清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!より、2枚の写真をお送りいただいた。そのうちの1枚を拝見して、わたしは松下春雄Click!のお嬢様である山本彩子・山本和男ご夫妻Click!からお送りいただいた、第一文化村Click!の前谷戸の弁天池Click!近くに立つ、松下春雄と彩子様が写る記念写真Click!や、竣工なった落合第一小学校Click!を旧・箱根土地本社の「不動園」Click!側からとらえた風景写真Click!のとき以来、思わずイスから立ち上がってしまった。そこには、第一文化村の北側に接する二間道路から、増改築がほどこされた「中央生命保険俱楽部」Click!(旧・箱根土地本社ビル)を撮影した、いまでは願っても見ることができない風景がとらえられていたからだ。
 撮影された時期は、周囲の樹木の成長のしかたや、右手に長谷川邸のあとに建てられたとみられる穂積邸の屋根が見えている点、そしてなによりも旧・箱根土地本社ビルから中央生命保険俱楽部に用途が変わって増改築が進み、同ビルが改正道路(山手通り)Click!工事で1943年(昭和18)ごろに解体された最終形の姿をしていることから、1935年(昭和10)近くではないかと思われる。この中央生命保険俱楽部の、おそらく二度以上にわたる増改築については、改めて後述したいと思う。
 手前に写るふたりの子どもたちのうち、左側の女の子は青山敏子様によれば、姉にあたる清水多嘉示の長女・睦世様のように見えるという。また、右側の子は長男の萬弘様のようでもあるし、そうでなければ訪問した下落合の知人宅の子どもではないかとのことだ。1929年(昭和4)生まれの長女・睦世様が、おそらく4~5歳ぐらいになったころの姿とみられるので、1933~1934年(昭和8~9)ごろに撮影されたのではないかとみられる。このことから、1928年(昭和3)に清水多嘉示とりん夫人が結婚したあと、4~5年がすぎたころに親子で自宅から、下落合へ散歩(ハイキング?)か知人宅へ遊びにきて撮影されたものではないだろうか。
 では、画面にとらえられた被写体について、ひとつずつ詳しく見ていこう。まず、中央に写る大きな西洋館(というかビル)が、1925年(大正14)まで箱根土地本社だったレンガ造りの建物で、そのあと中央生命保険(のち昭和生命保険に吸収)が買収し、クラブハウスとして活用していた中央生命保険俱楽部だ。親睦クラブないしはゲストハウスとして使われたせいか、宿泊部屋の増築や大きめな浴場(風呂場)の設置、暖房器具の追加など設備面でも大きな増改築が行われているとみられ、初期の箱根土地本社ビルとはかなり外観も変わっている。
 中央生命保険倶楽部から、不動園沿いに第一文化村の中枢部へと南へやや下り気味の三間道路をはさみ、右手に見えている西洋館の屋根は、第一文化村の穂積邸だ。もともと同敷地は、前谷戸の湧水源つづきの谷間だったが、1924年(大正13)に埋め立てClick!られ、第一文化村の追加分譲地として販売されている。
 同敷地の販売時、当初は長谷川邸が建てられていたとみられるが、昭和初期の金融恐慌やがて大恐慌が起きると、長谷川邸は解体されたのか(そもそも土地だけ取得して建てる余裕がなくなってしまったのか)居住期間は短く、改めて穂積邸か建設されたとみられる。昭和初期の大恐慌をはさみ、下落合に建っていた大きめな邸宅の住民に、少なからず入れ替わりがあるのは、これまで何度も記事に書いてきたとおりだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、すでに長谷川邸ではなく穂積邸へと変わっている。
 この穂積邸敷地の北東角地には、松下春雄Click!が1925年(大正14)に描いた『下落合文化村入口』Click!に記録されているように、箱根土地が設置したとみられる第一文化村の町内掲示板、ないしは目白文化村案内板がポツンと建っていた。



 そして、穂積邸の手前に接する二間道路に面した縁石脇、すなわち道路の右側には、電燈線・電力線Click!や上下水道を収容し、大谷石で覆われた共同溝らしい側溝を確認することができる。つまり、同写真の風景には電燈線・電力線をわたした電柱が、1本も存在していないことに留意していただきたい。画面の中央左寄りにとらえられた、背の低い白木のままの柱は通信線柱(電話線)だ。
 電燈線・電力線の柱が、腐食止めのクレオソートClick!を塗られた黒っぽく背の高い電柱なのに対し、通信線をわたした柱は白木のまま建てられ、電力の電柱と見分けが容易なように差別化されている。また、電話の加入者が急増する状況で、おそらく工事の手間を考えたのだろう、電燈・電力柱に比べて柱の高さを低くしている。このあたりの描写は、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも明確に描き分けられている。
 穂積邸の左手には、箱根土地本社の時代に敷地内へ植えられていたアカマツが、かなり大きく成長している様子がとらえられている。松下春雄の『下落合文化村入口』では、庭師の手によってまるで盆栽のように、ていねいに刈りこまれた様子をしていたけれど、中央生命保険俱楽部になってからは、そのような手入れをやめて伸び放題になってしまった様子がうかがえる。中央生命保険は、1933年(昭和8)に昭和生命保険へ吸収・解散しているので、このころには庭の手入れどころではなかっただろう。ひょっとすると、すでに同倶楽部は廃止になり、建物は無人の廃墟と化していたかもしれない。
 箱根土地本社の、正面エントランスの脇に植えられた針葉樹らしい木々も、同じ樹形を保ちながら幹がしなうほど大きくなっているのが見え、継続的な手入れがなされているようには見えない。また、画面左手に見えている木々も、松下春雄が同作の画面に描いた生垣風の風情から、並木か屋敷林のように大きく成長しているのがわかる。
 そして、左手に写る冬枯れの並木を透かして、目白文化村と落合府営住宅Click!(第二府営住宅)の境界に設置されていた、文化村派出所(交番)の小さな屋根を確認できる。松下春雄の同作によれば、文化村交番は赤い屋根をしており巡査がひとり常駐していた。同交番は空襲で焼失したあと、戦後しばらくして廃止されている。少し前にご紹介した、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)は、この交番の手前(西側)に隣接してイーゼルをすえ、第1次増改築後?(後述)の中央生命保険俱楽部を描いているものとみられる。ひょっとすると、制作の合い間には常駐する巡査が、キャンバスをのぞきにきたかもしれない。



 さて、ふたりの子どもたちが立っている地点を厳密に規定すると、第一文化村北辺の二間道路上ではなく、第二府営住宅側へ少し入りこんだ、下落合1388番地の「竹俣内科医院」の入口にあたる。同位置から、清水多嘉示は南東を向いてカメラのシャッターを切っている。現在の風景でいうと、マンション「セザール中落合」の敷地内へ少し入った位置ということになる。
 画面右手が南であり、冬季ないしは早春にみられる陽光の角度を考えると、清水親子が持参したお弁当を食べたか、どこか近くで昼食をとったあと、目白文化村を散策しながら午後1時から2時ぐらいまでの間に撮影されたものではなかろうか。清水多嘉示も、カメラを手にした松下春雄とまったく同様に、かつてイーゼルを立てて制作した描画場所を、数年後に撮影しながら散策しているのかもしれない。
 ちなみに、この付近で家から持参したお弁当を食べるには、写っている二間道路をもう少し北西(カメラをかまえた清水多嘉示の背後)へと歩き、前谷戸の湧水源にある弁天池の畔か、あるいは中央生命保険俱楽部の前庭、すなわち箱根土地本社時代からほぼそのままのかたちで残っていたとみられる、不動園の池の端が最適だろう。
 清水多嘉示は、同位置から背後をちょっと振り向いて、二間道路がつづく北西側も撮影してやしないだろうか? 竹俣内科医院(下落合1388番地)の撮影位置から、同じ二間道路をわずか40m余ほど歩いた路上(下落合1385番地あたり)は、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いた『下落合風景』Click!の描画ポイントのひとつだからだ。
 また、その先の前谷戸へと下りる階段(ただの斜面だったかもしれない)の下、弁天池の近くでは1928年(昭和3)の当時、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄が、長女・彩子様を抱っこしている姿が撮影されている。おそらく淑子夫人Click!がシャッターを押したのだろう、前谷戸湧水源の貴重な撮影ポイントでもあるからだ。



 清水多嘉示が、下落合を頻繁に訪れていたとすれば、その作品ばかりでなくアルバムに収められた写真類にも、「下落合風景」がとらえられている可能性がきわめて高い。今回は、1935年(昭和10)より少し前の第一文化村の光景だと思われるが、ほかにどのような風景がとらえられているのか、わたしとしては興味がつきない。松下春雄と同様、かつて作品を描いた場所をめぐり、シャッターを切っているのかもしれない。では、つづいて1922年(大正11)の箱根土地本社の時代から、1925年(大正14)にはじまる中央生命保険俱楽部の時代まで、この建物がどのような増改築の経緯をたどったのかを考察してみよう。
                                  <つづく>

◆写真上:清水多嘉示アルバムに収められた、第一文化村の中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられる写真で、1933~1934年(昭和8~9)ごろの撮影と思われる。
◆写真中上は、同写真の拡大と被写体の特定。は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』(部分)。は、1922年(大正11)撮影の箱根土地本社。
◆写真中下は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」(部分)。南北逆の地割図で、いまだ「長谷川」名になっている。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。「長谷川」名が採取されておらず、いまだ邸は建設前と思われる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所。は、帰国後に制作された可能性の高い清水多嘉示『風景(仮)』(OP287)。は、清水多嘉示の撮影ポイントからわずか40mほど離れた二間道路上で、1926年(大正15)の秋以降に制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』の1作。
掲載されている清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。