物書きのせいか、窪川稲子(佐多稲子)Click!は早稲田通り沿いにあった文房具店へ頻繁に出かけている。筆記用具や原稿用紙を購入していたのは、戸塚3丁目347番地に開店していた文房具店「椿堂」だ。藤川栄子Click!は洋画家だが、用紙やスケッチブック、名刺づくりなどで同文具店をよく利用していたらしい。
 ふたりは、昭和初期から椿堂文房具店をよく利用しており、1935年(昭和10)前後には近所の噂話として、よく話題にのぼっていたとみられる。佐多稲子Click!も、頻繁に遊びにきていた藤川栄子を通じて椿堂の情報を仕入れており、かなり詳細な家庭事情をつかんでいたようだ。その様子を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 レコードを聴かせる喫茶店街を曲がつてそこから戸山ヶ原に沿つた邸町へ出ると、この辺りにも桜の花の美しいところがあつたが、私の散歩は町の中のゆきかへりですんでしまふ。喫茶店街へ曲る辺りも、高田馬場駅から登り坂になつた大通りがまだゆるやかに高くなつてゐるが、北側は道そのものが崖になつて、崖際にやうやく店だけ出して危げに商売してゐる屋台のやうなすし屋があつたり、引越し引受けの小さな運送店があつたりした。しかしさういふ薄いやうな建物にも、人が住んでゐた。かういふ崖際の一側建の家で、それは間口も広く二階の窓もしつかりした店だつたが、文房具屋があつた。名刺の印刷などもする小さな機械を片隅においたり、飾窓には季節には扇子をかざつたり、並べてある紙や筆もしつかりしてゐて、店は明るかつた。主人は背は低いけれど肩はがつしりしてゐて、半白の頭をいつも短く刈つて、眼鏡をかけてゐた。無口などつちかといへば愛想のない方だが、それは横柄といふのではなく、むしろ商売人くささがなくて気持のいいものにおもへた。細君は四十を出たくらゐの背のすらりとした、かざりけはないけれど親身な愛想のよさを客にみせ、この夫婦のとり合せは、客に心よい感じを与へてゐた。
  


 さて、佐多稲子が描く昭和初期の早稲田通りに開店していた、上記のいくつかの商店を特定することができる。でも、その店舗の多くは二度にわたる山手空襲Click!で全焼し、戦後は再開した店もあったかもしれないが、残念ながら現存していない。
 まず、山手線西側の戸山ヶ原Click!へと出られる「喫茶店街」とは、早稲田通りが小滝橋へ向けて途中で鋭角にクラックClick!していた、旧道沿いにあたる裏の道筋のことだ。今川焼きなどの甘味処と、郵便ポストの間の道を入ると喫茶店が軒を並べていて、早稲田の学生たちが出入りしていた。表通りである早稲田通り沿いには、戸塚3丁目346番地(現・高田馬場4丁目)の和菓子屋「青柳」が経営する喫茶店も開店していた。
 旧・早稲田通りがカギの字に曲がっていたのは、北側の神田川へ向けて落ちる崖を避けるためだったのだが、通りの直線化工事で崖地ギリギリのところを通りが走るようになったため、通りの北側に店舗の敷地を確保するのがむずかしくなった。したがって、戦前までは崖地が口を開けた状態のままで、かろうじて小規模な「屋台のやうなすし屋」が開店していた。この寿司屋があったのは戸塚3丁目360番地で、店名があったはずだが記録されていない。寿司屋の西隣りには、小さな稲荷の祠が奉られていた。
 さて、佐多稲子や藤川栄子が通った文房具店は、その崖地がつづく西側の戸塚3丁目347番地に開店していた「椿堂」だ。この文具店を経営していた夫妻は、近所でも評判のよいおしどり夫婦だったのだが、ある日、ウワサを仕入れてきたおしゃべり好きな藤川栄子Click!が、窪川稲子(佐多稲子)のもとにやってきて、「若い男と駆け落ちしたんですって!」と告げた。つづけて、『私の東京地図』から引用してみよう。


 
  
 子どもがなくて、店の奥のすぐ崖になつた一間に小鳥などを飼つてゐた。吉之助(窪川鶴次郎)のところへ来る若い評論家など、この夫婦をほめて、そのうちでも細君の方を、いい細君ぶりだといふ意味で自分の恋人に話したりしたことがある。この店で買物をしつけて、一、二年も経つたであらうか。いつとなく細君の姿が見えなくなつた。夫婦きりの店なので、主人が出かけるときは、自然店の戸が閉まることになり、何かされは気にかかつた。すると、この店へゆきつけの画描きの友達(藤川栄子)が私に話してくれて、あれは、若い男が出来て逃げたのだ、といふことであつた。/「代りの女房を探すんだつて、誰かないかつて、私にまで頼むのよ。そんなやうな人ないかしらね。」/文房具店の主人の、いままでも客の顔を正面から見ないやうな表情が、その後は一層暗くなつたやうで、いつも半分表戸を閉めた店の様子もその前を通るたびに主人の気持までつい押しはかつてしまふものになつた。(カッコ内引用者註)
  
 世話好きだった藤川栄子は、新しい細君まで探してあげようとしていたらしい。
 ある日、佐多稲子が椿堂文具店の前を通りかかると、黄色いカーテンが引かれた表戸のガラスに、「吉事休業」という貼り紙を見つけた。主人が再婚して、新しい妻を迎えるために休業したものだった。「吉事」と書くところに、孤独だった文具店主人の喜びと、新たな出発への思いがこめられているような感覚を抱いて、佐多稲子はそれを眺めている。
 今度の新しい細君は大柄で、少し年配の顔が呑気そうに見える肥った女性だったが、主人の顔からは陰気そうな陰が消えなかった。街中では、「姿を消した前の細君が赤ん坊を負つてゐるのを見た」というようなウワサが流れ、相変わらず周囲が“女房に逃げられた”ことを忘れてくれなかったからかもしれない。だが、新しい細君も戦争が激しくなるころに、脳溢血であっけなく死んだ。


 佐多稲子の文章が非常に印象的なのは、大きな時代背景や逼迫した社会状況を、近所で起きる市井の何気ない出来事や事件へ、温かい目を向けながら無理なく自然に透過させて、実にうまく表現するところだろうか。ようやく再婚したばかりの妻の死と、空襲で店を焼かれて打ちのめされた文房具店「椿堂」の主人が、戦後に改めて顔を上げ、前を見つめて再出発していることを祈る。

◆写真上:昭和初期には道路からすぐに北へ落ちる崖だった、早稲田通りの崖地跡。
◆写真中上は、崖地に開店していた1938年(昭和13)ごろの小さな寿司屋。は、崖地の西寄りに開店して佐多稲子や藤川栄子が通っていた文房具店「椿堂」。いずれも、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕の記憶画より。
◆写真中下は、寿司屋跡の現状。は、文房具店「椿堂」跡の現状。下左は、1950年(昭和25)ごろに撮影された佐多稲子。下右は、佐多稲子『私の東京地図』が収録された1955年(昭和30)出版の筑摩書房版『現代日本文学全集』第39巻。
◆写真下は、濱田煕が描く1938年(昭和13)ごろの早稲田通りにあった崖地界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる崖地界隈。