このブログをはじめたころ、「柳橋物語」シリーズClick!というのを連載していたことがある。大江戸(おえど)Click!の時代からつづく花柳界の柳橋だが、戦前の親父の想い出などを織りまぜながら、戦災で壊滅したあと戦後に料亭街Click!が復興し、やがて高度経済成長で大川(隅田川)や神田川の汚濁とともに滅んでいった様子を概観したものだ。
 神田川をはさみ、東日本橋に家があった親父は、近くの千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)へ通っていた。その小学生時代の同級生に、柳橋の芸者になった女子がいたこともご紹介している。三味Click!や踊り、長唄などの稽古事がことさら好きだったのか、よほど芸事にのめりこんでいたものか、ついに柳橋の芸者になり看板を張るまでになったようだ。ちなみに、三味や踊り、長唄などは女性の一般教養であり、別に芸者になるために習うわけではない。これは男子もまったく同様で、できないと江戸東京人としてはお話にならなかったので、親父は三味に清元などを習わされていた。
 花柳界は、どこか相撲の世界に似ているだろうか。いや、この言い方はまったく逆で、角界が花柳界や梨園(歌舞伎界)を模倣しているということだろう。柳橋で看板を張るということは、角界でいえば大関(江戸期に横綱は存在しない)になるということだ。当時は、あまた存在した江戸東京の花柳界で、柳橋は日本橋と並んでもっとも歴史が古く、特別な存在だった。くだんの千代田小学校の女の子も、よほど精進して勉強をつづけ、芸事に磨きをかけつづけたのだろう。
 戦前の芸者は、とにかく芸事が好きで勉強熱心でないとつとまらなかった。芸がヘタで趣味や教養が高くなければ、すぐさまお客に見透かされて贔屓が付かないからだ。そう語るのは、上野黒門町や同朋町界隈で修業を積み、ついには柳橋の看板芸者にまで上りつめた榎本佳枝だ。彼女の故郷は神田だが、親の仕事の都合で幼少のころは神戸に住み、のちに黒門町に住んでいた伯父を頼って芸者見習いになっている。彼女の半玉名は「竹千代」、柳橋に出たときの芸者名は「若水あい子」、のちに榎本健一(エノケン)の夫人になる女性だ。
 彼女は、三度のご飯よりも芝居や芸事が好きだった。三味や踊り、長唄などを5歳のころから習いはじめ、同朋町の「月松葉」という芸者屋へ養女に入っている。その一流になるための修業は、今日では考えられないほど厳しいものだったようだ。その様子を、1991年(平成3)に台東区下町風俗資料館から出版された、『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻から引用してみよう。
  
 あたしは芸事が好きで、もう五歳ごろからやっていたものですから、あまり苦労はしなくて済みました。/長唄は杵屋栄蔵さんに習ったんですが、この方は日本邦楽校の校長をしていた方です。踊りは若柳喜芳さんでした。女のお師匠さんで、いまの喜芳さんは息子さんです。数寄屋町の方は花柳流なんです。大体花柳界には必ず二つの派が入ってましたね。柳橋ですと若柳流と藤間流でしたね。新橋でも西川流と花柳流という様でした。/ただね、踊りのけいこは吉芳さんておっしょさんはすごくやかましかったですね。吉芳さんの所へは役者衆がみんなおけいこに来ているんです。けいこ場では一方にはずっと役者衆が並ぶんです。こっち側には花柳界の芸者衆が並ぶんです。あたしたちはまだ子供でしょう。それでも厳しくてね。
  




 当時、下谷(上野)界隈の花柳界は、同朋町と数寄屋町に分かれていたそうだ。黒門小学校を卒業した榎本佳枝は、同朋町側の花柳界にいたことになる。ただし、見番は両町とも同じだったというから、特に座敷のエリア的な区別はなかったのだろう。彼女はそこで、13歳で“おしゃく”(座敷に出る資格試験に合格すること)になり、15歳で半玉の芸者見習いになっている。
 不忍池界隈の料亭に出入りするのは、学生たちがけっこう多かったようだ。東大や早大、東京美術学校などの学生たちだが、近くの美校生がいちばん多かったという。また、画家や彫刻家もよく通ってきて、彼女は中でも横山大観とは親しくなったらしく、座敷で絵を描いてもらっている。
 ちなみに、3ヶ月に一度実施される“おしゃく”試験は非常に厳しく、ここで優れた芸者の才能がない者は容赦なくふるい落とされた。花柳界の大幹部が居並ぶ中で、さまざまな芸を披露して合格しなければ、決して座敷には出られなかった。彼女は13歳で合格しているが、年齢制限もあって15歳にならなければ半玉(見習い)として扱われない。彼女は芸者屋の養女なので、別に年季や借金もなく精神的に安定していたせいか、多種多様な芸事に打ちこむことができ、幼くても試験に合格できたのだろう。
 ところが、榎本佳枝が所属する「月松葉」へ主人と血縁のある養女が入り、血のつながりがない彼女は居づらくなってしまう。そこで一大決心をして、花柳界のてっぺんである柳橋へ挑戦することにした。そのときの様子を、再び引用してみよう。
  
 どうせ出るなら柳橋がいいと思って、出入りの桂庵(口入屋)に頼んでこっそり柳橋へ連れて行ってもらったんです。「菊増田」さんていう家だったんです。そしたらここがね、新派の河合武雄さんの二号さんの家だったんです。(中略) このご夫婦が一緒に見えましてね、そこで私の三味線などを聞いてくれました時に奥さんが「あんた、背が高しい、芸も出来てるし、もうおしゃくさんでもないから一本さんで出なさい。あたし、気に入ったから、あたしが旦那になってあげる」っていうんです。(中略) 養育費として当時のお金で八百円位出してもらったんですよね。(カッコ内引用者註)
  
 芸は身を助けるというけれど、彼女の場合はよほど幸運なケースだろう。「若水あい子」の名で柳橋に出たのが1931年(昭和6)ごろで15歳、1936年(昭和11)には若干20歳で「分菊増田」という自前の看板を持っているから、よほど才能に恵まれて贔屓の客が多かったにちがいない。



 このころ、彼女の名は広く知られるようになり、ポスターのモデルや映画の出演に追われるようになる。特に、日本へ初めて輸入された「ブラジル珈琲」のポスターでは、彼女が洋髪でコーヒーを入れている姿が撮影され、東京じゅうの喫茶店に貼りだされて一世を風靡した。また、輸入された外車のモデルや、外国へ日本を紹介する観光誘致映画などにも頻繁に登場しているようだ。当時、絵画のモデルClick!やデパートのショーモデルClick!は存在したが、広告のスチールモデルなど存在しない時代なので、柳橋で名高い彼女はひっぱりだこだったらしい。
 榎本健一(エノケン)との出会いも、そんな柳橋時代だった。だが、世の中では軍靴の音が少しずつ高まり、戦争の破滅へ向けてまっしぐらに転げ落ちていく時代だった。花柳界にも、金糸の入った着物を着てはいけないとか、髪は島田に結ってはいけないとか、おかしな禁止令が次々と押しつけられた。彼女は、「それじゃカフェーの女給と同じだてんで、あたしは座敷へ出るのをやめちゃったんですよ」と書いている。榎本佳枝が24歳になった、1940年(昭和15)ごろのことだ。
 エノケンに、「女の人は、お嫁に行った方がいいよ」と勧められ、最初は慶大卒の会社員と結婚して田園調布に住んだ。でも、すぐに徴兵で夫を戦争にとられ、1946年(昭和21)にようやく復員してきたが、ほどなく浮気から外に子どもをつくられ、結局、自分から愛想をつかし家を出て離婚した。そして、再び柳橋で芸者として生きることになるのだが、その後、あれやこれやといろんなことがあって、1964年(昭和39)にようやく榎本健一と結婚している。
 一度、柳橋に腰をすえて住みつくと、なかなか離れがたくなっていく心情を、新派の花柳章太郎Click!がうまい文章で表現している。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、互笑会・編の『柳橋界隈』から引用してみよう。


 
  
 明治座が復活してから、私は柳ばしの住居から、十五分で楽屋に這入れます。/その往き来の、大川端の水の色は下町に居る余徳と申しませうか…朝夕、すみだ川のたたずみを眺めて居ることは、こよなく楽しく、倖せを感じ、春は、芽ざした柳の枝をくぐり、夏は湯上りの肌に滑らかな涼を与へ、秋は潮満ちる月の波映、冬は霜に都鳥の翼の光り。/夜とは云はず、昼のあからさまな景色、東京に住む果報をつくづく感じるのであります。/戦争中、ふるさとの在る友達はそれぞれその故郷に身を寄せたのでありますが、かたくなな東京者気質は、如何にしても東京の影から去ることは出来ませんでした。/それの、おほかたは、此隅田川の魅力から逃がれられない為と謂へませう……。
  
 仕事Click!の都合で湘南Click!に一時期暮らした親父も、また同じ気持ちだったろう。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、神田川の出口に架かるいまの柳橋。
◆写真中上は、明治末に撮影された柳橋で右手に見えているのは料亭「亀清楼」。は、柳橋から見た大川に架かる大橋(両国橋)。は、柳橋の芸者たちに信仰された石塚稲荷社。玉垣には、芸者や芸者屋の名前がズラリと並ぶ。
◆写真中下は、江戸期の撮影とみられる本所百本杭側から見た対岸の柳橋界隈。は、同じく江戸期に柳橋から撮影された浅草見附(御門)=浅草橋。は、1933年(昭和8)に制作された「ブラジル珈琲」のポスターに出演する「若水あい子」=榎本佳枝。
◆写真下は、大川端の料亭「柳水」の座敷から眺めた本所の風景。向かいに見えているのは、本所国技館(回向院境内)のドーム。は、榎本健一(エノケン)と佳枝夫人。下左は、1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻(台東区下町風俗資料館)。下右は、1953年(昭和28)出版の互笑会・編『柳橋界隈』(東峰書房)。タイトルは背表紙だけで、表紙はおそらく絽紬の柄のみという粋で凝った装丁だ。