先日、三田にある亀塚古墳Click!を再訪して、公園内で発見された縄文時代の貝塚や、華頂宮邸Click!跡などを散策してきた。亀塚古墳は、江戸期には土岐美濃守の下屋敷にされていたため、庭園の築山に利用されて運よく保存された古墳だ。明治以降は華頂宮邸になっていたが、やはり庭の築山として残されたのか破壊をまぬがれている。残滓の墳丘は、いまでは円墳状をしているけれど、精密調査が行われれば東京の多くの古墳がそうであったように、前方部と墳頂をあらかた削られた前方後円墳かもしれない。
 現在は、華頂宮邸の外塀のみが保存されているが、敷地からは縄文期の貝塚が発見され、海に面した同丘の南東斜面は縄文期からおよそ現代まで、人が住みつづけていることになる。たまたま大名屋敷の敷地に指定されたため、庭の築山に利用されて残った古墳には、水戸徳川家上屋敷の庭だった後楽園古墳や、昭和初期には消滅してしまった松平摂津守下屋敷の庭園(現・新宿駅西口一帯)に残され、通称「津ノ森山」と呼ばれていた巨大な新宿角筈古墳(仮)Click!などが挙げられる。
 三田の亀塚公園を散策したついでに、子どものころ親に連れられ一度立ち寄った憶えのある、懐かしい高輪の泉岳寺を訪れてみた。ちょうど、山手線の新駅(地名からいえば「高輪駅」?)が予定されているあたりは、小学生のころに見た風景から激変し、ビル状のマンション街に変わっていた。当の泉岳寺の境内も、記憶とはまるで一致しない風情になっている。変わらないのは、山門右手の芝居に登場する大星由良助をモデルにしたような大石内蔵助像のみだった。赤穂浪士の墓も、やたら明るい墓地に変わっており、木立の中、木漏れ日を受けて苔むした墓石がひっそりと並ぶ雰囲気はどこかへ消し飛び、まるで陽当たりのいい石畳を敷いた公園の一画のような環境になっている。
 樹間のジメついた土の道や、江戸期の風化した石段を上った墓参道はなくなり、境内からグリーンベルトのある明るい“道路”を抜けると、突き当たりの右手が四十七士(実際は46名)の墓どころとなっていた。周囲にも、記憶にない新しい建物(資料館など)が建っていて、同寺の重要な観光資源だからなのか、少なからず経費をかけて整備したものだろう。上落合の西隣り、上高田の功運寺Click!にある吉良上野介義央Click!と殺された家臣38名の、苔むす宝篋印塔の墓石がひっそりとした佇まいで並ぶのとは、まさに対照的な風情だ。
 このブログをはじめたころに一度書いた憶えがあるけれど、赤穂浪士の物語『仮名手本忠臣蔵』Click!ほど事実と芝居(本来は浄瑠璃)とでは、まったく異なる“筋書き”もめずらしい。目白駅もほど近い雑司ヶ谷は四ッ家(谷)Click!を舞台にした、「東海道四谷怪談(あづまかいどうよつやかいだん)」と同様に、およそ事実から乖離していると思われる芝居だ。大坂(阪)の浄瑠璃作者である竹田出雲Click!たちが、事件からはるか46年後に、それを目撃した当時の人々(その多くはすでに鬼籍入りしていただろう)や、事件後の江戸市民たちの様子についてまったく調査することなく、ましてや当時の江戸の“現場”を一度も訪れて取材することもなく、すべて空想で描いた架空の物語となっている。



 1702年(元禄15)12月14日の夜半、赤穂浪士たちに襲われた吉良邸は大橋(両国橋)Click!をわたってすぐの本所松坂町にあったのだが、それ以前に1701年(元禄14)3月14日、千代田城内で吉良義央が斬りつけられた事件を知って激怒したのは、赤穂藩の江戸屋敷に詰めていた家臣たちでもなければ、呉服橋の吉良邸にいた家臣たちでもなく、そこいらに住んでいた江戸市民たちだった。特に吉良家の屋敷周辺(当時の吉良邸は本所ではなく呉服橋にあった)に住み、ふだんから吉良家による施薬や抱え医者の派遣による病人の治療で、世話になっていた街中の一般市民たちだ。
 また、屋敷に招かれて歌会に参加していた町人や、屋敷内の稲荷へ自由な出入りを許されていた庶民たちも、ざっくばらんで話のわかる町人には優しい“吉良の殿様”が、わけのわからぬキレやすい若造の大名に傷つけられたことを聞いて、にわかにアタマにきたものだろうか。では、町奉行所文書(もんじょ)=旧幕府引継書(町方書上を含む)に記録された市中の様子を、親父からの受け売りだがちょっとのぞいてみよう。
 その前に少し余談だが、子どものころ親父と明治座Click!か実家があった東日本橋界隈を歩くと、大橋をわたって必ず立ち寄っていたのが回向院と吉良邸跡、勝海舟実家跡、そしてときに豊田屋さんClick!(ももんじ屋)だった。本所松坂町の吉良邸跡は、当時からなまこ塀に囲まれたせせこましい史蹟だったが、今日ほど吉良義央の業績や福祉的な施策については敷地内で顕彰されていなかった。いまだ、大坂(阪)由来の赤穂事件=「忠臣蔵」が、芝居や講談、時代劇のストーリーのまま信じられていた時代だったのだろう。あろうことか、明治の薩長政府は中国や朝鮮半島の儒教思想を浸透させるため、同事件をことさら美化し「忠君愛国」の「道徳」教育へ利用しようとさえしている。
  
 かの鮒といふ奴は、わづか三尺か四尺の井の中を、天にも地にもないと心得、ある日井戸替の折、釣瓶にかゝつて上るを、可愛さうぢやによつて大川へはなしてやると、サア鮒めが、小さなところから大きなところへ出たによつて、嬉しまぎれに途を失ひ、あつちへひよろひよろ、こつちへふらふらして、ついには橋杭へ鼻ツ柱をぶつけて、ピリピリピリと死にまする。お点前が丁度その鮒だ。あんな小さな屋敷からこのやうな広い所に来たによつて途を失ひ、判官が詰所は何でござる、手前が詰所はどれでござると、あつちへまごまご、こつちへうろうろ、とゞの仕舞は、お廊下の柱へ頭を打附けて、ピリピリピリと死にまする。イヤコリヤ、どうやら判官が鮒に似て参つた。(三段目/殿中松ノ廊下ノ場)
  
 ……などという、高師直のセリフが「忠臣蔵」の舞台で語られるたびに(もちろんすべてウソ八百だ)、観客は吉良義央をイメージして憎しみを募らせたのだろう。




 さて、築地の浅野家上屋敷には、夕刻が近づくにつれ激怒した江戸市民たちが大勢集まりはじめた。その中には、呉服橋の吉良邸周辺に住む町人たちばかりでなく、吉良家の配慮に恩義や義理を感じていた庶民たちも少なからず混じっていただろう。江戸市民の浅野邸への“討ち入り”は、日没とともにはじまった。町奉行所の記録では、夜間に起きた騒乱のため取り締まれなかったとしているようだが、日暮れ前から大勢集まりはじめた群衆を奉行所が知らないはずはない。奉行所に勤める御家人屋敷が多かった八丁堀Click!とは、わずか800mほどしか離れていない、目と鼻の先の出来事だ。
 おそらく、町奉行所では事態を把握していたのだろうが、浅野家上屋敷を包囲する激高した町人たちの数が多すぎたため、まったく手出しができなかったのが実情だったのではないだろうか。江戸後期とは異なり、町木戸は設置されはじめてはいたが、木戸番はそれほど普及してはおらず、当時はいまだ厳密な町々の往来管理は行われていない。
 浅野家上屋敷の正門を打(ぶ)ち破って、町人たちが次々と邸内へなだれこみ各部屋へ“討ち入る”ころには、千人規模になっていたのかもしれない。この間、浅野内匠頭夫人をはじめ上屋敷に残っていた赤穂藩の家臣たちは、姻戚の屋敷や近くの寺々へ逃げ散っている。浅野家の人々を傷つけず、そのまま上屋敷の裏門から見逃し、屋敷内のみを打(ぶ)ちこわした手並みには、どこか計画性さえ感じられる。打(ぶ)ちこわしは夜明けまでつづき、邸内の家具調度はほとんどが破壊しつくされた。夜が明け、町奉行所の役人たちが員数をそろえて駆けつけたころには、事件現場に人っ子ひとり残ってはおらず、浅野家上屋敷はひどい有様になっていたようだ。
 浅野邸へ“討ち入り”した町人たちは、千代田城内で起きた刃傷事件をどのような認識でとらえ、にわかに激高して行動したものだろうか? 日ごろから受けていた、武家や町人に分け隔てなく親切な吉良家への恩義や義理立てだけで、町奉行所も手をつけかねるほど大勢の町人たちが集まり、5万石の小藩だった赤穂藩とはいえ、大名屋敷を破壊するほどの怒りが爆発するものだろうか。
 そこには、市中を徘徊し横暴をきわめた不良の若侍たち(いわゆる傾奇者=歌舞伎者)に対する怒りや反感を、こらえ性がなくワガママに育てられたであろう、未熟でキレやすい浅野長矩に重ね合わせた人々も多かったのではないか。あるいは、5代将軍・徳川綱吉と幕府に対する反感、特に生類憐みの令をはじめとする愚劣な行政に、日ごろから鬱積していた不平不満が一気に爆発したのではなかっただろうか。



 
 先年、ステージアートグループKASSAYによる舞台『吉良きらきら』を観てきた。すべてが彼岸の物語なのだが、もっと細かく若者の心情に気を配ってあげればよかったと、妻・富子(ご近所の白石玉江さんClick!役)へ悔やむ吉良義央のもとへ、お城勤めに対するきびしい教えを若輩のための教育ととらず、浅はかにも一方的にキレて刃傷におよび、その後、吉良家側から幕府への「乱心」(精神錯乱による責任免除)申し立ての配慮も理解できぬまま実に申しわけなかったと、浅野長矩が深く詫びにくる筋書きだ。おそらく、千代田城内で起きた事実は、こちらのほうががぜんリアリティが高いように思われる。観光コースにもなっている高輪の泉岳寺ではなく、わたしが落合地域を散歩がてら、お隣りの功運寺にある吉良家墓所へたまに立ち寄るのは、別にヘソ曲がりだからではない。

◆写真上:久しぶりに訪れた高輪の泉岳寺だが、想像していたほど人はいなかった。
◆写真中上は、三田の高台にある亀塚古墳。土岐家の築山にされたため、墳丘にはかなり加工がされていると思われる。なお、亀塚古墳は田園調布や狛江に展開する古墳群と同名でまぎらわしい。は、水平に切り取られた墳頂で、江戸期には周囲を見わたす四阿でも設置されていたものか。は、同古墳に隣接する亀塚公園貝塚の出土状況。
◆写真中下は、泉岳寺にある公園のように整備された赤穂浪士の墓所。中上は、自刃(じじん)=切腹したため「刃」の戒名が並ぶ46浪士の墓石群。中下は、上高田の功運寺に眠る吉良義央と殺害された38名の家臣たちの墓。は、本所松坂町(現・両国3丁目)にある吉良家上屋敷跡の記念公園。
◆写真下は、1950年代に撮影された山門右手の大石内蔵助像で、芝居の大星由良助の出で立ちのまま制作されている。背景に見えるのは、高輪中学校の旧校舎。中上は、7代目・市川中車が演じる『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助。現在の9代目・市川中車(香川照之)が演じるとすれば、大星由良助ではなく高師直のほうだろう。中下は、赤穂浪士とその支援者たちが集合した本所松坂町の吉良家上屋敷の正門跡。下左は、ステージアートグループKASSAY『吉良きらきら』のリーフレット。下右は、上記公園の吉良義央像。