下落合に集った沖縄の画家たちについて、仲嶺康輝Click!の回顧エッセイを引用しながらご紹介してきた。その中に、こんな記述がある。1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号(新生美術協会)収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』より引用してみよう。
  
 私のいた林明善画室の隣には、早大法学部長寺尾元彦がいて、油絵を習いたいからといって、油絵具一揃いを買い、休日などによく絵を描きに来られた。/寺尾部長は、早大法学部内に沖縄の人で優秀な教授がいると話して下さった。この人が後の早大総長大浜信泉である。/林画室の入口近くには、歌手の渡辺はま子が月村という表札と並んで住んでいて、そこを通る時、よくピアノと歌声が聞こえて来た。中井駅に行く途中には小説家の吉屋信子がいてよく犬を連れて散歩しているのを見かけた。
  
 この文章によれば、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエClick!の隣りには、「渡辺はま子」が住んでいたことになっている。だが、昭和初期に生まれた方ならすぐにもピンときて、「そりゃ、渡辺はま子じゃなくて、同じ歌手にはちがいねえけど渡辺光子さ。下落合に山口淑子(李香蘭)Click!だけじゃなくて、渡辺はま子までがそろってたら、もう仕事してる場合じゃないぜ!」となるだろう。w
 仲嶺康輝は、「月村」という表札を見ているにもかかわらず、渡辺光子(月村光子)と渡辺はま子をとりちがえている。しかもピアノの音や歌声が聴こえていたのなら、すぐにも曲や歌声から渡辺はま子ではなく、渡辺光子のほうだと気づいていたはずだ。わたしの親の世代から上の方で、特に当時の芸能界に詳しくない方だったとしても、ちょっとありえない、考えられない人ちがいだろう。
 事実、第二文化村Click!に通う坂道の途中、下落合1725番地には山口淑子(李香蘭)邸Click!(事務所が設定した“公邸”ではなく、おそらく私邸あるいは実家)があったので、同じ下落合の町内に渡辺はま子までが住んでいたら、町内の男子たちは落ち着かずウキウキ気分になりっぱなしになったのではないか。およそ、九条武子Click!宮崎白蓮Click!の人気どころではなかっただろう。ましてや、山口淑子(李香蘭)のようにときどき近所を散歩して文化村の住民に目撃されてたりすると、周囲の学生や青年、ヲジサンたちはいつもソワソワと散歩に出たがったにちがいない。w 親父も、有楽町界隈の話になると思いだしては話してくれたが、のちのコンサートでは入場待ちの観客が日劇のまわりを3周Click!も取り囲むような、超人気の女性たちだった。
 仲嶺康輝が林明善アトリエにいたころ、ふたりの人気は映画あるいは音楽(レコード)、ステージ、ラジオ番組などを通じてウナギ上りだった。いまの若い子たちには、まったくピンとこないかもしれないけれど、「結婚したい女性ランキング2017」(リクルート社調べ)で、1位の綾瀬はるかと2位の新垣結衣が同じ町内に住んで、ときどき近所を散歩している……というようなインパクトを想像してもらえば、少しはおわかりいただけるだろうか。しかし、残念ながら中井御霊社Click!の下、下落合4丁目2162番地の邸に住んでいたのは、渡辺はま子ではなく渡辺光子(月村光子)のほうだった。
 わたしは、親父が口ずさんでいた渡辺はま子の『蘇州夜曲』『支那の夜』や李香蘭のそれらは、ワンフレーズぐらいしか唄えないけれど、渡辺光子(月村光子)のヒット曲のひとつ『春の唄』Click!は、最後までつづけて唄える。いや、戦後に中学校や高校の音楽教科書にも採用されたので、わたしだけでなく多くの方が唄えるのではないだろうか?
 
 
 ♪ラララ赤い花束 車に積んで
 ♪春が来た来た 丘から町へ
 ♪すみれ買いましょ あの花売りの
 ♪かわい瞳に 春のゆめ
 月村光子は『春の唄』のほか、『旅は青空』『時雨ひととき』『街の流れ鳥』などの歌が次々とヒットし、一気に流行歌手の仲間入りをしている。彼女は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)で教師をするかたわら、さまざまな歌手名を使い分けながら歌謡曲を連続ヒットさせる、非常にめずらしい存在だった。芸名だけでも、渡辺光子(結婚後は月村光子)をはじめ川島信子、川瀬綾子、川辺綾子、川辺葭子、島津千代子、田辺光子、綾小路満子、フローラ瑠璃子、水浪澄子、水野喜代子、春海綾子、中村春枝……etc.と、本人も混乱したのではないかと思えるほど、たくさんの歌姫名を持っていた。戦後は、生まれ故郷の東京を離れ、関西の宝塚音楽学校で歌謡の教師をつとめている。
 さて、少し余談だけれど、渡辺光子(月村光子)よりもケタちがいに人気があった渡辺はま子は、仲嶺康輝が林明善アトリエに住んでいた1936年(昭和11)、『忘れちやいやヨ』Click!をレコーディングしている。早稲田大学の応援歌発表会に招かれて、同曲を唄ったところ大好評でヒットのきざしが見えはじめた矢先、突然、内務省から「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱、エロを満喫させる」とされて、上演禁止とレコードの販売禁止を命じられた。当然、それを機会に同省の特高警察Click!からも目をつけられただろう。だが、彼女は曲名を変え歌詞の一部を変更するだけで唄いつづけ、わずか3ヶ月足らずでレコード売上げ15万枚という大ヒットを記録している。



 当時、新宿を中心とした“都の西北”界隈では内務省および特高警察、さらには軍部からの思想・宗教弾圧Click!や、さまざまな生活・メディア・芸術表現への抑圧・統制・干渉Click!を眼前にして、次のような『東京行進曲』の替え歌がひそかに唄われていた。
 ♪昔恋しいワセダの自由
 ♪今の暴圧だれが知る
 ♪モガと踊つてビラ張つて更けて
 ♪明けりや処分の涙雨      (歌詞採集:今和次郎Click!)
 ちなみに、昭和初期の治安維持法ならぬ現在の「共謀罪」が施行されれば、いつなんどき国家や警察の恣意的な規定で、このような状況に陥ってもなんら不思議ではない危機的な状況を迎えていることに、決して鈍感でいてはならないだろう。
 さて、仲嶺康輝が渡辺光子(月村光子)邸の隣りに住んでいた前後、彼は周辺に拡がる風景を仲間とともに写生してまわり、いくつか「下落合風景」のタブローを仕上げている。今年(2017年)の春に開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録(沖縄県立博物館・美術館)に収録の、仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』から引用してみよう。
  
 今の中井附近は、家が建ちならび、昔の風景は見られないが当時は武蔵野の特色である欅林や麦畑、野菜畑、竹林等があり人家が所々にあったので、我々はよくこの附近の風景を描きに行った。油絵の風景も描くが何といっても絵の基礎はデッサンである事を忘れなかった。/小林萬吾先生の画塾である「同舟舎洋画研究所」に行くのは中央線の東中野駅まで20分位歩いて国電に乗り信濃町駅で下車して、これから又20分歩いて小林萬吾先生の研究所に通った。ここの研究所も川端画学校と同じく各県から来た美術浪人がいて、ここは約20人位いた。
  
 もし、彼らが描いた「下落合風景」が残っていれば、いまでは貴重な作品群となっただろう。広い下落合の東部や中部を描いた作品は比較的多いが、中井御霊社のある西端近くを描いた作品はかなり少ないからだ。下落合を歩きまわっていた佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも、下落合の西端を描いた作品は2~3点しか見つからない。



 このサイトでは、落合地域に住んだ芸術家(おもに画家や作家など)は数多く取り上げてきているけれど、音楽家にはこれまであまりスポットを当てずにスルーしてきた。多彩な資料をひっくり返していると歌手や演奏家、作曲家などのネームに出あうことがあるので、これからは気づいた時点で少しずつご紹介できればと考えている。

◆写真上:八ノ坂を下から見上げたところで、下落合4丁目20162番地の林明善アトリエや月村光子(渡辺光子)邸は、左手の路地を少し入ったところに建っていた。
◆写真中上上左は、1986年(昭和61)発行の「新生美術」5月号。上右は、渡辺光子(月村光子)のブロマイド。は、渡辺はま子()と李香蘭()のブロマイド。
◆写真中下は、渡辺光子(月村光子)が住んでいたあたりの現状。手前左の早大教授の寺尾元彦邸跡と、奥の林明善アトリエにはさまれるような位置に「月村」の表札が出ていた。月村光子のレコードレーベルで、『名曲玉手箱』()と『想ひ出の月影』()。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月村光子(渡辺光子)邸あたり。以前にも書いたが、「火保図」は寺尾元彦邸の形状を誤採取している。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる月村光子邸。は、画塾へ通った仲嶺康輝たちがコーヒー1杯で2時間以上ねばった新宿の喫茶店。左手が新宿駅舎なので、東口駅前の東京パンの2階にあった喫茶部から山手線方向を向いて撮影している。