いまでも晩秋から冬にかけて、近所にある旧家の庭先や畑地Click!の中で、落ち葉を燃やす香ばしい煙が立ちのぼることがある。厳密にいえば、落ち葉を低温で燃焼させる焚き火は、ダイオキシンやCOxなどの有害な物質をまき散らすことになり、東京都の条例違反あるいは消防法に抵触するのかもしれないが、季節を象徴させる風物詩的な情景や匂いが、わたしを含め近隣のみなさんも好きなのか、誰も文句をいうことはない。
 おそらく、戦前の落合地域では、ケヤキやクヌギなど武蔵野を代表するさまざまな落葉樹の落ち葉を燃やす焚き火の白い煙が、住宅街のあちこちから空へと立ちのぼっていただろう。近所に漂う落ち葉焚きの匂いや、風にのって運ばれてくる薄っすらとした煙から、暮れや正月が近いことを肌で感じとれたのではないだろうか。こちらでも、近衛町Click!にあった下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!で行われていた、イモをくべた焚き火Click!の様子をご紹介したことがある。
 わが家でも毎年暮れになると、ケヤキの落ち葉掃きClick!は欠かせない年中行事……というか、腰を痛める大仕事だが、45リットルのゴミ袋に入れ「燃えるゴミ」として処分している。東日本大震災時の福島第一原発事故Click!以来、線量計で放射線を測定Click!してレポートClick!をアップするのも恒例の行事Click!となってしまった。できれば、子どものころのように焚き火をして楽しみたいところだが、近隣の住宅事情がそれを許さない。
 小中学生のころ、よく焚き火をしてはキャンプの練習にと、飯盒炊爨(はんごうすいさん)をしたものだ。燃料にしていたのは、広葉樹の落ち葉ではなく海岸沿いに防風・防砂林として植えられた、クロマツ林の落ち葉や枯れ枝だった。マツ脂を含んだクロマツの枯れ葉は、火を点けるとアッという間に燃え上がり、焚きつけの新聞紙などいらず、焚き火にはとても面白くて重宝な燃料だ。松林と自宅Click!の庭との間に、草刈りをして焚き火ができる2畳ほどのスペースをつくった。周囲の草とりをして、砂地の地面を少し掘り下げた場所で、小学生のわたしはよく親に焚き火をせがんだ。
 なぜか、そこでイモやクリを焼いた憶えはないけれど(親たちがサツマイモClick!嫌いだったからだろう)、キャンプを想定した食事づくりはさんざん楽しんだ。クロマツの枯れ葉は、別に冬にならなくても1年じゅう樹下に落ちるから、季節を問わず燃料には困らなかった。焚き火は、ヒヨドリの鋭い鳴き声が響きわたる晩秋、あるいは息が目に見えるようになる初冬の趣きだが、山でのキャンプ好きClick!だったわたしはセミたちの声とともに、夏の想い出としてもオレンジ色をした炎がよみがえる。
 晩秋の焚き火は、どこか物悲しく悲劇的な物語をその情景に含んでいるようで、小坪港も近い逗子海岸で子どもたちが起こした焚き火へ、かがみこむようにして身体を温めている、ゆきずりの哀れな老人を描いたのは国木田独歩Click!だ。1978年(昭和53)に学習研究社から出版された、『国木田独歩全集』第2巻所収の『たき火』から引用してみよう。



  
 げに寒き夜かな。独ごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。/あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂る音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。/げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの昔、楽しき炉見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
  
 さて、東京で落ち葉焚きが禁止されたのは、なにも現代ばかりではない。戦時中の東京では、落ち葉は重要な“資源”として位置づけられ、炊事や風呂焚きなどに使える“資源”を焚き火をして燃やすとはケシカランと、軍部からクレームが出て禁止されていた。また、焚き火の煙は「敵機による空襲の攻撃目標になる」ので全面禁止という、わけのわからない命令も軍部から出ている。
 米軍の空襲を経験し、その爆撃法を科学的ないしは論理的に分析・検証していれば、B29は精密な空中写真Click!や地図をベースにレーダーを用いて攻撃目標を補足し、正確に爆撃を行っていたことは明らかだったはずだ。これも、夜間に光るホタルは爆撃の目標になるから、川辺のホタルClick!をすべて殺せという錯乱したヒステリックな命令と同系統のものだろう。それとも、軍部に近い行政組織がその意向を先まわりをして「忖度」し、軍部からと偽って「命令」を伝えていたものだろうか。
 そんな不可解な命令を受けた人物が、落合地域の西隣りにある上高田地域に住んでいた。1941年(昭和16)に、JOAK(NHKラジオ)の依頼で童謡「たきび」を作詞した、詩人の巽聖歌(とまりせいか)だ。巽聖歌は、童謡の作詞依頼を受けると、いつも歩いている近所の通い道の情景をモチーフに、さっそく詩を創作した。初冬になると、空に手を拡げたような樹影から無数の落ち葉が降りそそぐ、ケヤキの大樹が繁った道沿いで、落ち葉焚きをする風景を詩にたくしたものだ。焚き火の中では、ときにクリやイモを焼く香ばしい匂いが漂ってもいただろう。
 


 ♪かきねの かきねの まがりかど
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪きたかぜぴいぷう ふいている
 作詞・巽聖歌で作曲・渡辺茂による『たきび』は、戦時中は軍部の圧力で禁止されていたが、戦後になると唱歌として小学校の音楽授業でも唄われるようになった。
 巽聖歌は、1930年(昭和5)ごろから上高田にある萬昌院功運寺Click!に隣接するあたりに住んでいる。当時の住所でいうと、上高田306番地界隈になるだろうか、ほとんど上落合と隣接するエリアだ。ちょうど同じころ、上高田82番地には歌人の宮柊二Click!が転居してきて住んでおり、また、すぐ近くの功運寺北東側にあたる上高田300番地には、詩人の秋山清Click!が住みついてヤギ牧場Click!を経営していた。
 巽聖歌は、故郷の岩手にいた時代から、鈴木三重吉Click!が主宰する児童雑誌「赤い鳥」Click!に強く興味をもち、童謡や童話を創作するようになった。20歳のときに近くの教会で洗礼を受け、キリスト教徒(プロテスタント)として讃美歌318番『主よ、主のみまえに』なども作詞している。北原白秋Click!に師事し、東京へやってくると童謡作品を次々と「赤い鳥」へ投稿していった。
 JOAK(NHK)からの依頼で作詞した『たきび』は、巽聖歌の散歩道にあった上高田の旧家・鈴木邸(鈴木新作邸?)の屋敷林に繁る、樹齢300年を超えるケヤキの落ち葉焚きを見て作詞したものだ。新井薬師前駅の南東、当時の地番でいうと上高田256番地あたりの敷地だ。下落合からでも散歩で歩ける距離圏だが、いまでもケヤキの大樹を含む濃い緑の屋敷林がそのまま残り、巽聖歌が散歩した当時の風情をしのばせてくれる。
 ♪さざんか さざんか さいたみち
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪しもやけ おててが もうかゆい



 現在でも、「♪かきねの かきねの~」と唄われる明治期に造作された竹垣を、そのまま目にすることができる。おそらく、鈴木家が庭で焚き火をしても、近隣の住民は火にあたろうと集まりこそすれ、誰もクレームなどつけやしないだろう。

◆写真上:明治期につくられ、そのまま継承されている鈴木邸の高い竹垣。
◆写真中上は、冬になるとオレンジ色の炎が恋しくなる焚き火。は、正月の“どんど焼き”Click!用に用意されている下落合氷川明神社の焚き火鉢。は、巽聖歌も目にしたかもしれない上高田氷川明神のどんど焼きが行われる結界を張った焚き火場。
◆写真中下上左は、上高田に住み『たきび』を作詩した巽聖歌。上右は、功運寺の近くにあった上高田の巽聖歌邸。は、師事した北原白秋の一門とともに。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる屋敷林が濃い鈴木邸とその周辺。
◆写真下は、現在の鈴木邸とその周辺の風情。は、『たきび』が発表された1941年(昭和16)の斜めフカン空中写真にみる巽聖歌の通い道(想定)。
昨年12月31日に測定した、南側のベランダ排水溝の放射線量。四谷地域つまり新宿区南東部にある原子力資料室が、2015年まで測定していた数値(0.06~0.10μSV/h)に比べ、北西部の緑が多い目白崖線沿いは、いまだに0.20μSV/hを超える倍以上の放射線量が、ケヤキなど樹林の葉へ濃縮されて含まれ、地上に降り注いでいるのがわかる。