少し前、すぐに「斬ってやる!」と刃傷(にんじょう)沙汰になりそうだった高田町議会Click!の様子をご紹介したが、町長に高田警察署から3名の護衛はついたものの、特に何ごともなく時代はすぎた。ところが、その南に位置する戸塚町では、町議会が脅迫や殴り合いのケンカ場と化し、何度となく流血騒ぎを起こしている。
 そもそも3代目の戸塚町長だった早野教暢が、大量の公金を持ったままどこかへドロンし「行方不明」になったころから、戸塚町議会はもう統制がきかないほどメチャクチャになった。公金横領・着服はやまず、次には収入役がひそかに公金を「費消」し、税金の二重取りをして埋め合わせていたことも発覚するにおよび、「たたっ殺してやる!」の町議会はもはや収拾がつかなくなってしまったのだ。まるで喜劇かマンガのような状況だけれど、大正末に戸塚町議会で実際に起きていた事実だ。
 1931年(昭和6)に出版された大野木喜太郎・編『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、そのときの様子が議員の「声明書」(告発書)として、11ページにわたり克明に記録されている。編者の大野木喜太郎も、よほど腹にすえかねた事件だったのだろう。まず、『戸塚町誌』から、歴代町長の一部を引用してみよう。もうこれだけで、当時の町議会がいかに異常事態だったかが透けて見えるのだ。
 町 長  大正六年十月二十四日 同十二年二月二十四日 早野教暢
 臨時代理 大正十二年三月七日 同十二年三月二十日 太田資行
 臨時代理 大正十二年三月二十八日 同七月二十五日 久保田義朗
 町 長  大正十二年七月二十五日 同十四年二月六日 鮫島雄介
 事務管掌 大正十四年二月十六日 同三月十六日 村木経勁
 町 長  大正十四年四月十一日 同九月八日 大塚義太郎
 事務管掌 大正十四年九月八日 同九月十九日 江成濱次
 臨時代理 大正十四年九月十九日 同十月十二日 有田章次郎
 町 長  大正十四年十月十二日 昭和四年十一月十一日 横山襄
 歴代町長の紹介のはずなのに、やたら「臨時代理」や「事務管掌」が多いのに気づかれるだろう。このふたつの役職が記されている間、町長はといえば公金をドロボーして行方をくらますか、殴られて「入院」しているか、もう脅されるのがイヤになって町議会に出席せず、自宅で引きこもりになってしまったかのいずれかだと思われる。しかも、「臨時代理」や「事務管掌」の就任期間も、非常に短期間の人物がいるのにお気づきだろう。おそらく、脅されて無理やり辞任させられたか、殴られてイヤになった人たちだ。
 まず、1923年(大正12)2月に町長だった早野教暢が公金10,750円を持ったまま、どこかへ逃亡し行方不明になったところから、戸塚町の悲劇(喜劇?)の幕が切って落とされる。とても公式な町誌とは思えない内容だが、『戸塚町誌』から引用してみよう。
  
 偶々町長早野教暢氏が其の在職中公金一万七百五十円を横領費消し突如行衛を晦(くら)ましたる、綱紀の混乱に責を負ふて、同氏を除き連結総辞職となりたるら因り、大正十二年五月之が補欠選挙を行ひ、左の如く当選した、早野氏は残留である。
  

 
 早野町長は、議会へ辞任とどけを提出しないままどこかへ土地を売った(トンヅラした)ので、辞めさせることができずに戸塚町議会へ議員として残留扱いとなっている。ここからしてすでにおかしいが、刑事事件にすれば町長不適格で議会がクビにできたはずだ。戸塚町では、町長のカネの持ち逃げが公になれば格好の新聞ダネとなり、世間のいい笑いもんになるのを怖れて、被害届けとともに刑事告発をしなかった可能性がある。
 ところが、この処分の甘さが尾を引いて、公金の横領・着服はやまなかった。今度は税金の収入役が、戸塚町の公金を大量に横領・着服してしまい、税金の二重取りが行われていたことが発覚した。この「税金二重徴取」事件で、戸塚町議会は前代未聞の事態に陥った。同町誌に収録された、まともな議員たちによる「声明文」から引用してみよう。
  
 税金の二重取事件 更に税金の事にしても、収入役の助手が公金を費消して居つた。従つて誠に遺憾ながら、町民からは税金の二重取りが行はれたのであります。之れは前々理事者(鮫島雄介町長)時代からの継続的な犯罪であつたと云ふので、現理事者(横山襄町長)は熾(さか)んに前理事者(大塚義太郎町長)の失態を口汚く罵り、之れを発見した自己の功績を吹聴するけれども、焉(いずくん)ぞ知らん、現理事者(横山襄町長)が着任後尚依然として、税金の二重取りが行はれて居たのであります。そして此の事実に対しては一向責任を感じて居らないのであります。(カッコ内引用者註)
  
 横山町長は、自身の就任中に部下の横領・着服が発覚しているにもかかわらず、管理不行き届きを反省するどころか、まるでよその地域の他人事のような態度だったらしい。
 このほか、一部の議員が気に入らない助役が就任しそうになったとき、推薦した議員をボコボコに殴り倒した「助役問題で当局の暴行」事件、戸塚町が活用しようとしている金融機関をめぐり、議員が傍聴席へ踊りこんで傍聴人を殴って流血騒ぎとなった「町金庫問題」事件など、戸塚町議会はまるでK-1のマット上のようなありさまだった。さすが、「血闘高田馬場」の地元だなどと、冗談をいっている場合ではない。
 しかも、関東大震災Click!で町議会場が使えなくなったものか、臨時の町議会場にされていたのが戸塚第一小学校の教室だったので、町議会のぶざまな狂態は児童たちに常に目撃されていたのではないかとみられる。そのことも、まともな議員たちが結集して「声明文」(告発書)を書かせる一因となったのだろう。



 「町誌」としては前代未聞の記述なので、少し長いがその一部を引用してみよう。
  
 而して町長は自己の有する機能に拠つて、正式に発案推薦した人(助役)であるから、此の人に承認を与へやうとした時に、協議会に出席しなかつた人や、出席しても自ら助役の希望を持つて居た人々から、俄然反対が起り、単に言論で反対を為すならば兎も角、一部の人々は腕力に訴へ、議場を喧騒に陥らしめて議事の進行を妨害し、甚だしきは参与席にあつた某町吏員が洋服の上衣を脱ぎ棄てゝ腕を振るつて町会議員に暴言を吐きつゝ議員席に迫つても議長席にあつた町長は、何等何れを制止せざるのみか、却つて斯かる乱暴を煽動するが如き言動を為して……(以下略)
 何時でも町会に多少問題があると、町民以外の傍聴者の顔を見るのであるが、殊に十四日(1927年2月14日)には是等の人々が数名控えて居り、議場内と策応して、旺んに暴言を吐いて居た。其の時某町公民が傍聴席に現はれると、議席にあつた一議員は突如議席を離れて、傍聴席に闖入し、其の公民を殴打して議席に帰り、着席するや「今某々をブンなぐつて来た、アンナ奴は叩き殺して仕舞へ 我々に反対する奴は誰れでも叩き付けてやる」と揚言する始末であります。議長席にある町長は斯かる議員の暴行、暴言を制止せんとせず、何等の注意さへ与へないのは、実に奇怪千万と云はねばなりません。(カッコ内引用者註)
  
 もう戸塚町議会は、ほとんどヤクザか暴力団のシマ争いと変わらないようなありさまだった。1927年(昭和2)当時の町長は横山襄であり、昭和に入ってさえ大正時代から尾を引く暴力沙汰が、町議会場として使っていた児童たちの目がある戸塚第一小学校の教室でそのままつづいていた。『戸塚町誌』は、これら町内の「面汚し」たちや「恥っつぁらし」な出来事について、1931年(昭和6)に公然と記述しているので、そのころにはようやく批判が高まり異常事態が終焉して、まともな町議会へともどりつつあったのだろう。



 戸塚町の近隣である落合町や長崎町では、このような大乱闘騒ぎや暴力沙汰を聞かないのは、決して品がよく常識人たちが多かったからではなく、高田町や戸塚町よりも市街化が遅れており、昔ながらの農村に多く見られる大地主など地域ボスの“しばり”がいまだ強く働いていて、農村共同体の中では鋭く対立する強い異論や反対意見が出にくかったのではないか?……と想像している。

◆写真上:早稲田通りの往来を見つめるネコの、右手が高田馬場駅前にある戸塚第二小学校で、戸塚町役場はネコの左手に見える街並みのすぐつづきにあった。
◆写真中上は、1931年(昭和6)ごろに撮影された戸塚町役場。下左は、同誌の歴代町長として紹介されている公金を費消して行方をくらました早野教暢町長で、ほとんど手配写真と化している。下右は、部下の収入役が町民に二重課税していたのに、まるで他人事のように前町長を「口汚く罵り」つづけた横山襄町長。
◆写真中下は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる町議会が開かれていた戸塚第一小学校と戸塚町役場の位置関係。は、1931年(昭和6)の明治通り沿い荒井山(現・西早稲田2丁目)あたり。は、1931年(昭和6)撮影の戸塚第一小学校。
◆写真下は、濱田煕Click!が描いた1935年(昭和10)ごろの戸塚第一小学校界隈。同小は、早稲田通り沿いから甘泉園寄りに移設されている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸塚一小。は、谷間から戸塚一小の丘上へと抜ける古いバッケClick!階段。