江戸東京の各地には、「長者」伝説が散在している。その中で、もっとも有名なのが江戸期の資料にも数多く書きとめられ、近代に入ってからは民俗学の柳田國男Click!が採取して有名になった、東京の西北部に拡がる「中野長者」伝説だ。
 昔話に現れる長者というと、初めからおカネ持ちだったわけではなく、なにかの功徳を積む生活を送っていたり、正直者が夢や動物のお告げで示された場所を掘ったりすると、にわかにカネ持ち=長者になるエピソードが多い。確かに、最初からカネ持ちであれば、特に物語化する必然性が生まれにくいだろうし、また貧しい人々へ希望や夢を与えられる「教訓話」や「道徳話」としても成立しにくい。そこには、なにかがきっかけで長者へと生まれ変わる、変身譚が不可欠な要素となる。
 多くの昔話は、子どもに語るのを前提とするせいか、最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンが多い。だが、実際の大もとになっている物語は、必ずしも幸福で終わるとは限らないものも少なくない。地域の長者物語が語られるとき、なにか不吉なエピソードとセットになっているケースも少なくないのだ。「中野長者」(または「朝日長者」とも)の伝説も、まさにその典型的な事例だと思われる。
 1732年(享保17)ごろに書かれた『江戸砂子』から、その様子を引用してみよう。
  
 むかし多摩郡中野の内、正観寺(成願寺)の薬師堂の棟札に、朝日長者正蓮(中野長者)が書たるには、漆千盃朱千盃、黄金千両、銭十六萬貫、朝日さす夕日かゞやく藤の下にありといふ。これを埋むる時、下男に負せて此のはしをわたりけるに下男が後にぬすむ事もあらんと、そこにて殺しけると也。その下男のわたりたるは人見たれども、帰る所を見ざるゆへに姿見ずの橋といふ也と、里人の物語也。
  
 『江戸砂子』は概略しか採取していないが、室町期の応永年間ごろ中野村字塔屋敷(現・中野区本町2丁目)の成願寺あたりに住んでいたとされる、元・武士の鈴木九郎(正蓮)という人物が浅草寺の観音に願掛けしたところ、にわかに長者になって大きな屋敷をかまえたところから物語がはじまる。次々に財宝が増えるものだから、九郎は屋敷内に貯蓄しておくことができず、やむなく橋をわたった「藤の下」に隠し場所を用意して、納まりきれない財宝を下男に運ばせて埋蔵した。
 ところが、隠し場所のありかが外部に知られると困るので、そのつど下男を殺害してくるため、長者ひとりが橋をわたって帰ってくる。村人はいつしか、この橋のことを「姿不見橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになり、それが現在の新宿・淀橋Click!に相当する橋だったという経緯だ。つまり、中野村側から淀橋をわたって角筈村側(東側=新宿側)のどこかへ、財宝を埋めていたことになる。「朝日さす夕日かゞやく藤の下」とは、どこか高台の地形を連想させるポイントだ。しかも、長者が“東”を意味する「朝日長者」と呼ばれていたことにも留意したい。夜間にいずこへか出かけ、朝日が昇るころ橋をわたって帰ってくるというイメージのネーミングだ。
 この話にはバリエーションが数多く存在し、その後、殺された下男の祟りで中野長者が一家全滅したり、長者の娘と殺される下男との悲恋物語をはさんだり、祟りで娘が龍(蛇)になって角筈十二社池へ飛びこんだりと、伝承のされ方は千差万別だ。中野区教育委員会も、「中野長者」伝説を多数蒐集しているが、1987年(昭和62)に発行された『中野の昔話・伝説・世間話』では、次のように書いている。



  
 今回の調査では江戸時代の地誌や随筆などにも見られる中野長者の伝説が、中野区内ではどのように伝えられているかに注目し、各調査質問事項にもした。(略)長者伝説を伝える旧中野地区の地元の話者の中には、「長者の話は十人みーんなちがう」と話す人もあるように、「中野長者」の伝説は、多種多様に伝えられている。/淀橋(姿見ず橋)を嫁入りの行列が渡ってはいけない、という伝承は知る人も多い。そのいわれは、中野長者が財宝を隠させた下男を殺したところだからとする長者伝説の系統と、井の頭の主の伝説(宝仙寺の竜頭骨の由来)の系統との、二つの伝説に大別される。そして、その祟りのために、花嫁が通ると不幸になる、縁が切れるなどと、嫁入りのときに橋を渡ることが忌まれてきた。
  
 この物語が、いかに強烈な印象を地域に残していたかは、明治以降もずっと婚礼の行列は不吉な淀橋を通行せず、わざわざ上流や下流の橋を迂回していたことからもうかがえる。1913年(大正2)1月21日になって、ようやく迷信打破のための大規模な祭礼が淀橋で行われ、わざわざ結婚式を挙げたカップルに淀橋をわたらせている。この“厄払い”式典には、柳田國男も呼ばれて出席していた。1913年(大正2)1月22日の東京朝日新聞や東京日日新聞は、淀橋の祭礼の様子を大々的に報じているが、記事がよくまとまっている東京日日新聞から引用してみよう。
  
 府下淀橋町と中野町との間に架する淀橋に迷信ありて、婚礼の行列此の橋を渡るを忌む事は既に報じたが、同地の浅田政吉氏主催となり此の迷信を一掃する為め、昨日午前十一時から神官を聘して河精を祭り迷信払いの神事を執行した、式場は淀橋の畔の川上に床を張りて設け正面を祭壇として神官二十名にて最と荘厳に式が行はれ、式後食堂を開いて観盃を挙ぐる間に、関直彦(衆議院副議長)の「迷信と神経」の演説、神話童話の研究家柳田國男氏(法制局長官)の「伝説の尊重と迷信の打破」の演説があった。
  
 このあと、花婿花嫁の婚礼行列が淀橋の「わたり初め」をして祝福されている。
 室町期(江戸東京の「長者」伝説は鎌倉期までさかのぼるものもあるので、あるいはもっと以前からかもしれないが)、平川(神田上水→神田川)Click!に架かる淀橋を中野から向こう側(角筈側)へわたると不吉なことが起きる……という伝説に、中野長者の娘の悲恋あるいは娘が龍(または蛇)に化身する化け物譚が習合し、やがて嫁入り行列がわたると不幸になる……という物語が形成されているように見える。では、中野側から淀橋をわたり角筈の成子坂へと抜ける、青梅街道のどのあたりに不吉な影が射すのだろうか。



 このサイトをつづけてお読みなら、すでにピンときている方も多いのではないだろうか。そうなのだ、成子坂の斜面から青梅街道を現在の新宿駅方面へ進むと、その両側には大きな古墳とみられるフォルムが並んでいたことが想定できる。こちらでもご紹介した、新宿駅西口に位置する「新宿角筈古墳(仮)」Click!と、成子富士のある天神山の「成子天神山古墳(仮)」Click!だ。これらは、かろうじて現代からたどれる古墳の痕跡だが、大規模な淀橋浄水場が建設される以前、あるいは一帯が住宅街で埋まる以前に、その広い斜面の畑地にはどのようなフォルムが残されていたのかは、いまとなっては不明だ。
 中野側から語られる、「橋をわたると不吉なことが起きる」、あるいは「橋をわたると不幸になる」など多彩な物語群は、より古い時代からの禁忌的なエリアへ足を踏み入れることを戒めた伝承なのではないか。古墳域で多く語られる、屍家・死屋(しいや)Click!伝説のバリエーションなのではないだろうか。当初は、墓域への敬虔な崇拝的慣習からくる禁足域だったものが、いつしか別の物語へと習合・転化を繰り返し、あるいは盗掘を戒めるための“怖い話”へと変じて、現代まで継承されている可能性が高いように思う。
 もうひとつ、「長者」伝説に多いパターンとして、突然にわかにカネ持ちになった人物は、あえて禁忌的な古墳域に足を踏み入れ、墳丘を掘り返し玄室にある宝玉や黄金(こがね)・白銀(しろかね)の副葬品を持ちだしているのではないか?……というところまで、想像の羽が拡がっていく。周囲の人々は、突然羽ぶりがよくなった「長者」を見て不審に思い、禁忌を侵したことに薄々気づいてウワサをし合っただろう。なにか「不吉」で「不幸」なことが起きれば、尾ひれをたっぷりつけて「それみたことか」と物語化したかもしれない。
 さて、このような「長者」伝説は、新宿のすぐ南にも散在している。地名にまでなっている目黒駅東側の上大崎地域の「長者丸」と、青山地域の「長者丸」だ。これらの地域に登場するのは、「黄金長者」と「白金長者」と呼ばれる人物たちだが、その物語にはやはり「不吉」な影と、鬼と化した幽霊が襲う「橋」が登場してくる。すでにお気づきのように、この地域にもまた巨大な古墳の痕跡と思われる人工構造物、すなわち上大崎には「森ヶ崎古墳(仮)」Click!「上大崎今里古墳(仮)」Click!が、南青山には「南青山古墳(仮)」Click!の痕跡を、古い地形図や空中写真からかろうじてたどることができる。



 「長者」伝説に登場する「橋」とは、この世からあの世(死者の国)へとわたる象徴としての架け「橋」なのか、それとも周濠をわたって古墳域を侵すというメタファーとしての不吉な「橋」なのか……。江戸東京地方の屍家・死屋伝説と、「長者」伝説とがどこかで交わらないものか、非常に根が深くて興味深いテーマだ。

◆写真上:鈴木九郎こと「中野長者」の屋敷跡といわれる成願寺(別名:正観寺)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に撮影された木橋のままの淀橋。は、1933年(昭和8)撮影の石橋となった淀橋。は、淀橋から神田川の上流域を眺める。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる成願寺と淀橋周辺。は、1941年(昭和16)ごろの斜めフカンで撮影された空中写真にみる同地域。は、1947年(昭和22)に撮影された淀橋東側の斜面に拡がる焼け跡の同地域。
◆写真下は、成子天神山古墳(仮)の陪墳のひとつに見える成子富士。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「黄金長者」あるいは「白金長者」伝説が継承された上大崎地域。は、同年撮影の空中写真にみる同伝説が語り継がれた南青山地域。