いつだったか、岸田劉生Click!「雲虎(うんこ)」Click!にからみ、銀座の「カフェ・クモトラ」Click!の風俗画をご紹介したことがある。1927年(昭和2)5月に、東京日日新聞に掲載された随筆と挿画ともに岸田劉生の、『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』から引用したものだ。そのとき、銀座通りのカフェを「雲虎」化した挿画のほうはご紹介したが、文章のほうは木村荘八Click!が劉生について書いたものを引用したので、今回は東京日日新聞に連載していた劉生自身のエッセイのほうを引いてみたい。
 『新古細句銀座通』の“読み”は、もちろん劉生が好きだった江戸歌舞伎のタイトルをまねたシャレのめしだが、「しんこざいく」は昔からこの地方ではお馴染みの飴細工、「新粉細工」を意識したシャレだ。東京の繁華街に並ぶ屋台には、必ず新粉細工の飴屋が見世を出していて、上新粉から作るやわらかくてカラフルな飴を客の注文や希望に合わせ、いろいろな動物や花、あるいはキャラクターのかたちにしてくれる。もちろん、戦前には銀座通りにも屋台(露店)があちこちに出ていただろう。
 わたしが子どものころ、東京の寺社の縁日に出かけると必ず見かけたものだが、親は飴屋が手でこねる新粉細工は不衛生だといって、なかなか買ってくれなかった。同じく、江戸の昔からつづく金色に輝く細工ものの鼈甲飴は、わりあいすんなり買ってくれたのを憶えている。いまから考えると、新粉細工も鼈甲飴も衛生的にたいしてちがいはないと思うのだが、新粉細工は特に指先で飴を何度もこねくりまわすところが、親の気に入らない点だったのだろう。ただし、親たちは子どものころ、新粉細工を買って喜んで食べていたことが見え見えだったので、わたしとしては不満でならなかった。
 劉生が生まれた銀座(尾張町)でも、もちろん新古細工の屋台は出ていたはずで、数え切れないほど買っては口にしていたのだろう。わたしの子ども時代の銀座は、表通りに屋台が並ぶことはほとんどなくなっていたけれど、地元の出世地蔵あるいは日枝権現社Click!の縁日や祭礼には、いまだ銀座の裏通りや新道(じんみち)Click!の出入り口などに屋台が出ていたのを憶えている。中でも、わたしが気に入ったのがウグイスみくじClick!なのだが、その話はすでにここへ書いた。下落合でも、西坂にある徳川邸Click!「静観園」Click!に植えられたボタンが見ごろになり、園内が開放されると新粉細工(オシンコ屋)Click!の屋台が出ていた証言が残っている。
 さて、岸田劉生の『新古細句銀通』から少し引用してみよう。現代仮名づかいで収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)より。
  
 私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろいろのうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。(中略) 銀座の街路樹を何故もとの柳にしないのかと私はよく思う。今の街路樹は何ともみすぼらしくていけない。柳は落葉が汚いというかもしれないがしかし、同じ冬がれにしても、柳は誠に風情がよろしい。洋風のまちにふさわしくないと思うのかもしれないが決してふさわしくないものではない。ことに春の新芽は美しく町を一層陽気にする、夏は又緑の房が誠によく何にしても大様で柳は誠にいゝと思う。
  



 最近、銀座を歩くと昔に比べて樹木が足りないのは相変わらずだが、シダレヤナギの数が劉生の時代以上に減ってしまっていることに気づく。『東京行進曲』Click!に唄われた大正期の「銀座の柳」Click!は、関東大震災Click!のあとと1964年(昭和39)の東京オリンピックや高度経済成長の時代に惜しげもなく伐られつづけ、より耐環境性や耐久性の強い、ありふれた街路樹に植えかえられてしまった。
 また、戦後の銀座の商店街が、次々と埋め立てられる堀割を見ながら、近くに水辺があってこそ映えるシダレヤナギの樹影を、新しい時代を迎え別の街路樹に変えようとしたのは、街の大気汚染による環境悪化とともに枯れる木も出はじめて、自然のなりいきだったのかもしれない。銀座とその周辺を流れていた堀割には、数寄屋橋Click!が架かる外濠をはじめ、京橋の架かる京橋川、三十間堀、八丁堀、楓堀、築地川などがあったが、そのすべてが埋め立てられてしまった。
 大震災など大きな災害時のことを考えると、乗り捨てられたクルマからの延焼や地割れ、建物の崩壊などで壊滅する道路の代わりに、避難路や水運の物流ルートを堀割に頼らざるをえなくなることが、阪神・淡路大震災や東日本大震災で見えはじめ、ようやく地元では堀割の復活を街づくりのテーマとして前面に押し出してきた。それとシンクロするように、「銀座の柳」の復活も課題のひとつとして挙げられている。実は、「銀座の柳」復活事業は前世紀末、1990年代から取り組まれてきた銀座の一大テーマだった。
 銀座を歩いてみると、銀座通りにはシダレヤナギではなくシャリンバイ(車輪梅)、銀座桜通りはサクラとアオギリ、マロニエ通りにはマロニエとアオギリ、松屋通りにはハナミズキ、晴海通りにはケヤキ、みゆき通りにはコブシとエンジュ、交詢社通りにはカエデ(?)とアオギリ、花椿通りにはツバキならぬハナミズキ、昭和通りと海岸通りにはイチョウ……などなど、てんでバラバラな街路樹が植えられている。それぞれ、通りの特色を出したかったため選ばれた街路樹なのだろうが、この雑然とした統一感のない、どこの街でも見かける(別に銀座でなくてもいい)ありふれた街路樹が、逆に銀座という街の特色を薄めているように感じるのは、わたしだけではなく地元でも同様のようだ。



 銀座にある各通りの商店会が集まり、1919年(大正8)に結成された銀座通連合会が、銀座を訪れる顧客に対してプレゼンテーション用に作成した企画書、「銀座まちづくりヴィジョン/銀座通りに柳は必要か」から少し引用してみよう。
  
 水と緑のあるところへ行くとなぜかすっきりとし、気持ちが活き活きしますね。銀座はもともと水のまちでした。かつては海につながり、江戸時代は堀割と川に囲まれ、水路で物を運んだり、舟遊びも盛んだったのです。数寄屋橋、京橋、新橋という名前が残っていますが、橋を渡らなければ銀座に入れませんでした。多くの文学作品や歌謡曲に登場する「銀座の柳」。水辺に生える柳が銀座の名物だったことも、水のまちをしのばせます。ところが、モータリゼーションの波が押し寄せ、便利さだけが追求されるようになり、堀割は埋め立てられ、水景は消えてしまいました。私たちは、川が流れ緑で潤う銀座を取り戻して、お客さまに活き活きとまちを歩いていただきたいとの思いから堀割の復活を考えたいと思います。
  
 現在、シダレヤナギが復活あるいは新たに植えられている通りは、銀座柳通りをはじめ松屋通りの一部、外堀(外濠)通りの一部、銀座御門通りなどだが、予算が限られているのだろうから一度期にというわけにはいかないのだろう。もっとも、外濠や数寄屋橋が復活すれば、シダレヤナギは街路樹ではなく堀割を両側からはさむ「堀割樹」になるだろう。震災時の安全・安心を担保する堀割の復活ともども、これからも積極的に取り組んでほしい事業テーマだ。
 さて、根っからの(城)下町っ子である岸田劉生が『新古細句銀座通』の中で、めずらしく乃手Click!の夫婦を褒めている箇所があるので引用してみよう。
  
 今も昔も変らないのが骨董の夜店であるが、銀座の夜店の骨董に真物(ほんもの)なしといわれるまでに、イミテーション物が多いのは事実である。が、時にはいゝ掘り出しもあったとか、あるとか、私には経験はない。が、今は山の手なり郊外なりの御夫婦づれなどが、この骨董の露店の前に立ったり、しゃがんだりしているのを見ると私は何となくいゝ感じを持つ。そういう人たちの心持ちの中には美しいものがあるように感じられる。花屋の前に立ってチューリップの一鉢を買うのも可愛いが、これが安物の骨董となると一層二人の可愛らしい趣味なり心得なりが感じられるようである。
  



 いや、乃手人はマユツバClick!とホンモノを見きわめる眼を持たないと、どこかう~んと遠まわしに揶揄している、生っ粋の(城)下町人・岸田劉生ならではの皮肉な表現だろうか? いやいや、ここはめずらしく「ざぁます」奥様大(でえ)キライの劉生が、乃手人のやさしくて「可愛い」とか「何となくいゝ感じ」、「美しいもの」とかを発見した素直な心情として解釈しておきたい。

◆写真上:数寄屋橋近くの旧・日劇前にある、ひときわ大きなシダレヤナギ。
◆写真中上は、岸田劉生の実家で父親の岸田吟香が開店した「楽善堂」(精錡水目薬)。挿画は、いずれも岸田劉生が描いたもの。は、1932年(昭和7)に竣工した奥野ビルのエレベーター。扉は木製で階数表示は指針の手動式だが、現役で稼働している。は、震災前と思われる新橋演舞場のゲート。
◆写真中下は、銀座の資生堂喫茶部。は、1911年(明治44)に開店したカフェ「ライオン」の天井。は、銀座の勧工場跡にできた常設油絵展示場。
◆写真下は、震災前は真っ赤な建物で人目をひいた天狗煙草。は、1934年(昭和9)に竣工した菅原ビルの天井。は、1930年(昭和5)竣工の米井ビル。冬枯れではないシダレヤナギの米井ビルを探したが、残念ながら撮影しそこなっているらしい。