いまから約1400~1700年前に築造された古墳域が、その後、さまざまな禁忌的あるいは怪異的なフォークロア(伝承・説話・怪談・奇譚)などとともに残り、農地にも開墾されず、あるいは宅地にも造成されず、大正期ごろになってようやくディベロッパーによる新興住宅地として開発されているケースを、これまで東京各地の事例として記述してきた。また、そのようなエリアが寺社の境内Click!(待乳山聖天Click!神田明神元社=大手町将門首塚Click!芝増上寺Click!氷川明神社Click!など都内無数)や墓地(品川大明神社Click!南面など)、あるいは公園・庭園などの公共施設Click!(上野摺鉢山古墳Click!など)にされているケースも、いくつかご紹介している。
 今回は、明治以降に大規模な墓地や脳病院(精神病院)など、市街地ではなかなか建設がむずかしかった施設が造られていたが、現在では最先端のファッション街として東京のオシャレな街を代表する地域に変貌している、青山について書いてみたい。大規模な墓地とは、もちろん東京府が運営していた青山墓地Click!(現・都立青山霊園)であり、脳病院とは斎藤茂吉Click!北杜夫Click!の『楡家の人々』でお馴染みの、青山南町5丁目(現・南青山4丁目)にあった「青山脳病院」のことだ。
 東京府は明治の初期、江戸期には美濃郡上藩(4万8千石)の青山大膳亮幸哉下屋敷跡へ、なぜ大規模な墓地開発を行ったのだろうか? その理由として、従来からその一部が墓域として使用されていたらしい同エリアを、東京市内の墓地不足を解消するため1874年(明治7)に東京府の管理がスタートして、大規模な公共墓地としての拡張工事が行われたからだ……というような、お役所が公式に発表するような記述ではない理由が気になる。「なぜ墓域に、ことさら青山のこの地が選ばれているのか?」という、より本質的な理由についてだ。
 同様に、市街地では反対が多くて建てられなかった斎藤家の脳病院が、なぜ青山南町5丁目の高台から谷間にかけての広大な敷地に、大規模な病棟の建設が可能だったのかというテーマにも連結してくる。表面的な公式の記録では語られない、なんらかの禁忌的な伝承や人が居住したり立ち入るのをためらわせるようないわれが、江戸期からの地元住民の間で語られてきているのではないか?……というのが、青山地域に注目したわたしの問題意識であり仮説の立ち位置だ。
 だが、江戸期から語り継がれてきたフォークロアや伝承・伝説・説話のたぐいを、港区(青山南町は旧・赤坂区)はまったく採集していない。また、同地域に寺々が集合した経緯も、ほとんど記録されていない。同区の教育委員会が発行する紀要も調べてみたが、その多くが近世(江戸期)から近代(明治以降)の遺跡・遺物・事件がテーマであり、地域に根ざす古くからのフォークロアについてはあまり取り上げられていないようだ。
 わたしが、なぜ青山地域に着目したのかというと、いつものように焦土化して地表が露出する、敗戦直後に撮影された東京各地の空中写真を眺めているとき、明らかに人工構造物としか思えないフォルムを、青山墓地の西側に見つけたからだ。そのフォルムは、斎藤家の広い青山脳病院敷地の東北側に位置していて、明治期にはちょうど青山墓地と青山脳病院にはさまれたエリアに相当する。
 地形が、まるで水滴が垂れ下がったような円形をしており、その一部はあたかも弥生式土器の首のようにすぼまり、すぐに壺の広口のように外側へ向けて急角度で開いていく形状をしている。このかたちは、前方後円墳Click!というよりも帆立貝式古墳(おもに古墳後期に見られる簡略型前方後円墳)を想起させる形状だ。





 さっそく、江戸期の切絵図や図書からたどり調べてみると、まわりを谷間(壕あるいは濠?)に囲まれたサークル状の台地上は、古くから旗本の屋敷街として開発されていることが判明した。家作からみて、おそらく数百石取りの旗本が集合して住んでいたとみられるが、台地上の西側には陸奥二本松藩(10万石)の丹羽左京大夫の隠居屋敷が建設されている。そして、『御府内往還其外沿革図書』によれば、「コノ辺青山長者丸ト云」という書きこみが見える。「長者丸」とは、上大崎(池田山界隈)の森ヶ崎古墳(仮)Click!上大崎今里古墳(仮)Click!の周辺でも語り継がれてきた特徴的な名称(地名)であり由来だが、近くに巨大な古墳とみられる人工構造物があるのも、共通していてたいへん興味深い。「長者丸」という地名の伝承から、はたしてどのような物語やエピソードが見えてくるのか、今後の課題のひとつとして留意してみたい。ひょっとすると、落合地域の南西に拡がる「中野長者」伝説と同様に、なにか不吉な要素を含んだフォークロアかもしれない。そして、そこに共通するキーワードは「橋」だ。
 さて、青山南町の大きなサークル状のフォルムは、その軸が東南から西北を向いており、その全長は400m余と巨大なものだ。だが、このフォルムが帆立貝式古墳だとすると、古墳規模はもう少し小さかったにちがいない。なぜなら、江戸期に墳丘が水平に削られ、その土砂を周囲の谷(濠)側へ放射状に落とし、屋敷地を水平に広げる土木普請が行われているように見えるからだ。ちょうど、神田山Click!を崩した土砂を江戸湾埋め立てに使い、さらに余剰土砂と外濠(神田川)を掘削した土砂とで、周辺の起伏をなだらかな傾斜地(駿河台)に造成した大普請に似ている。そのような土地を外側へ拡張する工事を前提にしても、帆立貝式古墳だったとすれば墳長はおそらく300m前後になるだろうか。
 周囲の谷間は、江戸期には小川が円形に流れ、その両岸が原宿村の農地として開墾されていた。当時の円形に流れる小川は、それぞれ壺の広口の先にあたる部分を湧水源にしているようだが、この泉が土地をV字型の堀状に掘削したために湧いた水なのか、それとも帆立貝式古墳にみえる形状が造られた当初から湧き出ており、その流水をうまく利用して周濠をめぐらしていたものかは、いまとなっては経緯をたどれずに不明だ。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」によれば、谷間には戦前まで湧き水を利用した細長い養魚池が存在している。そして、谷底にはおそらく大正期に細い道路が敷設され、いまでは墳丘とみられる円形をした台地の外周域を、そのまま円形状にたどることができる。また、丘上に上るにはあちこちに設置されたバッケ(崖地)Click!階段や、急坂を上らなければならない。現在では、谷底を流れていた小川はすっかり暗渠化され、円形道路の下を流れているようだ。さっそく、青山脳病院が建てられていた南側から現地に入り、谷間や台地上の地形を詳細に歩いてみた。



 南青山のサークルはほぼ正円形をしているが、地図や空中写真で眺めていた印象とは異なり、実際に歩いてみると予想以上に大きい。谷底や斜面には、かなり早くから集合住宅の開発が進んでいるようだが、丘上は大きな家々が建ち並んでいる。まるで水滴(雫)のような形状の谷間をたどると、壺の広口の手前ですぼまった部分を横断するように道路が造成されている。ちょうど谷をふさぐように土手が築かれ、その上に三間道路を通しているが、この工事は江戸期ではなく明治期に整備されたものだ。
 丘上(通称:長者丸通り)を歩いてみると、サークルの中心点がおおよそわかる。江戸期の切絵図でいえば佐藤喜内屋敷あたり、1938年(昭和13)作成の「火保図」でいえば元田邸から富田邸あたりに円形が尾を引くように等高線が描かれている。いまの住宅街でいえば、青南マンションのあたり一帯だ。現在では、ブルドーザーですっかり整地されたあとなので、戦前の地形図にみられたふくらみは消滅しているが、ちょうど後円部の中心にあたる地点だ。ここを中核にして、四方に向け放射状に後円部の墳丘土砂を崩して水平の土地を拡張し、周囲の谷間(壕・濠)を埋めていった普請の様子がうかがえる。そして、谷間から見上げる斜面には、次々と急坂やバッケ(崖地)階段が設置されていった。
 前方部の西側に刻まれた、古墳とみられる膨らみに沿った谷間に通う道は、江戸期には青山百人町へと斜めに抜けられたが、明治期の宅地開発で改めて区画整理と宅地開発が行われ、谷間はすっかり埋め立てられている。おそらく、ここに屋敷を構えた大きな鍋島家の屋敷造成時に、大規模な地形改造が行われているのだろう。だが、前方部に刻まれた東側の谷間は江戸期からの地形をそのまま残し、外苑西通りで断ち切られる地点までつづいている。
 江戸期から開発されつづけた丘上の旗本屋敷街だが、だからこそ明治期に敷地がそのまま引き継がれ、地形を根本的に変えてしまうような昭和期の大規模開発からもまぬがれて、当初の地形をよく残しているように見える。これは、江戸期から芝増上寺の別院にされて寺町を形成し、大規模な開発をまぬがれた目黒駅近くの上大崎今里古墳(仮)と同様のケースのように思える。
 
 
 
 
 
 

 この近辺を発掘した港区の調査記録は見あたらないが、新たに住宅建設やマンション建設の際に、注意深く土砂の様子や包蔵されている遺物を観察すれば、埴輪片などが発見できる可能性が高いように思われる。江戸期に「長者丸」と呼ばれたエリアである以外、もちろん古墳を意味する地名は存在しないので、とりあえず便宜上「南青山古墳(仮)」と呼称しておきたい。現代でさえ、このようなフォルムが鮮やかに確認できる以上、東京府によって大規模な墓地に改造されてしまった近接する青山墓地、すなわち青山大膳亮下屋敷の広大な庭園の様子が非常に気になる。まさか、墓地を掘り返して発掘調査はできないので、どこかに同屋敷を描いた詳細な絵図は残っていないだろうか。

◆写真上:丘上へと通う、サークル東側に設置されたバッケ(崖地)階段のひとつ。
◆写真中上は、江戸時代後期(上)と明治時代後期(下)の南青山古墳(仮)で、ともに『今昔散歩重ね地図』(ジャピール社/2012年)より。また、推定される江戸期の普請(下)。は、1904年(明治37)に作成された地形図にみる同地域の様子。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同地域と南青山古墳(仮)の想定墳丘。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同地域。鍋島邸の造成で、西側の谷(濠)が埋められている様子がわかる。は、1947年(昭和22)に撮影された焦土の同地域。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同地域で①~⑫は現状写真に照応。
◆写真下は、同地域の現状写真で①~⑫は上掲空中写真に対応。は、青山脳病院の記念歌碑から北東へ500mほどの青山霊園内にある斎藤茂吉の墓。