明治期に活版印刷された『新編武蔵風土記稿』Click!には、あちこちに破壊される前の古墳の様子を記録した記述が見える。特に、古墳のある地域に伝承された「怪談」や「ほんとにあった怖い話」の類も含めて、ところどころ紹介されているのが面白い。そこには、古墳(古塚)に近づき関わってしまったがために、「屍家」Click!の「呪い」や「祟り」にみまわれ、悲劇的な事件へと発展してした物語も記載されている。
 古墳が築かれた地域では、その場所が古来から禁忌的なエリアないしは異界として伝承・認識されており、そのエリアに近づいてはいけない、あるいは関わってはいけないというフォークロアが継承されている。それは、古墳が築造された1500~1700年ほど前から、死者の安息所を乱す禁止行為として、あるいは平安期以降には全国で横行した盗掘を防止するため、意図的に流布されつづけてきたものだろう。
 そのような「祟り」や「呪い」が起きた事件を、『新編武蔵風土記稿』(第137帳)の足立郡伊興村(現・足立区東伊興)の白旗塚古墳ケースから引用してみよう。
  
 白旗塚
 東の方にあり、此塚あるを以て、白旗耕地と字せり。塚の除地二十二歩百姓持なり。上代八幡太郎義家奥州征伐の時此所に旗をなびかし軍勝利ありしとて此名を伝へし由。元来社地にして祠もありしなれど、此塚に近寄らば咎ありとて村民畏れて近づかざるによりて、祠は廃絶に及べり。又塚上に古松ありしが、後年立枯て大風に吹倒され、根下より兵器其数多出たり。時に村民来り見て件の兵器の中より、未だ鉄性を失はざる太刀を持帰て家に蔵せしが、彼祟りにやありけん。家挙げて大病をなやめり。畏れて元の如く塚下へ埋め、しるしの松を植継し由。今塚上の両株是なりと云。今土人この松を二本松と号す。
  
 おそらく松の根元を掘り、古墳の玄室に侵入して出土した鉄剣・鉄刀あるいは副葬品を、そのまま持ち帰ったのだろう。家族がみな大病を患うという「祟り」に遭い、あわてて埋めもどした様子が記録されている。
 その昔、下落合に存在した古墳出土の鉄剣・鉄刀Click!や、副葬品の碧玉勾玉Click!を譲り受け保存しているわたしには「祟り」などなさそうなので、どうやらこの地域に透けて見える古代の大鍛冶(タタラ製鉄)や小鍛冶(刀剣鍛冶)の事蹟Click!と、この地方一帯に展開する大規模な古墳の痕跡Click!を追究しながら大切にしているのが、消滅してしまった古墳の被葬者の「霊」にもどうやら理解されているのか、次々と興味深い資料も集まり、どこか応援してくれているような気配さえ感じる。w
 このような、「いわく」のあるエリアを伝え聞いた後世の人々が、同地を「祓い」、死者の魂を浄化して聖域化するために、寺社を建設している経緯は想像に難くないだろう。大型の古墳であれば、寺社の建設には格好の地形を提供していたにちがいない。また、大型古墳を取り巻く小塚(陪墳)の場合には、神道ないしは仏教の祠(ほこら)を設置してまわった。敬虔な仏教者(僧侶)であってみれば、そのような異界伝承を耳にするたびに、さまざまな祠を設けて供養をしたのだろう。落合や戸塚、高田、大久保、柏木など旧・神田上水沿いの各地域に展開する、室町期の僧侶・昌蓮Click!が形成した「百八塚」Click!とは、そのような経緯の延長線上に位置する事蹟ではないかとみている。



 さて、幕末に外国船の来航に備え、御殿山の土で埋め立てられた「台場」(砲台)について調べているとき、面白い地図を入手した。明治初期に制作された地図類で、東海道線Click!が敷設された最初期の地図類だ。おそらく、1872年(明治5)からほどなく作成されたのではないかと思われる地図や地形図だ。そこには、巨大な塚と塚の間を貫通する東海道線が描きこまれている。
 東海道線をはさみ、西側のサークルは、いまでは山手線や住宅街となって現存しておらず不明だが、東側の塚状突起の一部は古くから出雲神のスサノオを奉った牛頭天王社、明治以降は品川神社(品川大明神)と呼ばれる社(やしろ)の境内だ。同社の境内は、明治初期には大きな瓢箪型(大正期以前の前方後円墳タイプ呼称)、すなわち鍵穴のような前方後円墳Click!のフォルムをしていたことがわかる。品川大明神は、この形状の前方部から後円部の手前にかけ建立されている。地形図から読みとれる瓢箪型突起の全長は、250mほどもある大きなフォルムの塚だ。
 しかも、品川大明神社の北側にも、東京湾を向いて同様の大きな塚状の突起(200m超)が存在していたことが、明治期に作成された別の地形図に記録されている。ちなみに、現存する品川神社の突起は、西側の後円部が削られて宅地開発がなされ、南側は板垣退助の墓所を含む広めな墓域になっている。古墳域がその禁忌的な伝承から、そのまま墓地になってしまった事例はほかにも多数あるので、この点にも深く留意したい。
 品川区の古墳について記した資料に、品川歴史館が発刊している「紀要」類がある。もともと品川区(旧・荏原区と品川区)は、東京湾に面した地域のせいか明治期から工場の誘致など殖産興業に熱心であり、江戸期の東海道は最初の宿場である品川宿としての事蹟は頻繁に紹介されてきたものの、それ以前の、特に古代史の研究については、ほとんど熱心に取り組まれてはこなかったように見える。その象徴として、2005年(平成17)に品川歴史館で開催された特別展「東京の古墳―品川にも古墳があった―」の「品川にも」というタイトルに、期せずして象徴的に表れている。
 実は、目黒駅の東側(現・品川区上大崎)にあるふたつの巨大な古墳状のフォルムClick!と同様に、あるいは品川区の北側位置する芝増上寺境内の芝丸山古墳Click!(最新調査では全長120mで陪墳14~15基と想定)と同様に、海に向かう斜面には大小の古墳群が存在していたが、それに気づかぬまま、あるいは戦前の皇国史観Click!の中で「関東に大型古墳などあってはならない」とされて、なんの調査もなされずに破壊され、工場街や住宅街にされつづけてきた可能性を否定できない。
 敗戦により非科学的な皇国史観の呪縛がとけた当初から、品川区に展開する古墳群について注目していた人物がいた。こちらでは、美術のテーマも含めて何度も登場している、目白の「徳川さんち」Click!でお馴染みの徳川義宣Click!だ。徳川義宣は1946年(昭和21)から、学習院の考古学チームClick!を引き連れて、品川区の大井林町古墳(2基)の発掘調査におもむいている。すでに墳丘はあらかた宅地開発や墓地設置のため破壊されていたが、全長50m前後の前方後円墳(1号墳は円墳の可能性も残る)が双子のように並んで築造されていた様子を記録している。



 発掘の様子を、2006年(平成18)発行の『品川歴史館紀要』から引用してみよう。
  
 一号墳は、徳川氏の報告によると、昭和二一年(一九四六)の正月より昭和二八年(一九五三)春まで大井林町二四八番地(中略)の伊達家邸内の洋館に居住していた時に、その邸内の庭から縄文時代後期の土器片や相当数の埴輪片を採集したと報告されている。そして徳川氏はその報告の中で「表面採集のみで周濠調査もしてゐないので、存在したはずの墳丘の形式も、大きさも、基数も不明である。八百坪ほどの庭の全面から採集されたと云っても、台地先端部から二〇~六〇メートルの範囲が分布密度は高かったと記憶してゐるので、それほど巨大な墳丘が存在したとは考へられず、前方後円墳でも円墳でも、最長五〇メートル内外ではなかったかと推測される。」とし、「今回これを『大井林町一号墳』と呼ぶこととした。」と報告している。
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 伊達家の庭は、まるで大正期にみられた落合地域の畑地のような状況だったのがわかる。畑で土を掘り返すと、土器や埴輪の破片がたくさん出てくるので、梳きこんでみんな土中に埋めもどしたという証言が、落合地域のあちこちに残っている。
 また、大井林町2号墳は当時現存していた墳丘が41mで、大井公園に隣接した土佐藩山内家の墓所内にあった。やはり古くからの禁忌的伝承でもあったものか、大きな古墳域が近世でも死者を葬る墓地にされていたのがわかる。墓地開発をするために、墳丘がどれだけ崩されたのかは不明だが、41mの残滓から想定するともっと大きな古墳だったのではないかと推定できる。2号墳からは、古墳期の埴輪や土師器片が出土している。
 このほかにも、品川区では1960年代になって次々と古墳が発見されている。青物横丁駅の西側にある仙台坂では、直径20m前後の円墳群が見つかっているが、これが新宿角筈古墳(仮)Click!の女子学院キャンパスにあった陪墳Click!のひとつや、成子天神山古墳(仮)の陪墳(成子富士)Click!のように、大きな主墳に寄り添う一連の陪墳群だったかどうかは、すでに周辺の環境が宅地開発で地形まで改造されてしまったために不明だ。
 さて、品川区の古代の様子を、これらの発掘ケーススタディを踏まえた上で眺めてみると、明治期に記録された先の牛頭天王社(品川大明神社)の東西に連なる丘と、東海道線をはさみそれに寄り添うように採取された西側の大きなサークル、そして同社のすぐ北側に海へ向かって平行に並ぶように採取された、東西に延びる巨大な双子突起が、がぜん気になってくる。品川大明神は、平安末期に源頼朝Click!が正式に建立して以来(出雲のスサノオ伝承から、実は建立はもっと古い時代だと思うのだが)、墳丘(前方部と後円部の境にある羨門位置)に社殿が建設されているので一度も発掘調査は行われていないのだろう。同社に並ぶように位置する、東海道線西側の巨大なサークルや、北側の墳丘状の大きな突起もまた、なんの調査も行われずに明治期から破壊され開発されつづけてきた。



 先日、旧・東海道の品川宿から御殿山下台場、そして品川大明神社を歩いてきた。境内への階段を上り、長い参道を歩くと、ようやく拝殿・本殿にたどり着く地形は、まさに前方後円墳をベースClick!に境内を造成した待乳山古墳Click!や、大手町(旧・エト゜岬=江戸柴崎村)の将門塚古墳Click!などの境内に見られる地勢とそっくりだ。ただし、品川大明神社のケースは、西側の開発されてしまったエリア(後円部)を含めれば250mと、その規模がかなり大きい。目黒駅東側の同じく品川区上大崎に痕跡が残る、森ヶ崎古墳(仮)に次ぐ規模だろう。境内に房州石があったかどうかは未確認だが、「品川富士」Click!も築かれている典型的な古墳臭がする地点なので、また機会があれば散歩してみたい。

◆写真上:西側の第一京浜から見上げた、品川大明神社の階段(きざはし)と境内。
◆写真中上は、1872年(明治5)ごろに作成された地図。東海道線が、ふたつの塚状突起の間を貫通して敷設されている様子がわかる。は、1881年(明治14)に作成された地形図。すでに品川社のある丘が、南北の開発で大きく削られ変形しているのが判然としている。また同社の北側にも、同様に海へ向かって張り出す丘が採取されている。は、1947年(昭和22)の空中写真に見る品川社。すでに西側の後円部とみられる丘は消滅し、同社の南側は削られて墓域になっている。
◆写真中下は、1880年代に作成されたとみられる地形図。品川社のある前方部とみられる丘と、西側の丘が分離し開発されはじめているのがわかる。また、同社北側の丘も開発されはじめているようだ。は、品川社の長い参道と広い境内。
◆写真下は、カーブを描いた前方部の北側斜面。は、境内に築かれた「品川富士」。は、同社南側にある板垣退助の墓。「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」の人なので、“西側”資本主義体制のきわめて重要な政治・社会思想のひとつ自由主義とは無縁な、よりによって国連から警告を受けるなど恥っつぁらしで「国辱」もんの、民主主義の根幹を揺るがす現代版治安維持法=「共謀罪」が早く消滅するようお参りする。わたしが生きている間に、いまさら明治期の自由民権運動家の墓に手を合わせたくなるような時代が招来しようとは実に情けない、思ってもみなかったことだ。