今日で、2004年11月24日に拙ブログをスタートしてから、ちょうど14年目に入った。先日、とある神職の方から、多種多様な物語が集まってくるのは「語ってもらいたがっている人々が、生者や死者を問わず、それだけたくさんいるからだ」……といわれた。このサイトへアクセスしているのは、生きている人間だけとは限らないのかもしれない。w あと少しで、のべ1,500万人の訪問者を超えそうだ。多彩なテーマが、各時代を通じて錯綜するようになったけれど、落合地域あるいは江戸東京地方について興味のある方は、引きつづきお付き合いいただければ幸いだ。
  
 さて、こちらでも何度かご紹介している、伊藤徹子様Click!主宰による柳町クラブ『牛込柳町界隈』Click!だが、この秋、伊藤様より本をお送りいただいた。2010年の創刊号から2017年夏のVol.28まで、四季折りおりに発行されてきた『牛込柳町界隈』の集大成版で、今回お送りいただいた本は創刊号からVol.12までの記事を改めて編集したものだ。「神楽坂から早稲田まで①」とタイトルされているとおり、2018年以降も同書籍の「神楽坂から早稲田まで②」と「同③」が続刊の予定らしい。
 序文を、建築家・建築史家で江戸東京博物館の藤森照信Click!館長が執筆し、最後に新宿歴史博物館の橋口敏男館長とともに、畏れ多いながらわたしも跋文を書かせていただいた。本書の内容は、基本的に『牛込柳町界隈』と同様だが、まとめて記事が参照できる点が愛読者にとってはたいへんありがたい。わたしは、同誌が発刊された2010年の創刊号から欠かさず拝読しているし、二度にわたり拙文を掲載していただいている。その編集方針は、わたしのサイトづくりと通い合うものが多い。
 すなわち、本書の跋文でも書かせていただいたとおり、とある地域に眠る、ふだんはあまり気にもとめられない小さな物語をドリルダウンしていくと、その地域のみのテーマに収まり切らず、はたまた江戸東京地方だけに収まるとも限らず、日本全体の歴史=日本史も跳び越えて、世界史の流れに結びつくことさえ頻繁に起きるのは、こちらでも多種多様な記事で書かせていただいたとおりだ。落合地域でいえば、第一次世界大戦やロシア革命、世界大恐慌、第二次世界大戦、そして戦災による混乱と復興への結びつきなど、もはや落合地域という「地域史」の枠組みをとうにはみ出た記述も多い。
 わたしは何度か、小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』Click!を例に、この視点・視座について繰り返し書いてきた。対象となる地域が、別に山形県の古屋敷村であろうが、沖縄県の久高島Click!であろうが、東京の牛込柳町であろうが落合地域であろうが、そこに眠っている物語や語り継がれたエピソードは、およそ天文学的な数にのぼるだろう。別に、江戸東京だから物語が多いわけではない。小川紳介の手法がそうであるように、どのような地域にも各時代における膨大なエピソードや伝承、物語が眠っているにもかかわらず、「うちの地域には、とりたてて語るべき事柄がない」と錯覚しているか、それをていねいに発掘し記録する表現者が不在なだけだ。
 地下に埋没したそれらの物語を丹念に掘り起こし、その展開や拡がりをたどりながら、登場する人物たちの軌跡を追いつづけると、期せずして地域や地方の垣根をやすやすとまたぎ、古屋敷村の進軍ラッパを吹く農民がそうであったように、日中戦争のさなかの侵略先だった中国大陸へとたどり着くことになる。同様に、ひとつのケーススタディとして、下落合に住んだロシア文学者をたどると、呼びよせた亡命ロシア人の先には当然、ロシア革命という大きな世界史のうねりが存在している。



 新宿区の東南部をカバーする地域誌『牛込柳町界隈』の視点も、まさに同じところにある。そこで語られているのは、牛込柳町とその周辺域の物語なのだが、読み進むうちに日本史や世界史の視野へとスケールアウトしていく。「わたしの町で起きたこと」は、実は決して「わたしの町だけに起きたことではない」ことに気づかされることも多い。俗に「郷土史」と呼ばれる作業は、「わたしの町のみを研究する」ことではなく、その先にあるより大きな時代の流れやうねりへ、歴史の教科書にみられる演繹的な表現とはまったく逆に、ボトムアップ的(帰納的)な視座から触れ語ることだ。
 「わたしの町」や「わたしの地域」は、単なる書き手の軸足にすぎない。ましてや「わたしの町」は多くの場合、近代以降における便宜的な行政区画にすぎず、およそ100年ほどもさかのぼれば、まったく異なる地域性や風土が見えてくることもめずらしくないだろう。ある地域を軸足にして物語をたどることで、まったく別の物語の存在や拡がりに気づくことも少なくない。
 もうひとつ、「わたしの町」や「わたしの地域」のいいところだけ、美しくてきれいで見ばえのよい物語だけ、都合よく粉飾し「地域自慢」したい点だけを取り上げても、町や地域・地方をとらえ、語り、記録したことにはならないだろう。それは、ある意味で人間について描くのとまったく同様だ。町や地域は人間の集合体であり、その歴史の美化や粉飾・歪曲は後世への教訓はおろか、ウソ臭さとともになにものをも残さないし、実のある有機的な感動を呼ばないし、新たな創造も生み出しはしない。
 さて、『牛込柳町界隈』のひとつ残念なところは、コンテンツがネット上にアップされていないことだ。2008年のVol.8まで、ページのjpgファイルはアップされているのだが、画像のままでテキストの全文検索ができない。お送りいただいた書籍により、必要なときに各巻を1冊ずつ参照することなく、まとめて目的の記事を探せるようにはなったけれど、紙メディアだけでなく既存のサイトへバックナンバーをPDF形式でアップロードしておいてさえいただければ、PDF内の全文検索はもちろん、主要な検索エンジンからのボットが内部のテキストを拾うようになるだろう。そうすれば、『牛込柳町界隈』の運用性や可能性、そしてアベイラビリティは飛躍的に向上するように思う。ぜひ、今後のテーマとして検討いただきたい点だ。
 このサイトは、どちらかといえば落合地域を軸として、新宿区の西北部のことを記事にすることが多いが、伊藤徹子様の『牛込柳町界隈』は新宿区の東南部の物語を中心に取り上げられることが多い。最近、訪れて調査・取材するエリアも新宿区の中央部あたりで重なりそうな気がするが、そのクロスオーバーする地域は尾張徳川家下屋敷Click!としても知られ、明治以降は作家や画家たちが頻繁に風景を描き、負の遺産である“軍都・新宿”Click!の象徴としての戸山ヶ原Click!界隈ではないかという予感がどこかでしている。w そんなことを空想しつつ、ちょっとドキドキ期待しながら毎号楽しみに拝読したい。



 
 この秋、落合地域に関連するTVコンテンツづくりのお話もあった。NHKのBSプレミアム(BS3)で10月30日に放送された、『TOKYOディープ!』という番組だ。目白にお住まいの柴田敏子様のご紹介で、同番組のディレクターからさっそく連絡をいただいた。目白・落合地域に住んだ、華族たちの屋敷をまとめて紹介したいという案件だった。どこに誰の邸があったのか、地図上にポイントして紹介したいという。
 わたしは、これまで華族屋敷については個々別々に書いてきたし、「なぜ目白・下落合には徳川邸が集まっているのか?」というようなテーマClick!では、徳川邸をまとめてご紹介してきたけれど、同地域に住んだ華族たちを全的に捉えるという作業は従来してこなかったので、ちょっと興味をそそられてお引き受けした。
 さっそく、これまで判明し、また判明しかかっている華族屋敷を16邸ほど書いてお送りした。その過程で、下落合の宮家(皇室)邸は除外し、宮崎龍介Click!と結婚し高田町上屋敷3621番地に住んだ柳原白蓮Click!も含めず、またあちこちで伝承を聞く下落合の伊藤博文別邸は含めることにした。すると、以下のようなリストになった。
 戸田康保邸Click!(高田町雑司ヶ谷旭出41) 徳川義親邸Click!(目白町4-41) 近衛篤麿邸Click!(下落合417) 相馬孟胤邸Click!(下落合378) 近衛文麿邸Click!(下落合436) 近衛秀麿邸Click!(下落合436) 伊藤博文邸Click!(下落合334) 大島久直邸Click!(下落合775) 九条武子邸Click!(下落合753) 徳川好敏邸Click!(下落合490) 徳川義恕邸Click!(下落合705) 川村景敏邸Click!(下落合1110) 谷儀一邸Click!(下落合1210) 津軽義孝邸Click!(下落合1755)  ⑮徳川義忠邸Click!(下落合1981) 武藤信義邸Click!(下落合2073)
 おそらく、当時の華族たちがこの地域へ“隠れ家”的に建設した別荘・別邸を含めると、上掲の16邸どころの数ではないだろうとにらんでいる。
 番組では、これらの屋敷のうち目白駅に近いもののみ、つまり下落合(1965年以降の現・中落合/中井含む)の東部エリアを中心に紹介されていた。だが、明治期の近衛篤麿邸が1929年(昭和4)11月に竣工したモダンな近衛文麿邸の建築写真で紹介されたり、相馬邸が母家ではなく正門(黒門)Click!だったり、戸田康保邸も母家ではなく庭先にある大温室の写真だったり、八ヶ岳高原に現存している徳川義親邸に現在の徳川黎明会の写真が使われていたりと、ちょっと突っこみどころや残念な点は多々あるのだが、この地域の華族邸を一度期に鳥瞰するという意味からは、興味深い作業をさせていただいた。
 もうひとつ、華族の子弟たちが学生寮Click!にまとめて暮らし、ときどき徳川義親や近衛秀麿も訪れては講話会を開いていたらしい、下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が取材できず、番組に登場しなかったのが残念な点だろうか。



 書籍『牛込柳町界隈』のあとがきで、わたしが女子寮を取材していて不審者とまちがえられたエピソードを紹介されているが、著者の伊藤徹子様もまた序文の藤森照信館長も同じような経験がおありだそうだ。これからも、地域の施設からは不審者とまちがえられつつ、多種多様な物語をご紹介していかれればと考えている。

◆写真上:伊藤徹子様の書籍版『牛込柳町界隈』でもグラビア付きで詳細に紹介されている、1919年(大正8)に建設されたスコットホールClick!(早稲田奉仕園)の階段。
◆写真中上は、幕末に建てられ大震災も戦災もくぐり抜けてきた市谷加賀町の武家屋敷Click!(解体)。は、市谷甲良町に残る1923年(大正12)築の医院建築。は、河田町に残る1927年(昭和2)築の小笠原長幹(伯爵)邸Click!のシガールーム(喫煙室)外壁。
◆写真中下は、1928年(昭和3)築の早稲田小学校。は、夏草がしげる戸山ヶ原(上)と陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡(下)。下左は、書籍版の『牛込柳町界隈―神楽坂から早稲田まで①―』。下右は、『牛込柳町界隈』の最新号Vol.28。
◆写真下:NHK BSプレミアムの『東京ディープ!』オープニング()と、華族屋敷の地図()。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図をベースにポイントした判明している華族屋敷。までの番号は、本文中の華族屋敷リストに照応している。