1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』Click!には、東京35区の写真とともに東京の“うまいもん”Click!を出す食物屋(くいもんや=下町方言)が紹介されている。昭和初期に有名だった、代表的な店が紹介されているのだけれど、「牛すき焼き」Click!と「牛鍋」の区別がまったくついてないし、江戸後期の深川発祥である魚介類の練り物鍋=「おでん」の紹介が丸ごと欠落しているし、「柳光亭」Click!を「浅草」と書くなど、著者の感覚に江戸東京の匂いClick!がしないのだ。
 ちなみに、「柳光亭」は神田川に架かる浅草橋の近くにあるけれど、浅草橋はもともと千代田城外濠の浅草見附(御門)Click!跡の名称であって、地元では誰もその地域を「浅草」とは呼ばない。浅草から2kmも南へ下り、駒形や蔵前のさらに南に位置する同料亭を呼ぶとすれば、「柳橋の柳光亭」が正しいだろう。江戸期も昭和期も、また現代も「浅草」はもっとずっと北側の概念なのだ。ご近所でたとえれば、行政区画が高田町エリアにあった雑司ヶ谷鬼子母神Click!のことを、誰も「高田鬼子母神」と呼ばないのと同じだ。高田地域は、雑司ヶ谷の南西ととらえるのが昔からの地元の感覚であり“お約束”だろう。
 さて、筆名がないので誰が書いているのかは不明だが、東京の飲食店を紹介する「大東京の味覚」の一文を『大東京写真案内』から引用してみよう。
  
 夥しい「東京食物案内記」の記すところによると、先ず和食では山王台の星ヶ丘茶寮、浅草の柳光亭、築地の八百善。洋食では東洋軒に精養軒、帝国ホテルのグリルに中央亭にボントンか二葉、支那料理では日比谷の山水楼に虎の門の晩翠軒、建物の凄い目黒の雅叙園、朝鮮料理では赤坂山王下の名月、大阪料理の浜作に京都料理の栖鳳等々、挙って推奨されてゐる有名店ではあるが、洋食や支那、朝鮮、上方料理に江戸の風味を味ひ得る筈は勿論ないし、星ヶ丘茶寮や八百善や柳光亭のお料理では、余りに非大衆的で、物々しくて、億劫で、手軽には味ひ兼ねると云つた有様。
  
 紹介されている店は、いまは潰れてなくなってしまったものや、現在でもがんばって営業をつづけている店もある。わたしが子どものころまで残っていて、親に連れていってもらった店もあれば、わたしの生まれる前に閉店したところもある。著者が「余りに非大衆的」と書く、江戸期からの八百善や星ヶ丘茶寮は知らないが、柳橋の柳光亭へは親父と出かけたことがある。千代田小学校Click!の同級生で、のちに柳橋芸者になった女性の引退の宴席Click!へ招かれたとき、なぜか親父はわたしを連れていった。
 子どものうろ憶えなので、それほど正確ではないかもしれないが、著者が「余りに非大衆的」と書くほど、目黒雅叙園Click!のように浮世離れした悪趣味で野暮な雰囲気(もともと郊外温泉風呂の目黒雅叙園の場合は、あえて非日常的なそれを狙っている)でも、特別な風情でもなかった。当時もいまも(城)下町Click!にあるような、ふつうの料亭であり、刺身料理は驚くほど新鮮で美味だったような憶えがあるが、出される膳もくどく凝ったものではなかったように思う。著者は、一度も柳光亭を利用したことがないのではないか? もっとも、わたしが同料亭で飲食したのは戦後1960年代ことであり、戦前は店の風情(営業方針)が大きく異なっていた可能性もあるのだが……。




 つづけて、寿司の一文を同書から引用してみよう。
  
 寿しは屋台に限るとよく云はれる。その朝仕入れた材料をその日の中に使つてしまつて、しかもお客のすぐ眼の前で握る、お客は直ぐそれをつまんで口に投込む。このリレーがうまく行けば行く程通(つう)と呼ばれたもので、そのつまみ方に又コツがある。(中略) もっともこれは一瞬の事で、すし屋の親爺が握る、手にとる、口へ投込む、握る、手にとる、投込むと、調子よくゆかねばほんたうのすし通(つう)とは云はれない。馬鹿に面倒な話であるが、かく程迄になれなくとも、たとへ真中に包丁を入れて貰つて、割箸でつまんで醤油に浸して召上るとしても、ほんたうに生きのいゝ中とろを、程よく握つた庄内米の御飯にのつけて、所謂煮きりのつけ醤油に味をつけて食つた味は、凡そ東京の味覚の中でも随一であらう。
  
 なにを勘ちがいしているのか、別に寿司屋に入って「親爺」との間でせわしない「リレー」などしやしない。w 自分のペースで食べて、味わえばいいだけの話だ。講談や時代劇に登場する、昼間はなにかと忙しい日雇取(ひようとり)か、博徒や地廻りの輩じゃあるまいし、出入りの合い間にでも寿司を食っているのだろうか?
 1日じゅう外働きの職人に多い、冷えきった身体を温めるための「熱い風呂が好き!」Click!な習慣(木場を抱える深川あたりの冬場の習慣?)を、商人や武家を問わず「江戸っ子」(町名+“っ子”Click!はいうが、こんな茫洋としたくくり方はしない)全体のイメージに敷衍化したのと同様、あるいは江戸期から下町の名物だった、すき焼き料理(鴨肉+豆腐や春菊・長ネギなど江戸近郊野菜の具が多かった)について、明治以降の牛鍋をほんのチラ見しただけで、「東京のすき焼きは汁を先に張る」などというトンチンカンな言質と同じように、架空の「江戸東京人」のイメージをつくってやしないだろうか?
 自身の出身地の文化や習俗、趣味、嗜好、生活と比べ、どうしても合わないし理解できない江戸東京地方の事象は、ほんの一部の街の慣習や一部の人々の嗜好などを、ことさら戯画化して揶揄しながら「笑いもん」にし、江戸東京の全域へとスリカエて敷衍化する、明治以降にさんざんやられてきた、いつもの“手”ではなかろうか。「江戸っ子」は「宵越しの銭は持たない」などと、バカをいっちゃいけない。確かに気風(きっぷ)や気前はいいかもしれないが、そんなことをしていれば江戸後期にはロンドンと並ぶ世界最大の都市など、とても構築できやしないのは自明のことだろう。
 文中で盛んに「通(つう)」という言葉を多用しているけれど、著者の記述に反して(城)下町の地元ではマグロの赤身は食べるが、もちろん「中とろ」の脂身など口にしない。これは、わたしが子どものころまで残っていた頑固な習慣なので、1933年(昭和8)の当時ならなおさら厳格に、江戸東京の食文化や美意識として守られていたはずだ。現代では信じられないかもしれないが、マグロの脂身(いわゆるトロ)は棄てるかネコ用のエサだった。ネコのエサを食う「通」など、かつて見たことも聞いたこともないが、親父は頑なに口に入れなかったものの、わたしは近ごろ口にするので、おそらく「通」ではないのだろう。
 つづいて、蕎麦について書いている箇所を同書より引用してみよう。
  
 そばも亦東京に限る。「そばは信州」と云はれ、現に軽井沢駅プラツトホームの一名物でもあるが、あの熱気舌を焼く美味さは夏なほ寒き彼地の気候の然らしめる所の美味さであつて、ほんたうのうまさとは云へまい。「そばは信州」とは、信州がそばの産地である謂であり、その食料としてのうまさは東京に勝るところはまづないと云つてよからう。そのそばももりに限る。厳冬猶冷たいもりに限る。(中略) もつともこれは手打ちのそばのことで機械うちだとうまくゆかない。
  
 著者は、蕎麦Click!は「東京に限る」「東京に勝るところはまづない」などと書いているけれど、そんなことはない。w 江戸東京蕎麦の故郷である信州の蕎麦はもちろん、野趣あふれる香ばしい太めの南部(岩手)蕎麦、こちらでは味わえない独特な風味の山陰(特に出雲)蕎麦など、それぞれに独自の味わいや趣きがあって美味しい。著者の感覚は、妙なところで無理やり「東京人」を気どっていて、キザ(気障り)で嫌味で不愉快だ。おそらく、別の地方の味覚や食文化をもった出身者だろう。




 ちょっと余談だが、最近「手打ち蕎麦」と銘打つ蕎麦屋があちこちにでき、期待して入るのだけれどガッカリするケースが多い。「腰がある」蕎麦を「硬い」蕎麦と勘ちがいしているのだろうか、もぐもぐグチャグチャClick!と汚らしく何度も噛まなければ、のどを通らないような蕎麦を「手打ち蕎麦」だと思っているフシさえ見える。そのようなおかしな店は、(城)下町よりも乃手のほうが多いのが現状だろうか。
 そのほか、「う」Click!や天ぷら、鍋料理、鳥料理などなど、江戸東京の食べ物をずいぶん羅列していろいろ書いているのだけれど、前述のように「鍋」料理と「すき焼き」料理の区別さえつかない点や、深川の生簀料理で出た余り魚から派生した、江戸期由来の“おでん”がリストにさえないなど、どこかで地元の感覚との大きなズレを感じるのだ。
 キリがないので、最後に天ぷらについて同書から引用してみよう。
  
 天ぷらは何と云つてもエビに止めを差す。前の独逸大使ゾルフさんが推賞したのも、チヤツプリンが感嘆の余り大切なステツキを折つたのもこのエビの天ぷらであつたと云ふ。エビの最上は東京湾一帯の車エビ、それも三寸五分から四寸の大さのもので、目方は六匁乃至八匁のもの、(中略) 衣のとき工合、つけ方、火加減、油の煮え工合、それから揚げ方に至つては、これも亦曰く言ひ難しで、中々の修練が必要であることは勿論である。
  
 エビの天ぷらをものすごく称揚しているけれど、黒潮・親潮流れる太平洋へ口を開け、新鮮なありとあらゆる魚がふんだんに手に入る江戸前の天ぷらといえば、エビなどよりもまずキスやサヨリ、マハゼなどの活きのいい白身魚か、アナゴが挙げられるのではなかろうか。欧米人が好きだからといって、地元でも食の優先順位が高いとは限らない。




 天ぷら=エビがことさら“高級”で“重視”されるようになったのは、わたしの認識によれば戦後のことであって、著者が書く時代の江戸東京の地元では、“魚”ではないエビのプライオリティはもっと低かったはずだ。芝沖で採れた、細かな芝エビを混ぜたかき揚げ天なら、もう少し人気があって順位が上かもしれないが……。
 そのほか洋食屋やベーカリー、水菓子屋Click!(フルーツ店)、菓子屋(喫茶店)などの紹介や捉え方もなんとなくチグハグで違和感をおぼえる。少なくともわたしの感覚からすると、「大東京の味覚」の味覚は少なからず、おかしいとこだらけのように映るのだ。

◆写真上:いまのところ近所の「う」では、気に入っている高田馬場「愛川」Click!。店主の体調がすぐれないのか、ずいぶん前から予約を入れないとなかなか食べられない。
◆写真中上:以下、ざっかけない東京の“うまいもん”。からへ寿司、明治以降は牛肉も加わる日本橋の鴨すき焼き、牛すき焼きと混同される先に汁を張った牛鍋、江戸期からアオジシ(ニホンカモシカ)とともに大江戸ではおなじみのシシ鍋=“ももんじ”Click!
◆写真中下からへ小腹満たしに最適な蕎麦、深川生まれのおでん、同じく柳川、明治期に早稲田の学生街で生まれた和洋のカツ丼Click!。ちなみに、おでんの具に魚介類の微妙な風味のちがいを台なしにする、獣肉を入れるのは絶対に許せない。
◆写真下からサツマイモClick!以外ならたいがい好きな天ぷら、江戸期からの吉原通いに人気があった蹴とばし屋の桜鍋、同じく江戸下谷(上野)のケコロ(岡場所)通いから生まれたやき鳥Click!。おまけのデザートは、滝沢馬琴の超ヲタクぶりで知られる向島は長命寺仕様の、大江戸はオオシマザクラの葉をつかった元祖桜餅Click!