲嶺康輝は、ほどなく1938年(昭和13)3月に林明善の訃報を受けとり驚愕している。林は、いまだ40歳の若さだった。
 のちに、アトリエは林明善の鈴子夫人が同じ名古屋出身の洋画家・遠山清に売却し、仲嶺は下落合から出ていかざるをえなくなった。彼は中野区鷺宮1丁目に土地を借りて、20坪ほどの小さな赤レンガ造りの平屋アトリエを建設している。



 仲嶺康輝が暮らした林明善アトリエの西、バッケClick!下(現・御霊坂のある位置)には、下落合と上高田の境界となる妙正寺川が流れていた。その両岸には、麦畑やトマト畑が拡がっていたのだが、紅く実ったトマトを失敬するトマト泥棒が出没している。川沿いのトマト畑が、点々と被害に遭っているようなのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:中井御霊社の下、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエ跡。(左手奥)
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林明善アトリエで、仲嶺康輝が住んでいた時期と重なる。は、1938年(昭和13)の火保図にみる林明善アトリエ。「火保図」では東隣りの寺尾元彦邸(早大法学部長)とくっついているように採取されているが、実際には別棟で同図の誤採取。は、中井御霊社に合祀されている稲荷社。社殿左側の、急激に落ちこんでいる斜面の真下が林明善アトリエ。
◆写真中下は、二の坂上の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)側から眺めた、突き当たりの金山平三アトリエ跡。は、金山アトリエで毎年開かれた忘年会の芝居+踊り+仮装パーティーで、左端が変装した金山平三。は、十和田で制作中の金山平三。(中島香菜様Click!から提供いただいた「刑部人資料」より)
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・林明善アトリエ。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる同界隈の様子。は、当時の画家たちも目にしていたと思われる中井御霊社から西側へと下る大谷石のバッケ階段。